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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第7章 忍び寄る「白い影」

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第19話 白い影

 お疲れ様です。

 第7章から、郷原さんの背後にいた「供給源」に、いよいよ顔がつきます。怒鳴らない、脅さない、ただ穏やかに微笑む男。けれど、その善意こそが、いちばん厄介かもしれません。新しい敵、白瀬の登場です。

 復帰して数日、ブースには、いつもの穏やかな時間が戻っていた。


 その日の最後の予約は、制作部の牧野だった。美咲の先輩にあたる、30代半ばの男で、いつも誰かの尻拭いに走り回っている。今日も、後輩の抜けた穴を、いくつも埋めてきた帰りだと、笑って言った。


「いやあ、大丈夫大丈夫。これくらい、慣れてますから」


 その「大丈夫」を、透は、何度も聞いた覚えがあった。かつての美咲と、同じ口癖だ。断らない人の、断らないための呪文。


 牧野の肩に触れ、背へ視線を送る。淡い水色の光の奥、肩甲骨のあたりに、うっすらと、焦げの走りが視えた。まだ薄い。けれど、確かに、始まっていた。無理を重ねた身体が、そろそろ声を上げようとしている、その手前の色だった。


「牧野さん。……最近、頭痛は」


「ああ、ありますけど。まあ、薬飲めば」


 さらりと言って、牧野は、見覚えのある白い箱を取り出した。ゼロペイン。提携クリニックで、もらったのだという。「これ、よく効くんですよ。飲むと、ほんと、なんともなくなる」


 なんとも、なくなる。

 その言い方に、透は、静かな怖さを覚えた。痛みが消えるのではない。痛みを感じる自分が、少しずつ、消えていく。


「牧野さん。痛みは、身体が上げている合図です。薬で黙らせ続けると、身体は、もっと大きな声を出すしかなくなる。……また、来てくださいね。今度は、薬に頼る前に」


「はいはい、締め切り明けたらね」


 牧野は、片手を上げて、笑って帰っていった。「無理はしないで」と、透はもう一度、背中に声をかけた。牧野は振り返らず、ひらひらと手を振って、廊下の角に消えた。

 その手の振り方を、透は、後になって、何度も思い出すことになる。


 その男が産業鍼灸ブースを訪ねてきたのは、透が仕事に復帰して、ちょうど一週間が過ぎた頃だった。


「はじめまして。テーミス製薬の白瀬と申します」


 仕立てのいいスーツ。柔らかな物腰。名刺を差し出す所作のひとつひとつが、洗練されていた。あの夜、通りの向こうから透のブースを見上げていた、あの男だった。


「柊木先生の評判は、かねがね伺っております。社員さんの満足度が、この福利厚生ブースだけ、突出して高いんですよ。いったいどんな“魔法”を使っておられるのか、一度、拝見したくて」


 言葉は褒めていた。だが、その目は、褒めていなかった。棚に並んだ鍼を、患者用の丸椅子を、湯を沸かすポットを。ひとつずつ、値札を確かめるように、白瀬の視線は滑っていく。人の体温を測るのではなく、設備の原価を数えるような目だった。


「温かいお茶、飲まれますか」


 透が問うと、白瀬は、やわらかく微笑んだ。


「いえ。私、時間を無駄にしない主義なので」


 その一言に、透は静かに身構えた。鍼を打つ前に「間」を作る透の哲学と、この男の価値観は、たぶん、根っこから相容れない。急がないことに意味を見出す者と、急がないことを損だと考える者。立っている土台が、違う。


 白瀬は、鞄から一枚の資料を取り出し、施術台の上に、丁寧に置いた。


「弊社の、新しい福利厚生プログラムのご提案です。『ゼロペイン・ワークサポート』。社員さん全員に、当社の鎮痛・賦活剤を定期支給する。痛みや不調で仕事が止まる時間を、限りなくゼロに近づける。生産性は、平均で2割ほど向上する試算です」


 ゼロペイン。

 美咲がコーヒーで流し込んでいた、あの薬。葵の背に、焦げた影を残した、あの薬。その名が今、会社ぐるみの「制度」として、目の前に置かれていた。善意の顔をした、白い箱に詰められて。


「痛みを、消すだけの薬です」


 透は、静かに言った。


「原因は、消えません。痛みは、身体が上げているSOSだ。それを黙らせ続ければ、身体はいつか、もっと大きな声で叫びます。……葵さんのように」


「ああ、遠藤さんの件」


 白瀬は、少しも動じなかった。カルテの一行を読み上げるような、乾いた口調だった。


「あれは、投与量の調整が足りなかっただけです。きちんと管理すれば、防げた。……先生の鍼は、たしかに気持ちがいいのでしょう。ですが、何人、診られますか。一日に、5人? 6人? うちの薬なら、1万人を、同時に楽にできる」


 数字だった。この男は、身体を、数で数えている。


「効率で言えば、先生の“手当て”は、あまりに非効率だ。心のこもった治療、結構。ですが、心は、数字に乗りません。……もっとも、経営判断をするのは、私ではなく、御社ですがね」


 最後の一言だけ、妙に軽かった。責任は自分にはない、という予防線だ。白瀬は資料を残し、立ち上がった。


「近いうちに、この福利厚生ブースの“費用対効果”を、会社さんと一緒に、見直させていただくかもしれません。その節は、どうぞ、ご協力を」


 紳士的な一礼。

 それだけ残して、白い影は、去っていった。あとには、香水のような、けれどどこか薬品を思わせる匂いが、うっすらと残った。


 施術台の資料の表紙で、「ゼロペイン」の五文字が、蛍光灯の下、白々と光っていた。透は、その白さに、遠い日の、恩人の背中を、重ねていた。あの人もまた、こういう「効率」の流れの中で、すり潰されていったのだ。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 新しい敵、白瀬の登場です。郷原さんが「力」で押してくる敵だとしたら、白瀬さんは「数字」と「善意」で包んでくる敵。一日に6人か、1万人か。そう言われると、こちらまで言葉に詰まってしまいそうになりますよね。でも、柊木先生の答えは、たぶん、その天秤の上にはありません。

 そして「ゼロペイン」が、ついに会社ぐるみの制度として動き出しました。美咲が流し込み、葵を倒した、あの薬です。善意の顔をして。

 次回、第20話「善意という名の」。白瀬の本音が、少しだけ覗きます。そして、二人が引き離される危機が。

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