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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第9章 明かされる秘密

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第27話 望神

 白石の治療院は、路地の奥にあった。


 煤けた壁に、古い柱時計。畳の待合には、いつも誰かしら近所の年寄りが座っていて、順番が来ても来なくても、茶を飲んで帰った。廃人寸前だった透がその院に転がり込み、少しずつ人の形を取り戻して、見習いとして手伝いを始めた頃の話だ。


 その日、最後の患者を送り出したあとで、白石は、湯呑みを片手に、ふいに言った。


「透。お前、視えとるな」


 心臓が、止まるかと思った。


 患者の背中に触れる前から、こわばりの位置を言い当てる。訊かれてもいない古傷を避けて打つ。気をつけて隠していたつもりの全部を、この老人は、とっくに見抜いていた。


「……気味が、悪いですよね」


 透は、目を伏せた。子どもの頃に浴びた視線が、よみがえっていた。化け物を見る目。あれをまた向けられるくらいなら、破門のほうがましだった。


 けれど白石は、笑いも、驚きもしなかった。よっこらせ、と立ち上がって、帳場の隅から古い紙と筆を持ってくると、畳の上で、さらさらと二つ、言葉を書いた。


 望診。


 望神。


「読んでみい」


「……ぼうしん、と。どっちも」


「そうよ。同じ音だ。だがな、透。この一字が、天と地ほど違う」


 白石の節くれだった指が、最初の言葉を指した。


「望診というのはな、わしら鍼灸師が毎日やっとる、目で観る診察のことだ。顔色を観る。姿勢を観る。舌を観る。四診の最初の一つで、誰でも修行すれば身につく。……だが、昔の医書はこう言っとる。望診の極みは、そこにない」


 指が、隣の言葉へ滑った。


「神を、観る。神といっても、拝む神様のことじゃないぞ。その人の命の勢い、心のありよう。目の光や気配ににじむ、いちばん奥のものだ。それを一目で観抜くことを、望神という。昔から、それができる者を、最上の医者と呼ぶことになっとる。……透。お前のそれは、呪いでも化け物でもない。教科書のいちばん最初に書いてある、いちばん古い理想だよ」


 “望診”じゃない。お前のは、“望神”だ。


 紙の上の一字を、透は、長いこと見つめていた。二十何年、名前のなかったものに、初めて名前がついた。それも、こんなに、まっとうな名前が。


「まあ、視えるだけなら、ただの覗き見だがな」


 白石は、意地悪く笑って、茶をすすった。


「視えたものに、どう応えるか。そこからが医者の仕事よ。響かせるな、聴け。……お前の眼は、聴くために付いとる」



「……望神ぼうしん。それが、師匠のくれた名前です」


 夜のブースで、透は、話し終えた。


 美咲は、湯呑みを両手で包んだまま、長いこと黙っていた。それから、噛みしめるように言った。


「心まで視える眼、って、私、呼んでましたけど。……ちゃんと、昔から名前があったんですね。それも、いちばんいいお医者さんの名前が」


「師匠は、そういう人でした。俺が二十何年怖がってたものを、紙一枚で、ひっくり返した」


「その師匠は……白石先生は、今」


 透は、少しの間、湯呑みの中を見た。ここから先を話すのは、まだ、痛かった。それでも、昨日決めたのだ。この人には、話せる範囲の全部を話す、と。


「亡くなりました。……倒れたんです。晩年、あの人の周りは、変わってしまったから」


 地域の医療が再編されて、経営の数字が入ってきた。もっと効率よく、もっと回転を。一人に30分かける白石のやり方は、古い、遅い、と言われるようになった。そして、ちょうどその頃から、白い薬が、あの町にも流れ込んできた。痛みがすぐ消える、仕事を休まなくていい、と評判の薬が。


