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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第6章 異能の代償

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第18話 整える番

 お疲れ様です。

 第6章のしめくくりです。休むことを覚えた柊木先生が、遠い日の恩人を思い出します。なぜ彼は、これほどまでに自分を後回しにしてしまうのか。その根っこに、そっと触れる回です。

 それから数日、柊木透は、生まれて初めてと言っていいほど、きちんと休んだ。


 朝は日が昇ってから起き、白湯を飲む。食事は、噛む回数を数えるように、ゆっくりととる。夜は、鍼道具の手入れもそこそこに、早く横になる。患者にはさんざん説いてきた養生を、透は今、自分の身体で、たどたどしくなぞっていた。誰かに処方するのは慣れていても、自分に処方するのは、こんなにも不器用なものかと思う。


 三日目の朝、指先の痺れが、ふっと引いた。試しに自分の腕へ意識を向けると、あれほど淀んでいた気血の流れが、少しずつ、元の道を思い出しつつある。堰き止められていた墨が、薄まって、また巡り始めていた。


 身体は、治す側にも、嘘をつかない。

 休めば応える。無視すれば、牙を剥く。当たり前のことを、透はこの歳になって、ようやく我が身で知った。患者に向かって百回言ってきたことを、自分の身体で一度、思い知る。その一度が、百回よりも重かった。


 休んでいる間、透のもとには、小さな気遣いが、次々と届いた。


 葵は、毎日ブースの鍵を代わりに開け閉めし、「予約、入れないでおきましたから」と報告に来た。以前、焦げた影を抱えて倒れた彼女が、今は誰かを気にかける側に立っている。


 顎を壊していた永井からは、ぶっきらぼうな短いメッセージが届いた。「先生も、無理なものは無理って、言ってくださいよ」。透が永井に返した言葉が、そっくり、透のところへ戻ってきていた。


 腰を治したバンドマンの陸は、差し入れだと言って、栄養ドリンクではなく、蜜柑を一袋、置いていった。「身体にいいやつ、選んできました」と、はにかみながら。かつて夢を諦めかけていた青年の、その照れ笑いが、透にはまぶしかった。


 透が整えてきた身体たちが、今度は、透を気にかけていた。

 巡りというのは、身体の中だけの話ではないらしい。誰かに手を貸せば、それはめぐって、いつか自分のところへ帰ってくる。血や気が経絡をたどるように、人の情けもまた、どこかを巡って戻ってくるのだ。


 美咲が淹れてくれた、あのほうじ茶の温かさを、透はまだ、手のひらに覚えていた。


 夜、ひとりのブースで、透は久しぶりに、桐の小箱を開けた。

 細く、繊細な、白石から受け継いだ形見の鍼。手のひらにのせ、その銀色の光を見ていると、遠い日の記憶が、静かに滲んできた。


 まだ20代だった頃の、白石の治療院。


「透、お前はいつか、自分を後回しにして倒れるぞ」


 皺だらけの顔で、白石はよくそう笑った。


「医者が自分を治せんのは、よくある話だ。だがな、お前が倒れたら、お前が救うはずだった誰かも、一緒に倒れる。それだけは、忘れるな」


 あのとき、透は笑って聞き流した。自分は大丈夫だと、根拠もなく信じていた。師の言葉の重さを、まだ何も、分かっていなかった。


 その白石が、痩せて、動けなくなっていったとき。

 透は、ひと言も、言えなかった。休んでください、とも。無理をしないで、とも。喉の奥で言葉が固まって、ただ、師の枯れていく背中を、見ていることしかできなかった。目の前で、いちばん救いたい人の霧が濃くなっていくのに、その手を、伸ばせなかった。


 言葉は、飲み込むためにあるんじゃない。

 美咲に、永井に、透はそう言ってきた。けれど誰より、それを言えずに悔いてきたのは、透自身だった。自分を後回しにする癖の根には、あの日の沈黙が、今も、埋まっている。


 鍼を、そっと小箱に戻す。

 もう、同じ悔いは繰り返さない。自分の身体の声も、ちゃんと聴く。そう決めて、透は立ち上がった。今度は、机に手をつかなくても、まっすぐ立てた。


 ブースの外へ出て、夜のオフィスビルを見上げる。

 そのとき、透は、ふと視線を感じた。


 通りを挟んだ向かい。街灯の下に、仕立てのいいスーツを着た男が、ひとり立っていた。こちらのビルを、正確には産業鍼灸ブースの窓を、じっと見上げている。透と目が合うと、男は、感情の読めない微笑みを浮かべ、静かに背を向けて去っていった。


 患者の気配では、なかった。

 誰かの巡りを整えに来た者の目でも、整えてほしくて来た者の目でもない。もっと乾いた、値踏みするような視線だった。品物の棚卸しでもするように、このブースの「価値」を、勘定していた目。


 透の胸の奥で、久しく忘れていた警戒の針が、静かに、揺れた。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 第6章「異能の代償」、これにて完結です。倒れて、初めて休んで、初めて人に委ねた柊木先生。彼が自分を後回しにしてしまう根っこには、恩人・白石さんに、ひと言も言えなかった悔いがありました。「言葉は、飲み込むためにあるんじゃない」。この言葉は、誰よりも先生自身への言葉だったのですね。

 そして、救った身体たちが、今度は先生を気にかける。巡りは、身体の中だけの話じゃない。この章のいちばん書きたかったところです。

 最後に現れた、スーツの男。穏やかに笑って去っていったあの人が、次の物語を連れてきます。次章、第7章「忍び寄る『白い影』」へ。

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────────────────

【今回の東洋医学メモ】養生ようじょう——治すより、整える


 この物語の底に流れている考え方を、第6章の区切りに少しだけ。覚えなくても物語は追えます。

 「養生」とは、病を薬で叩くのではなく、日々の暮らし——食べ方、眠り方、身体の声の聴き方——を整えて、自分で治る力を保つこと。派手さはないけれど、東洋医学がいちばん大事にしてきた土台です。


 柊木がよく口にする「痛みは、身体からのメッセージ」。痛み止めでその声を黙らせ続ければ、身体はもっと大きな声で叫ぶ。だから彼は、鍼で一時的に楽にするだけでなく、患者に「休む」「手放す」という養生を手渡します。葵が少しずつ薬を手放していくのも、その一歩です。


 そして皮肉なことに、この章でいちばん養生ができていなかったのは、柊木自身でした。人の巡りは整えても、自分の身体の声は後回し。倒れて初めて休み、人に委ねる——それもまた、彼にとっての養生の始まりだったのです。


 ちなみに、恩人・白石さんの「漢方薬」の喩え(第6話)も、実は同じ話。漢方薬は痛みを消す薬ではなく、身体が自分で温まって治ろうとする力を後押しする薬。麻痺させて黙らせるゼロペインとは、真逆の発想なんですね。


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