第21話 それでも、聴く
お疲れ様です。
第7章のしめくくりです。今回は、少しだけ、つらい回かもしれません。線を引かれた柊木先生は、間に合った手と、間に合わなかった手の、両方を知ります。それでも、鍼を手放さない。その理由を、どうか、見届けてください。
牧野が倒れたと知らされたのは、ブースの運用停止から、三日目のことだった。
美咲が、青い顔で、廊下を走ってきた。深夜のオフィスで、牧野が突然、机に崩れ落ちたのだという。救急搬送。命は、取り留めた。
けれど、意識が戻ったあとも──以前の牧野は、戻ってこなかった。言葉が、少し不自由になった。長くは、座っていられない。医者は、過労と、痛みを感じないまま重ねた無理が、身体のどこかを、静かに焼き切ったのだろうと言った。
透は、廊下に立ち尽くした。
あの日、呼び止めた背中。「大丈夫、今行く」と、誰かの穴を埋めに走っていった、あの小走り。淡い焦げは、あのとき、もう薄い膜ではなかった。追いかけて、肩に触れたかった。けれど、ブースは閉じられ、透の手は、白い線の内側に、縛りつけられていた。
間に合っていれば。
あのとき締め出されていなければ、牧野の背に沈む漆を、止められたかもしれない。せめて、少しは、遅らせられたはずだ。「また来てくださいね」と言った、その「また」は、とうとう、来なかった。
効率を急ぐ数字は、いつも、手当ての温もりより速い。そして時に、人ひとりの一生よりも、速い。
胸の奥で、遠い日の沈黙が、疼いた。枯れていく師の背中に、ひと言も言えなかった、あの日と。救えるはずの手が、届かない。その痛みだけが、歳月を隔てて、そっくり同じ形をしていた。
──それでも。だからこそ、止まれない。
その夜、会社の裏手にある、古い喫茶店。
窓際の席で、遠藤葵が、青い顔をして座っていた。付き添っているのは、美咲だ。ブースは閉じられても、会社の外でなら、透は誰かに会える。総務も、さすがに、そこまでは止められなかった。
「先生……すみません。私、また、飲んじゃって」
葵の声は、掠れていた。「配られると、断れなくて。頑張らなきゃって思うと、つい……。せっかく、先生に楽にしてもらったのに」
「謝らなくて、いいです」
透は、葵の手首に、そっと指を当てた。脈を診る。それから、背へ視線を向ける。焦げた黒い影が、また、うっすらと戻ってきていた。けれど、前ほど濃くはない。一度、手放そうとした跡が、身体に、ちゃんと残っている。それは、悪いことではなかった。
牧野の背に沈んでいった、あの漆を、透は思い出した。あそこまで、行かせてはいけない。
(まだ、間に合う。──今度は、間に合わせる)
透は、鞄から、封を切ったばかりの細い鍼を、一本だけ取り出した。喫茶店の、あたたかい照明の下でも、その一本は、澄んだ光を弾いた。
「ツボは、動きますからね。昨日効いた場所は、もう、ここじゃない」
人差し指の先が、葵の肩から、首の付け根へと、わずかに滑る。指の腹が、皮膚のすぐ下の、こわばりの淡い段差を探り当てる。霧のいちばん濃い、たった一点。そこを見極めて、透は、息を止め、鍼を、静かに沈めた。
とん、と、小さな手応え。
葵が、細く息を吐いた。強張っていた肩が、ゆっくりと、落ちていく。焦げた影が、内側から薄れていくのが、透には視えた。
「……あ。喉の、つかえてたのが……取れて、る」
「頑張らなきゃ、を、少しだけ、置いていきましょう。……温かいお茶、飲めますか」
美咲が、すかさず、湯気の立つカップを、葵の前に置いた。透に教わったとおりの、「間」だった。ずっと受け取る側だった彼女が、いつのまにか、その所作を、自分のものにしていた。
一日に6人か、1万人か。白瀬は、そう言った。
その数字に、透は、もう惑わされなかった。一万人を数える、その指の隙間から、牧野が、こぼれ落ちたのだ。数で人を救うと言う者は、数で人を、こぼす。ならば自分は、目の前の一人を、こぼさない。たとえ、それが、たった一人ずつでも。この小さなテーブルの上で、確かに楽になっていく葵の肩が、透の、動かない答えだった。
