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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第8章 伝統の技法、あるいは意地

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第22話 響かせる鍼

 施術ブースのあった一角は、様変わりしていた。


 パーティションが取り払われ、白い機械が3台、整然と並んでいる。高出力の電気刺激をかける装置と、背中を強く揉み上げるチェア。壁には「リカバリーラウンジ」と印字されたパネルが掛かり、その下に、白いカプセルの配布箱が置かれていた。ヘリオス産業医クリニック提供、郷原秀一監修。案内メールには、そう書かれていた。


 美咲は、給湯室の前からその光景を眺めて、湯呑みを持つ手に、少しだけ力をこめた。


 温かいお茶の出てくる場所は、もう、あそこにはない。


 昼休み。リカバリーラウンジの前に、短い列ができていた。並んでいる社員たちの表情は、悪くない。強い電気で筋肉を揺さぶられると、直後は、たしかに軽くなるのだという。効いた感じがする、と誰かが言った。ビリビリ響くのがいい、とも。


 列の先頭に、開発課の課長、堀内がいた。42歳。永井の上司にあたる人だ。大型案件の納期見直しのあと、部長からは数字を詰められ、下からは残業を減らせと突き上げられ、その板挟みを、全部ひとりで呑み込んでいる人だった。


「課長、また来てるんですか」


 列の後ろから永井が声をかけると、堀内は笑って、こめかみを揉んだ。


「ああ。目の奥が重くてな。ここで響かせてもらうと、その日は楽なんだ。週2回は通ってる。数値も良くなってるらしいぞ。ほら」


 堀内が見せたスマホの画面には、折れ線グラフがあった。回復スコア。ラウンジの機械が測る数値は、右肩上がりで、先週、ついに「改善完了」の判定が出たのだという。


 完治、という文字が、画面の隅で小さく光っていた。



 その夜、会社裏手の喫茶店。


「……というわけなんです、先生」


 美咲に連れられて現れた堀内は、店の椅子に座るなり、深く息を吐いた。近くで見ると、顔色は土気色に近い。目の縁が落ちくぼみ、こめかみには、指で押さえ続けたあとが、薄く残っていた。


「数値の上では、完治らしいんですがね。正直、朝がいちばんひどい。目の奥が締め付けられて、歯の根が浮くようで。……妙な話でしょう。通えば通うほど、その場は楽で、翌朝は重くなる」


「見せてもらっても、いいですか」


 透は、堀内の肩に、そっと手のひらを置いた。


 視えたのは、波立った霧だった。


 黒い墨の霧が、こめかみから首筋、肩へと流れている。それ自体は、働きすぎの身体によくある景色だ。けれど、その霧の表面が、おかしかった。殴られた水面のように、細かく波立って、逆立っている。そして、霧の下の筋肉が、鎧を着込んだように、幾重にも締まっていた。外から何かが来るたびに、身体が身構えて、固めた層だ。


(これは……効いてるんじゃない。殴られてるんだ)


「堀内さん。あの機械、かなり強く響きますよね」


「ええ。響けば響くほど、効いてる気がして。強めの設定にしてもらってます」


「その響きを、身体は、攻撃と区別できていないんです」


 透は、静かに言った。


「強い刺激が来ると、身体は身構えます。次に備えて、硬くなる。その硬さを、次の強い刺激でまた上書きする。直後に楽なのは、感覚が一時的に飽和しているだけです。鎧は、毎週、厚くなっていく。……揉み返しと、同じ構造ですよ。あなたの身体は今、鎧の内側で、悲鳴を上げています」


 堀内は、しばらく黙っていた。それから、自分のこめかみに、そろりと触れた。


「……悲鳴、ですか。俺は、その、悲鳴ってやつを」


 言いかけて、堀内は口をつぐんだ。奥歯が、ぎり、と小さく鳴った。歯ぎしりの癖は、夜だけではないらしい。上に言い返したい言葉と、下に謝りたい言葉を、両方まとめて噛み潰してきた顎だった。


 透は、鞄から滅菌パックを一つ取り出し、封を切った。細い鍼が、喫茶店の照明の下で、澄んだ光を弾く。


「今日は、表面の波だけ、鎮めます。一本だけ」


 指の腹が、堀内の首の付け根を、ゆっくりと滑った。逆立った霧のいちばん際、鎧のわずかな継ぎ目を探り当てる。息を合わせて、静かに、沈めた。


 とん。


 堀内の肩が、ふ、と落ちた。


「……あ」


「響かないでしょう」


「響かない、のに……軽い。なんだ、これは」


「鍼は、響かせるものだと思われがちですけどね」


 透は、鍼を収めながら、少しだけ笑った。


「俺の師匠は、逆のことを言いました。響かせるな、聴け、と。身体の声を聴けば、強く叩く必要はないんです。……ただ」


 声を、あらためる。


「今日ので取れたのは、表面だけです。鎧の下の、噛み潰してきたものは、まだそのままだ。あのラウンジに通い続ける限り、鎧は厚くなる。できれば、通うのを」


「やめられたら、苦労しませんよ」


 堀内は、力なく笑った。


「会社が旗を振ってる健康施策です。課長の俺が使わなかったら、下が使いにくくなる。数値が改善したって報告も、もう上げちまった。……先生。俺はね、来週の役員会議で、開発部の稼働率を報告するんです。リカバリープログラムの成果、って資料つきでね」


 来週の役員会議。


 美咲が、はっと顔を上げた。それがどういう会議か、彼女は総務経由で知っていた。郷原が、施術ブースの正式廃止を提案する場だ。運用停止のままなし崩しに終わらせず、決議として、とどめを刺しに来る。


「堀内さん、それ……」


「ああ。あんたの言う鍼の先生の、ブースを畳む話も、同じ議題に載ってるらしいな」


 堀内は、透を見た。すまなそうな、それでいて、どうにもならないものを抱えた目だった。


「悪いが、俺は成果の側で、数字を読む役だ。……本音を言えばね、先生。あんたの一本のほうが、よっぽど効いた。けど俺には、それを言う場所がない」


 言う場所がない。


 その一言が、堀内の喉の奥で、また噛み潰される音を、透は聴いた気がした。



 数日後の朝。


 役員会議の招集メールが、各部門に流れた。議題の3番目に「福利厚生施策の見直し(施術ブース廃止の件)」の文字が、そっけなく並んでいた。


 同じ朝、リカバリーラウンジの列に並んだ堀内の顔の右半分が、ぴく、ぴくと、小さく痙攣していることに、気づいた者は、まだ誰もいなかった。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 第8章、始まりました。強く響かせるほど「効いた気がする」のに、身体は鎧を着込んでいく。揉み返しの構造が、最新の機械とスコアをまとって帰ってきました。第8話で柊木先生が言った「響かせるな、聴け」が、いよいよ真正面から試されます。

 そして来週の役員会議。ブース廃止の決議と、堀内課長の異変が、同じ場所に向かって進んでいきます。

 次回、第23話「病を診ずして」。柊木先生が、静かに一線を越えます。

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