第24話 意地の在り処
一週間後、総務から全社に通達が出た。
施術ブースの運用を再開する。リカバリーラウンジは出力設定と運用方法を見直し、完治判定の表示を廃止する。短い文面だった。けれど、その短さの奥で何が起きたのかは、あの会議室にいた者なら、誰でも知っていた。
再開の前日、透は、返却されていたブースの鍵を受け取りに、医務室へ寄った。
郷原が、ひとりで資料を片付けていた。廃止提案の分厚い資料が、シュレッダーの脇に、無造作に積まれている。ヘリオス産業医クリニックには、会社から「提携内容の見直し」の申し入れが行ったという。役員たちの信頼という数字は、あの日、目に見えて下がった。
ブースが停止していた数日のあいだに、制作部の牧野が倒れ、戻らなかった。その一報が役員会でどう響いたのか、透は知らない。ただ、郷原がそれを知らないはずは、なかった。
「……笑いに来ましたか、鍼師どの」
郷原は、振り向かずに言った。
「鍵を、受け取りに来ただけです」
「そうですか」
沈黙が、落ちた。郷原は資料の束を揃え、几帳面に角を合わせてから、ようやく透のほうを向いた。
「ひとつ、聞かせてください。あなたは、あの会議で私を叩き潰せた。オカルトだ何だと言い続けてきた男を、公開の場で。……なぜ、しなかったんです」
「叩き潰す理由が、ないからです」
透は、そのまま答えた。
「あなたの言うことには、一理ありますよ。痛みで仕事が止まる人にとって、薬が最良の時短ツールになる場面は、現実にある。丁寧にやる医療は、時間がかかる。患者さんの生活は、それを待ってくれないことがある。……俺は鍼師ですが、鍼が万能だとは思っていません。倒れる寸前の人に、まず薬で今夜を越えてもらうことだって、あるでしょう」
郷原の眉が、かすかに動いた。予想していた言葉と、違ったらしい。
「ただ、順番の話なんです。薬で消していいのは、聴き終わった痛みだけだ。聴く前に消してしまえば、身体は、もっと大きな声で言い直すしかなくなる。堀内さんの顔の痙攣が、それでした」
「……私もね」
郷原は、窓の外に目をやった。
「昔は、時間をかける医療をやろうとしたことが、あるんですよ。若い頃、地方の病院でね。患者の生活を聞いて、仕事を聞いて、酒の量を聞いて。ひとりに30分かけて、院長に怒鳴られました。外来が回らん、とね。患者のほうも、そうだ。先生、話はいいから早く薬をくれ、明日も仕事なんだ、と。……そのうち、分かってきた。誰も、待ってくれないんですよ。丁寧さを。数字だけが、待ってくれた。数字は裏切らない。処理した人数、下がった訴え、削減された休職日数。積み上げれば、評価される」
淡々とした声だった。愚痴でも、言い訳でもなく、ただの経過報告のような。
「今だって、そうです。私だって、上から数字を求められている。ヘリオスの経営数字。提携先の、製薬会社の導入実績。産業医は、聖職じゃない。歯車ですよ、鍼師どの。あなたが思っているより、ずっと大きな機械の」
製薬会社、という言葉のところで、郷原の声は、ほんの少しだけ低くなった。
透は、その背中を、視た。
黒い霧は、ほとんどなかった。焦げも、ない。その代わり、胸の真ん中から指先まで、霧のかわりに、冷えがあった。凍りついた川のような、流れることをずっと前にやめた、静かな冷えだった。怒りも、悲鳴も、とうに上げなくなった身体。それは、透がこれまで視てきたどの霧よりも、いっそ静かで、いっそ重かった。
「郷原さん。肩、凝ってませんか」
「……は?」
「いえ。凝ってるとかじゃ、ないんでしょうね、あなたの場合は」
透は、鍵を手の中で、ひとつ握り直した。
「気が向いたら、いつでもどうぞ。ブース、再開しますから。……温かいお茶くらいは、出せます」
郷原は、しばらく透を見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らして、資料の束を抱え直した。
「結構です。……私は忙しい」
扉のところで、一度だけ、足が止まった。
「堀内さんの経過観察は、こちらでも続けます。産業医として。……それが、仕事ですから」
扉が、閉まった。
再開初日のブースには、朝から予約が並んだ。
最初の枠に来たのは、堀内だった。顔色は、見違えるほど戻っていた。施術のあと、湯呑みを両手で包んで、彼は照れくさそうに言った。
「先生。俺、上に言い返しましたよ、初めて。稼働率の資料、作り直させてくれって。回復スコアじゃなくて、残業時間と休職者数で出し直すって。……部長は渋い顔してましたがね。まあ、噛み潰すよりは、マシです」
言う場所がない、と言っていた人が、言う場所を、自分で作っていた。
透は、お茶を淹れながら、遠い日のことを思い出していた。
白石の治療院で、一度だけ、聞いたことがある。師匠、伝統の技法って、そんなに偉いんですか。中国の太い鍼だって、効く人には効くんでしょう。若かった透の生意気な問いに、白石は、怒らなかった。わしはな、伝統なんぞに義理はないよ、と笑った。
太い鍼が要る身体には、太いのを打てばいい。細いのが要る身体には、細いのを。目の前の一人に、どっちが要るかを聴き分けること。技を選ぶのは、流派の意地じゃなくて、その一人だ。それを忘れた技法は、伝統だろうが最新だろうが、ただの自己満足よ。
意地の在り処は、技法にではなく、目の前の一人に。
湯気の向こうで、堀内が、うまそうにお茶をすすっていた。
午後の予約の合間に、美咲が、ブースに顔を出した。
再開おめでとうございます、と笑ってから、彼女は、少しだけ迷うように、湯呑みの縁を指でなぞった。
「先生。今度、時間のあるときで、いいんですけど」
「はい」
「聞きたいことが、あるんです。……ずっと、不思議に思ってたことで。でも、聞いていいのか、分からなくて」
美咲の目は、真剣だった。
透の胸の奥で、何かが、小さく音を立てた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第8章「伝統の技法、あるいは意地」、完結です。郷原先生は、ただの悪役ではありませんでした。丁寧さを誰にも待ってもらえなかった人が、裏切らない数字だけを信じるようになった。その冷え切った背中を、柊木先生は叩き潰さずに、お茶に誘いました。ふたりの関係は、これで終わりではなく、たぶん、ここからです。
そして最後の美咲さんの「聞きたいこと」。……勘のいい皆さまなら、もうお気づきかもしれません。
次回から第9章「明かされる秘密」。この物語の、いちばん大きな扉が開きます。
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