「師匠の患者さんが、一人、また一人と、薬に流れていきました。師匠は、それでも診続けた。自分の腰の痛みを、皮肉なことに、薬でごまかしながら。年寄りの身体に、あの白い流れは、強すぎたのに。……周りの誰も、止めなかった。俺も、止められなかった。弟子のくせに、師匠の霧が焦げていくのが視えていたくせに、何も言えなかったんです。あの人に世話になった負い目と、遠慮と……そういう、くだらないもののせいで」


 美咲は、口を挟まなかった。ただ、聞いていた。


「師匠を焦がした薬の流れを、あとから、ずっと辿りました。いくつも名前を変えて、いくつも会社を経由して。その先にあったのが、テーミス製薬です。そして、テーミスの薬がいちばん深く根を張ろうとしている会社が……ここでした。メビウスソフト。ヘリオス経由で、ゼロペインが一番大量に流れ込んでいる会社」


「……それで、先生は、うちに」


「ええ。福利厚生の求人を見つけたとき、選んだんです。偶然じゃありません。この会社なら、あの流れを、内側から視られると思った」


 潜入、という言葉ほど、格好のいいものではなかった。ただ、もう二度と、視えていながら黙って見送ることだけは、すまいと決めた。それだけだった。


「全部は、まだ話せません。師匠の最期のことは、俺の中でも、整理のついていない部分があるので。……いつか、必ず。それまで、待ってもらえますか」


「待ちます」


 美咲は、即答した。それから、背筋を伸ばした。


「でも、待ってるだけじゃ、ないです。あの納品伝票のルート、私、総務側から辿れます。先生は視る係、私は調べる係。……秘密って、共有したら、共犯って言うんですよ」


 冗談めかした言い方だったけれど、目は笑っていなかった。心強い、と透は、素直に思った。



 その翌週、全社員のメールボックスに、一通の案内が届いた。


 差出人は、総務部。件名には、こうあった。


 【全社施策】ウェルネス・サポート・プログラムのご案内(テーミス製薬協賛)。


 健康経営の推進に向け、鎮痛サポートサプリメントの無償サンプルを全社員へ配布します。専用アプリで、あなたの「痛みスコア」を毎日記録しましょう。


 ブースでそのメールを開いた透の目に、文面の白さが、妙に、焼きついた。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 第9章「明かされる秘密」、完結です。望診ではなく、望神。同じ音の、一字違い。化け物と呼ばれた眼が、実は医の古い理想の名前を持っていたこと。それを教えてくれた師匠が、白い流れの中で亡くなったこと。柊木先生がこの会社を「選んで」来た理由。……大きな扉を、いくつも開けた章でした。

 そして最後に届いた、全社員への白いメール。次章から第10章「組織の深淵」。物語は、いよいよ縦軸の核心へ入ります。

 面白いと思っていただけたら、ブックマークと評価で応援していただけると、とても励みになります。


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【今回の東洋医学メモ】望神ぼうしん


 覚えなくても物語は追えますので、お茶のおともにどうぞ。


 東洋医学の診察は「四診(ししん)」といって、望(見る)・聞(聞く・嗅ぐ)・問(尋ねる)・切(触れる)の4つで組み立てられています。第16話のメモでご紹介した、あの望聞問切です。その最初の「望診」は、顔色や姿勢、舌などを目で観る診察のこと。


 そして古い医書には、望診の中でもいちばん大事なものとして「神を観る」ことが挙げられています。ここでいう(しん)は、神様のことではなく、その人の生命力や心のありよう、目の光ににじむ勢いのようなもの。これを一目で観抜けることを「望みて之を知る、これを神と謂う」なんて言い方で、最上の医者の条件としてきました。


 柊木先生の「黒い墨の霧」は、もちろんフィクションの異能です。ただ、その根っこに置いたのは、この望神という古い理想でした。白石先生が紙に書いた一字の違いは、実際の東洋医学の言葉の上でも、ちゃんと存在する違いなのです。


 診察室で先生にじっと顔を見られたとき、ちょっとだけこの言葉を思い出していただけたら、うれしいです。


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