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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第9章 明かされる秘密

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第25話 視えすぎる眼

 再開したブースは、連日、予約で埋まった。


 役員会議の一件は、尾ひれをつけてフロア中に広まっていた。数値で完治だった課長を一本で楽にした、あの会議で専務を黙らせた、いや専務が頭を下げたらしい。噂の半分は間違いだったけれど、おかげで、これまでブースに来なかった層まで、扉を叩くようになった。


 その日の最後の枠に来たのは、企画部の矢代だった。


 20代半ば。社内コンペで続けて企画を通している、いま伸び盛りの若手だ。座った姿勢がいいのに、どこか、座っていない感じがした。腰を下ろしても、身体のどこかが、まだ立って歩いているような。


「あの、俺、どこも痛くはないんです」


 矢代は、申し訳なさそうに切り出した。


「ただ、眠れなくて。横になっても、頭が回りっぱなしで。企画のこととか、明日の会議とか、さっき送ったメールの文面とか。動悸っていうんですかね、心臓がやたら大きく聞こえる夜があって。……こういうのも、鍼で、どうにかなるものですか」


「なりますよ。まずは、温かいお茶でも」


 湯呑みを差し出しながら、透は、視ていた。


 矢代の霧は、頭の周りにあった。重くはない。むしろ薄くて、速い。頭のまわりを、小さな渦になって、ぐるぐると回り続けている。心臓の上にも、同じ渦の切れ端が、ちらちらと瞬いていた。休むことを忘れた霧だった。眠っている間も、この渦は回り続けているのだろう。


「矢代さんは、走ってる夢を見ませんか。走ってるか、追いかけられてるか」


「……え。見ます。けっこう」


「布団の中でも、頭のどこかで、ずっと走ってるんでしょうね。……止まったら、置いていかれる気がしますか」


 矢代の顔から、表情が落ちた。


 長い沈黙のあとで、彼は、他人に初めて話すことを話す人の声で、ぽつりと言った。


「……同期に、すごいやつがいるんです。あいつが企画を通すたびに、俺も何か出さなきゃって。休みの日に休んでると、なんか、怖くて。止まってる間に、全部進んじゃう気がして。……なんで、分かるんですか。そんなこと、誰にも」


「身体に、書いてありますから」


 透は、いつものように、そう言って笑った。


 施術は、一本だった。頭の渦から離れた、手首の内側。細い鍼が、静かに沈むと、矢代は、ふ、と長いあくびをした。本人が、いちばん驚いていた。


「あく、び……。俺、あくびって、久しぶりに出たかも」


「身体が、止まっていい許可を出したんですよ。今夜は、スマホを寝室の外に置いて寝てみてください。渦の燃料を、足さないことです」


 矢代は、何度も礼を言って、少し覚束ない、けれど柔らかい足取りで帰っていった。



 片付けをしながら、透は、視線に気づいた。


 美咲が、ブースの入り口に立っていた。予約表の確認に来たはずの彼女は、いつからか、そこに立ったまま、じっと透を見ていた。


「美咲さん。どうしました」


「……先生。さっきの矢代さん、初対面ですよね」


「ええ」


「カルテも、まだ書いてない。総務からの事前情報も、名前と所属だけです。私が渡したので、知ってます」


 美咲の声は、静かだった。責めている声ではない。ただ、積み上げてきたものを、ひとつずつ、机に並べていくような声だった。


「なのに先生は、走ってる夢のことも、同期の人のことも、止まったら置いていかれるって気持ちも、言い当てました。……最初は、観察なんだと思ってたんです。プロだから、姿勢とか、目の動きとか、そういうところから読むんだって」


 湯呑みを洗う透の手が、止まった。


「でも、私、ずっと近くで見てきました。いちばん最初の、私のときから。先生は、初対面の私の、頭痛と、食いしばりと、喉のつかえを、触る前から知ってた。美容鍼のときは、綺麗になりたいの奥にある気持ちまで。永井さんのときも、堀内さんのときも。……観察で分かる範囲を、超えてます。ずっと、超えてたんです」


 夜のオフィスは、静かだった。空調の音だけが、低く続いていた。


「この前、聞きたいことがあるって言ったの、これなんです」


 美咲は、一歩、ブースの中に入った。


「先生には、何が視えてるんですか」


 まっすぐな目だった。怯えも、疑いもない。ただ、知りたいという目。……いや、と透は思った。それだけじゃない。あの目の奥にあるのは、心配だ。施術続きで倒れた透を、いちばん近くで支えた人の目だった。視えすぎる人が、視えすぎるせいで何かをひとりで背負っているんじゃないかと、そういう心配をしている目だった。


 言おうか。


 喉元まで、出かかった。そのときだった。


 フロアの奥で、何かが倒れる、大きな音がした。


 続けて、誰かの掠れた声。「……矢代くん? ちょっと、大丈夫!?」


 透と美咲は、顔を見合わせ、同時に走り出した。フロアの照明は、もう大半が落ちて、非常灯の緑と、点在するモニターの明かりだけが、暗がりにぼんやり浮かんでいた。その暗がりの奥、給湯室の手前で、矢代が、椅子ごと倒れていた。胸を押さえ、浅い息を、切れ切れに繰り返している。


「帰る前に、資料だけって……戻って、きてて……」


 残業していた社員が、青い顔で言った。


 暗い。人を運ぶにも、明かりのスイッチは遠い。矢代の呼吸は、どんどん浅く、速くなっていく。


 透は、迷わなかった。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 美咲さんの「先生には、何が視えてるんですか」。第1話からずっと積み上がってきた「異常な精度」に、いちばん近くにいた人が、ついに気づきました。彼女の目にあるのが疑いではなく心配だというのが、この章の入り口です。

 そして、暗がりのフロアで倒れた矢代さん。明かりのない場所で、柊木先生はどう動くのか。それが、答えそのものになってしまいます。

 次回、第26話「怖いですか?」。この物語で、いちばん大事な問いの回です。

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