第26話 怖いですか?
非常灯の緑だけが、暗いフロアに滲んでいた。
透は、倒れた椅子を難なくまたぎ、迷いのない足取りで矢代のそばに膝をついた。転がったマグカップも、床を這う延長コードも、一度も踏まなかった。暗さは、透の目には、たいした問題ではなかった。矢代の胸の上で、あの薄い渦が、壊れた独楽のように、めちゃくちゃに乱れて回っているのが、はっきりと視えていたからだ。
「矢代さん。聞こえますか。大丈夫、心臓は壊れていません」
浅く速い呼吸。過呼吸だ。動悸に驚いた身体が、息を吸いすぎて、余計に苦しくなっている。
「吸わなくていい。吐くほうだけ、数えましょう。俺の声に合わせて。……ひとつ。ふたつ」
透の手のひらが、暗がりの中で、まっすぐに矢代の手首の内側へ伸びた。探らなかった。最初から、そこにある一点を知っているみたいに、指の腹が、静かに押さえた。乱れた渦の、ちょうど根元だった。
「みっつ。……そう、上手です」
美咲が、ブースから透の鞄を抱えて走ってきた。透は片手で封を切り、細い鍼を一本、手首のその一点に、浅く、静かに沈めた。
とん。
壊れた独楽が、ゆっくりと、回転を取り戻していく。浅かった呼吸が、少しずつ深くなり、胸を掻きむしっていた矢代の手から、力が抜けた。
「……すみま、せん……。急に、心臓が、ばくばくして……死ぬかと、思って」
「発作は、それ自体では死にません。怖かったですね。……今夜はもう、資料はいいですから。帰って、寝ましょう。渦の燃料は、もう足さない約束でしたよ」
矢代は、泣き笑いのような顔で、頷いた。
タクシーに矢代を乗せ、残業していた社員も帰って、フロアには、透と美咲だけが残った。
非常灯の緑の下で、美咲は、ずっと黙っていた。やがて、口を開いた。
「先生。……暗くても、視えてるんですよね」
静かな声だった。
「さっき、先生、倒れた椅子をよけました。コードも踏まなかった。私、先生の後ろを走ってて、二回つまずいたのに。それに、矢代さんの手首。暗闇で、探しもしないで、一発で。……あれは、目で見てたんじゃない」
透は、答えなかった。答えないことが、もう答えだった。
「明日。……ブースで、聞いてもらえますか。全部、話します」
翌日の夜。最後の予約が終わったブースで、透は、二つの湯呑みにお茶を注いだ。
いつもは患者に出す側の椅子に、美咲が座っている。透は、少しの間、湯気を見ていた。どこから話せばいいのか。三十二年の人生で、これを自分から話すのは、初めてだった。
「俺には、視えるんです。人の身体の……不調が。歪みが。色と、形で」
言ってしまえば、一行だった。
「黒い、墨の霧みたいに視えます。元気な流れは、淡い水色の光。滞ると、墨になる。濃さも、質感も、人によって違う。過労の霧は重くて分厚い。飲み込んだ言葉は、喉のところに絡みつく。薬で無理をしている人のは、焦げて、真っ黒になる」
美咲は、瞬きも忘れたように、聞いていた。
「初めて会った日の、美咲さんは」
透は、湯呑みに目を落とした。
「黒い霧が、心臓に向かって、渦を巻いていました。頭からも、顎からも、喉からも、細い霧が全部、心臓へ流れ込んでいた。ぱんぱんに張り詰めて、今にも、どこかが破れそうで。……頭痛と、食いしばりと、喉のつかえの根が一つだと言い当てたのは、観察でも、名医の勘でもありません。視えていたからです。ただ、それだけなんです」
「……どうして、隠してたんですか」
「怪しいでしょう」
透は、少しだけ笑った。笑ったつもりだったが、うまく笑えたかは、分からなかった。
「霧が視える、なんて。オカルトだと言われるならまだいい。気味が悪いと思われるのが、普通です。心の中を覗かれてるみたいで、嫌でしょう。……子どもの頃、一度だけ人に話して、化け物を見る目で見られたことがあります。それからは、誰にも言っていません。師匠にだけは、隠せませんでしたが」
視えるのに、視えないふりをして観察の言葉に翻訳する。その二重の手間を、透は、二十年以上続けてきた。それでも視えてしまう以上、視えたものを使わずに人の前に立つことは、透にはできなかった。科学だけでは取れない痛みが、目の前にあるのに、知らないふりをすることのほうが、透には嘘だった。
「美咲さん」
透は、顔を上げた。
「怖いですか」
短い問いに、これまでの人生の全部が乗った。
美咲は、湯呑みを、ことりと置いた。それから、まっすぐに透を見て、はっきりと、首を横に振った。
「怖くなんて、ないです」
声は、少しも揺れなかった。
「だってそれは、私を何度も救ってくれた眼じゃないですか。頭痛だけ見て薬を出すんじゃなくて、私の、誰にも言えなかったところまで視て、根っこから治してくれた。矢代さんも、堀内さんも、葵も、みんなそうです。……先生、私、ずっと心配だったんです。先生は視えすぎる分、他の人の痛みを、ひとりで背負いすぎてるんじゃないかって。今日、話してくれて、よかった」
透は、何も言えなかった。
二十年以上、化け物と思われることを恐れて抱えてきたものが、目の前で、こんなにあっさりと、あたたかいものに変わってしまった。
「私、勝手に『心まで視える眼』って呼んでましたけど」
美咲は、少しだけ笑って、それから、ふと真顔になった。
「先生のお師匠さんは……この眼のこと、なんて呼んでたんですか」
透は、湯呑みの中の、揺れる水面を見た。
「その話をするには、師匠の話を、しないといけません。……それから、たぶん。俺が、この会社に来た本当の理由の話も」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「怖いですか」「怖くなんて、ないです」。この往復を書くために、25話ぶん積み上げてきたような気がします。化け物と思われることを恐れてきた人の秘密が、いちばん救われてきた人の口で、まっすぐに肯定される。書いていて、手が少し震えました。
そして次回は、師匠・白石宗玄の回想です。この眼に与えられた、本当の名前。柊木先生がこの会社に来た理由の、その入り口まで。
次回、第27話「望神」。第9章のしめくくりです。
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