帰り際、美咲が、一枚の紙を、透に差し出した。
「これ……総務の書類に紛れてました。ゼロペインの、納品伝票です。郷原先生のクリニック経由で、うちに大量に入っていて。ルート、辿れるかもしれません」
テーミス製薬から郷原へ、郷原から会社へ。薬が流れる道筋の、その入り口が、確かに、記されていた。牧野を倒した流れの、上流へ続く、細い糸だった。
「ありがとう。……でも、無理はしないでください。あなたを、危ない場所には、立たせたくない」
「先生こそ」美咲は、少しだけ笑った。「無理しないでって、いちばん言われたい人が、言いますか」
数日後、透は、牧野を見舞った。
窓辺のベッドで、牧野は、穏やかに笑っていた。以前と同じ、人のいい笑顔で。ただ、透が誰なのか、思い出すのに、少し、時間がかかった。「せんせい……あの、鍼の。……大丈夫、ですよ。おれ、元気」
その「大丈夫」に、透は、静かに頷いた。
透は、牧野の背を、視た。背の焦げは、皮肉なことに、もう、引いていた。動けなくなった身体は、無理を、しなくなったから。けれど、焦げが引いたあとの水色の光は、あちこちが、欠けていた。かつてそこにあったはずの、意欲の粒、感情の粒。それが、いくつも、戻らないまま、暗く沈んでいる。焼き切れた経絡は、鍼では、もう、つなげない。
これが、間に合わなかった、ということだった。
痛みを、消し続けた身体の、行き着く先。「なんともなくなる」と、牧野は笑っていた。そのとおりに、なった。痛みも、疲れも、そして──牧野を牧野たらしめていた光の、いくつかも。なんとも、なくなってしまった。
透は、牧野の肩に、そっと手を置いた。鍼は、打たなかった。今日は、ただ、その肩の重さを、手のひらで、覚えておきたかった。
ひとりになった帰り道、透は、遠い日を思い出していた。
まだ廃人寸前だった透に、白石は言った。効率を求める時代が来る、と。痛みを、薬で黙らせるだけで済ませる時代が。そのとき、身体の声を聴ける者が、一人でも残っていないと、いけない、と。
その白石自身が、最期は、周りに「もっと効率よく」と急かされ、身体を酷使して、倒れていった。誰にも、止められないまま。透もまた、その手を、伸ばせなかった。あの「白い流れ」は、恩人ひとりを、静かに、すり潰した。そして今も、牧野を、こぼした。
あの流れの、いちばん上流に、何があるのか。
透が、この会社に来た、本当の理由。それは、まだ、誰にも言っていない。美咲にも、葵にも。胸の奥に沈めたまま、透は、ただ、目の前の一人を、聴き続けている。こぼさないために。もう、二度と。
数日後、運用停止の一報を届けにきた白瀬は、去り際に、いつもの微笑みを残していった。
「先生は、面白い方だ。……また、お会いしましょう」
倒れたわけでは、なかった。退いただけだ。
白い影は、また、いつか戻ってくる。それでも透は、鍼を手に取ることを、やめなかった。上流が、どれほど大きくても。牧野の分も、葵の分も。今はまだ、目の前の一本を、丁寧に打つことしか、できないとしても。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第7章「忍び寄る『白い影』」、完結です。今回は、救えた一人(葵さん)と、間に合わなかった一人(牧野さん)を、並べて書きました。柊木先生の眼は、万能ではありません。線を引かれ、手が届かなければ、こぼれ落ちてしまう人がいる。「なんともなくなる」と笑っていた牧野さんの、その言葉のとおりになってしまった結末は、この物語がいちばん鳴らしたい警鐘でもあります。
それでも先生は、鍼を手放さない。一万人より、目の前の一人を、こぼさない。牧野さんを見送った悔いが、その静かな覚悟に、変わりました。
そして美咲が掴んだ、ゼロペインの納品伝票。薬が流れる道筋の入り口が、見えてきました。柊木先生が会社に来た「本当の理由」も、少しだけ、影を見せています。
次回からは第8章。今度は、郷原さんとの、決着です。
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