第23話 病を診ずして
役員会議は、午前10時に始まった。
議題の2番目、健康施策の成果報告。スクリーンには、右肩上がりの回復スコアのグラフが映っていた。演台に立つ堀内の声を、美咲は、議事録係として末席から聞いていた。
「リカバリーラウンジの利用率は8割を超え、利用者の回復スコアは平均で……平均、で……」
声が、途切れた。
堀内の右手が、こめかみを押さえた。指の間から見える顔の右半分が、細かく引きつっている。マイクが、荒い息を拾った。
「すみません、少し、頭が……」
膝が、落ちた。倒れ込む堀内を、駆け寄った永井が抱きとめた。会議室が、一気にざわめく。
「郷原先生、お願いします」
総務部長の声で、同席していた郷原が立ち上がった。腕時計型の測定器を堀内の手首に巻き、目の動きを確認し、血圧を測る。その手つきは、さすがに速かった。
「意識は清明。血圧はやや高いが、危険域ではない。データ上は、大きな異常はありません。過緊張による頭痛でしょう。医務室で鎮静剤を」
「い、いらん……薬は、もう……」
堀内が、呻いた。こめかみを押さえたまま、脂汗を流している。鎮静剤、という言葉に、身体のほうが先に拒否を示していた。永井が、顔を上げて叫んだ。
「柊木先生を呼ばせてください。下の喫茶店にいます。5分で来ます」
「部外者を役員会議に入れる気か」
郷原の声が、初めて尖った。けれど、それを遮ったのは、上座の専務だった。白髪の、口数の少ない人だ。
「呼びなさい。……議論は、それからでいい。今は、堀内くんを楽にするのが先だ」
透は、本当に5分で来た。
会議室の床に膝をつき、堀内の首筋に手のひらを当てる。視えたのは、限界まで厚くなった鎧と、その内側で行き場を失って暴れる、真っ黒な霧だった。逃げ道を全部ふさがれた霧が、いちばん薄い場所、顔の神経へ、噴き出している。
「堀内さん。息を、吐けるだけ吐いてください。……そう。あとは、俺がやります」
滅菌パックの封を切る。細い鍼、一本。
指の腹が、首の付け根から肩へ、鎧の継ぎ目を探って滑る。強い刺激で締め上げられた層の、いちばん奥。ほんのわずかに、霧が息をしている一点があった。ツボは、そこに動いていた。
透は、息を止め、静かに沈めた。
とん。
張り詰めていた堀内の肩から、音もなく、力が抜けた。引きつっていた顔の右半分が、ゆっくりと、ほどけていく。荒かった呼吸が、深く、長くなった。
「……あ……。抜けて、いく……」
こめかみから、首から、栓を抜いたように。堀内は、床に座り込んだまま、しばらく呆然と、自分の手のひらを見つめていた。会議室は、静まり返っていた。スクリーンには、まだ、右肩上がりのグラフが映ったままだった。
その静けさの中で、専務が、口を開いた。
「……柊木さん、と言ったかな。今のは、何をしたんです」
「締まりすぎた身体を、一箇所だけ、ゆるめました」
透は、鍼を収めながら、立ち上がった。
「堀内さんの回復スコアは、先週、完治判定が出ています。数値の上では、この方は健康です。……ですが、よろしければ、確かめてみませんか。数値ではなく、身体のほうを」
透は、会議室を見回した。
「リカバリーラウンジで完治判定を受けた方が、この場に、あとお二人いらっしゃるはずです。総務の資料に、利用者リストがありますから」
美咲が、はっとしてリストをめくった。総務課の係長と、営業部の次長。名前を呼ばれた2人が、戸惑いながら前に出る。
「簡単なことしか、しません。まず、首をゆっくり右に回してみてください。無理はせずに」
総務の係長が、首を回した。右は、肩の線を越えたあたりで止まった。左は、もっと手前で止まった。本人が、いちばん驚いた顔をした。
「次に、両腕を、耳につくまで上げてみてください」
営業の次長の腕は、耳のだいぶ手前で震えて止まった。透が、その肩の一点を軽く押すと、次長は、声にならない声を上げて飛び上がった。
「痛みの感じ方は、人によります。それは主観だと言われれば、そうでしょう」
透は、静かに続けた。
「ですが、首が回る角度と、腕が上がる高さは、主観ではありません。分度器で測れます。完治判定のお二人の身体が、今、これだけ硬い。堀内さんは、完治判定の翌週に、ここで倒れた。……スコアが測っているのは、刺激の直後の、一時的な反応だけです。鎧の厚さは、あの数字には映らない」
誰も、何も言わなかった。
郷原が、口を開きかけた。データの取得方法には合理性が、と言いかけて、その視線が、床に座り込んだままの堀内と、首を押さえている係長と、肩をさすっている次長の上を、順にさまよった。言葉は、続かなかった。
透は、郷原を責めなかった。声も、荒らげなかった。ただ、ひとつだけ、遠い日に聞いた言葉を思い出していた。
白石の治療院の、煤けた壁。師匠は茶をすすりながら、こう言ったのだ。西洋の医者にもな、立派なことを言った人がおるんだよ、透。わしはこの言葉が、たいそう好きでな。
「……病を診ずして、病人を診よ」
透は、言った。会議室の静けさの上に、置くように。
「高木兼寛。日本の西洋医学の、先人の言葉です。数値という病だけを診て、堀内さんという病人を診ないなら。それは、鍼か薬か、東洋か西洋かという話ではなく。ただ、医療ではない、というだけの話だと思います」
勝ち誇りは、しなかった。それは郷原への言葉であると同時に、いつか自分の限界を数に入れず倒れた、自分自身への言葉でもあったからだ。
専務が、長い沈黙のあとで、議事進行の紙を伏せた。
「……議題の3番は、預かりとする。施術ブースの件は、本日は決議しない」
郷原の手の中で、廃止提案の資料が、小さく音を立てた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「病を診ずして、病人を診よ」。脚気の原因をめぐる論争で知られる、高木兼寛の言葉です。数字と実物、どちらを診るのか。柊木先生はまず身体で実証してから、最後に一言だけ、この言葉で封をしました。声を荒らげないざまぁを書きたかった回です。
廃止決議は、ひとまず預かりに。ですが、郷原先生との話は、まだ終わっていません。彼が何を背負ってあの数字を信じてきたのか。次回、それが少しだけ見えます。
次回、第24話「意地の在り処」。第8章のしめくくりです。
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