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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第10章 組織の深淵

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第28話 痛くない人たち

 白い小箱は、月曜の朝、全社員の机に置かれていた。


 ウェルネス・サポート・プログラム。テーミス製薬協賛。箱の中には、白い粒の個包装が二週間ぶんと、アプリの登録手順を記したカードが入っていた。毎日の「痛みスコア」を記録すると、ポイントが貯まって、社内のカフェで使えるという。


 配布から三日で、フロアの音が、変わり始めた。


 最初に消えたのは、伸びをする人だった。午後3時、あちこちの席で、うーん、と腕を上げるあの光景が、なくなった。次に、肩を回す音が消えた。首をこきこき鳴らす人も、こめかみを揉む人も、目薬を差す人も、少しずつ、いなくなった。


 休憩室から、人が減った。


 痛くないから、休む理由がないのだ。


 美咲は、給湯室でお茶を淹れながら、静まり返ったフロアを見渡した。キーボードの音だけが、雨みたいに、一定のリズムで降り続いている。誰も雑談をしない。誰も立ち上がらない。効率だけを取り出せば、たぶん、過去最高の数字が出ているのだろう。


 なのに、背中が、うすら寒かった。


「小林さん、お疲れさまです」


 振り向くと、後輩の入江が立っていた。制作進行に、今年配属されたばかりの23歳。よく気がついて、よく笑う子だった。今も、笑っている。ただその笑顔が、このごろ、印刷したみたいに平らだった。


「入江ちゃん、昨日も遅かったでしょう。大丈夫?」


「全然、平気です」


 入江は、こともなげに言った。


「あのサプリ、すごいですよ。飲むと、肩とか目とか、ぜんぶ静かになるんです。徹夜しても、どこも痛くないから、いくらでもいけちゃいます。痛みスコア、私、ずっとゼロなんですよ。部署で一位です」


 誇らしげに見せてくれたスマホの画面には、まっ平らなグラフが表示されていた。ゼロ、ゼロ、ゼロ。十日間、ゼロが並んでいた。


 そのとき、美咲は、見てしまった。


 入江が持った書類の端が、彼女の人差し指の腹を、すっと裂いた。紙で切ったのだ。細い線から、血の玉がふくらんでいく。それなりに、痛いはずの切り方だった。


 入江は、気づかなかった。


 血の玉が書類の余白に、ぽつりと赤い点を作って、そこでようやく、あら、という顔をした。


「やだ、いつの間に。……すみません、この書類、汚しちゃったので刷り直します」


 痛がりもせず、指を舐めて、入江は行ってしまった。


 美咲は、その場から、しばらく動けなかった。



 昼休み、美咲はブースに駆け込んだ。


「先生。あのプログラム、やっぱり変です」


 伝票のルートを追っていた美咲には、今回の配布の異様さが分かっていた。これまでのゼロペインは、ヘリオス産業医クリニックの処方という形を取り、曲がりなりにも医師を経由していた。けれど今回の「サプリ」は、違う。テーミスから総務へ、直接納品されている。経営企画部の決裁で、産業医の判こが、どこにもない。


「郷原先生は、どうしてるんですか」


「それが……聞いていない、って。今回のプログラム、ヘリオスは完全に外されてるみたいなんです。総務の子が、郷原先生が珍しく声を荒らげてたって。医薬品まがいのものを医師の管理外で配るとは何事だ、って」


 皮肉な話だった。薬で最短再稼働を唱えてきた男が、今度は、薬の流れの外に置かれている。医師というブレーキごと、外されたのだ。


「入江ちゃんのこと、視てもらえませんか。あの子、指を切っても気づかなくて。……昔の葵を見てるみたいで、怖いんです。ううん、葵のときより、ずっと。……牧野さんみたいに、なる前に。お願いします」


「連れてきてください。なるべく早く」


 透の声も、低かった。



 その夜、透は、残業の続くフロアを、端から端まで、ゆっくりと歩いた。


 書類を届けるふりをして、視た。


 そして、後悔した。


 焦げていた。


 一人や、二人ではない。窓際の席も、島の真ん中も、役職者の席も。机に向かうすべての背中に、同じ色の、同じ質感の焦げが、うっすらと降り積もり始めていた。


 個人の霧には、本当は、一人ずつの色がある。過労の重い墨、飲み込んだ言葉の絡む霧、焦りの速い渦。それが今、この会社では、全部同じ色に塗りつぶされようとしていた。管理された、均一な、静かな焦げ。


 これは、もう、誰か一人の不調ではない。


(……風景ごと、焦げていく)


 フロアの照明は、明るかった。キーボードの音は、雨のように続いていた。誰も、痛くなかった。誰も、休まなかった。とても静かで、とても効率的な、真っ黒な海が、そこに広がっていた。


 透は、拳を、静かに握った。


 あの町で、師匠の患者たちが薬に流れていったとき。あれは、まだ、一軒の治療院の周りの話だった。今、目の前にあるのは、その完成形だ。白石を呑んだ白い流れが、この会社を、フロアごと呑もうとしている。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 痛くない人たち。伸びをしない、肩を回さない、休憩室に来ない。悲鳴が消えたフロアは、数字の上ではきっと絶好調です。入江ちゃんの、まっ平らな痛みスコアと、気づかれなかった血の玉が、この章のすべてだと思っています。

 そして今回のプログラムには、産業医の判こすらありません。ブレーキごと外された白い流れに、柊木先生はどう立ち向かうのか。

 次回、第29話「焦げの海」。入江ちゃんの施術と、白瀬さんとの再対峙です。

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