第29話 焦げの海
「私、本当に、どこも痛くないんですけど」
昼休みのブースで、入江は、困ったように笑った。
「小林さんがどうしてもって言うから来ましたけど、なんともないんです。むしろ調子いいくらいで。……あ、でも、せっかくなので、お茶はいただきます」
「どうぞ。熱いですから、ゆっくり」
湯呑みを差し出しながら、透は、視ていた。
濃かった。葵のときの焦げが、まだ薄い膜だったとすれば、入江のそれは、幾層にも塗り重ねられた漆だった。若い身体の、本来ならみずみずしいはずの水色の光が、真っ黒な層の下で、豆電球ほどの小ささに、絞られている。
そして、焦げの層のあちこちに、小さな光の粒が閉じ込められて、消えかけていた。感情の、断片だった。嬉しい、悔しい、悲しい、疲れた。本来なら霧になって流れ、涙や愚痴になって外に出ていくはずのものが、出口ごと焼き固められて、燻っていた。
痛みだけを消す薬など、ない。痛みの回線は、感情の回線と、同じ束を通っている。まとめて焼けば、まとめて消える。
「入江さん。手、見せてもらえますか。……この、紙で切ったところ」
「ああ、それ、昨日の。全然痛くないんですよ」
人差し指の腹に、赤い線が残っていた。消毒もされていない、開いたままの傷だった。痛くないから、手当てという発想自体が、消えるのだ。
「今日は、鍼は一本だけです。治すためじゃなくて……あなたの身体の、声の出口を、ほんの少しだけ開けます。びっくりしないでくださいね」
美咲が、ブースの隅で、時計を確かめた。透が倒れて以来の、二人の決めごとだった。重い霧を相手にするとき、施術の深さと時間は、美咲が管理する。透がのめり込みすぎたら、止める。今日の入江の焦げは、これまでで、いちばん重い部類だった。
「先生。15分で、声かけますから」
「ええ。お願いします」
透は、滅菌パックの封を切った。
打つ場所は、迷わなかった。焦げの層の、ただ一箇所。豆電球の光が、いちばん外に近づいている、手首の内側の一点。そこに向かって、細い鍼を、皮膚のすぐ下まで、浅く、浅く、沈めた。深追いはしない。層を無理に剥がせば、閉じ込められていたものが、一度に噴き出す。今日は、針の穴ほどの出口を、一つ。
とん。
最初に起きたのは、まばたきだった。
入江のまばたきが、ふ、と遅くなった。それから、彼女は、自分の人差し指を、不思議そうに見つめた。
「……あれ」
声が、揺れた。
「指、じんじん、する。……え、なんで。痛い。これ、痛いんだ。私、昨日、こんなに切って……」
じわり、と。
入江の大きな目に、水の膜が張った。本人が、誰よりも戸惑っていた。
「なんで、涙……。すみません、私、別に悲しくなんか」
言葉の途中で、堰が、切れた。
入江は、両手で顔を覆って、泣いた。声を殺した、けれど身体全体が波打つような泣き方だった。美咲が、そっと隣に座って、背中に手を当てた。
「……私、気づいてなかった……。疲れたって、思うことすら、なくなってたんです……。配属されたばかりの頃は、終電で帰りながら、悔しくて泣いたりしてたのに。いつからか、なんにも……。痛いって言うと、迷惑だから。新人だから、頑張らなきゃだから。何も感じないほうが、楽で……楽っていうか、そうしないと、回らなくて……」
「もう、いいんですよ」
美咲の声も、掠れていた。かつての自分が、そこに座っていた。頭痛薬をコーヒーで流し込んでいた頃の自分より、もっと若くて、もっと深いところまで連れて行かれた自分が。
「痛いのは、生きてるってことです」
透は、鍼を収めて、静かに言った。
「今日開けた出口は、小さいものです。焦げは、一度では取れません。何度か通ってもらいます。それから……あの白い粒を、止められますか。あれを飲み続ける限り、出口はまた、焼き塞がれます」
入江は、濡れた顔を上げて、こくりと頷いた。頷いてから、初めて気づいたように、つぶやいた。
「……でも、私が止めたら、痛みスコア、上がっちゃいますね。部署の平均、下げちゃう」
スコアを、下げてしまう。
その一言の歪みに、この会社の今の全部が、詰まっていた。
午後、来客があった。
白瀬だった。アプリのデータ回収と運用報告のため、月に一度、来社することになっているらしい。廊下で行き合った透に、彼は、変わらない微笑みで会釈をした。
「柊木さん。ブースの再開、おめでとうございます。役員会でのご活躍は、伺いましたよ。いや、お見事でした」
「白瀬さん。あの白い粒は、なんですか」
透は、遠回りをしなかった。
「サプリメントと書いてありますが、あれはゼロペインだ。それも、前のものより強い。飲んだ人の身体が、そう言っています。医師の管理も外して、全社員に、一斉に。……あなたは何を、しているんですか」
白瀬は、微笑みを崩さなかった。ただ、眼鏡の奥の目が、す、と細くなった。
「改良版です。依存性を抑え、効果の持続を延ばした、次の世代の製品。発売前の、最終段階でしてね」
「発売前のものを、社員全員に、同意書一枚で」
「皆さん、ご自身で登録なさったんですよ。ポイントも貯まりますし」
白瀬は、タブレットの画面を、透に向けた。まっ平らなグラフの束が、並んでいた。
「ご覧なさい。痛みスコア、全社平均0.8。導入前は4.2です。素晴らしいでしょう。……それにね、柊木さん。これだけの規模で、これだけ均質な就労環境で取れる継続データは、めったにないんです。良質なデータですよ、実に」
データ。
その一言だけ、微笑みの温度が、違った。フロアを埋める社員たちの、焦げていく身体の話をしているのに、白瀬の目に映っているのは、まっ平らなグラフだけだった。
「以前、あなたに言いましたね。1万人より、目の前の一人だと。……あなたは今、目の前の一人を、一人も見ていない」
「見ていますよ。データポイントとして、お一人ずつ、大切にね」
白瀬は、会釈をして、去っていった。廊下の白い照明の下、その背中には、霧ひとつ、なかった。
夜、美咲が、青い顔でブースに来た。手には、プログラムの同意書の控えがあった。
「先生。条項の7番、読んでください。……『取得した健康データは、匿名加工の上、共同研究機関等の第三者に提供されることがあります』。それから10番。『本プログラムは予告なく内容を変更することがあります』。……これ、サプリの配布じゃないです。会社ぐるみの、実験です」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「痛いのは、生きてるってことです」。入江ちゃんに痛みが戻る場面は、この作品全体の心臓のつもりで書きました。痛みと一緒に、涙も、悔しさも、疲れたと思う心も戻ってくる。あの白い粒が消していたのは、痛みではなくて、その全部でした。
そして白瀬さんの「良質なデータ」。あの人の霧のなさが、私はいちばん怖いです。
次回、第30話「構造の名前」。この深淵の全体像に、名前がつきます。
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