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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第6章 異能の代償

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第17話 治せない医者

 お疲れ様です。

 今回は、いつも「温かいお茶、入れますから」と言っていた柊木先生が、その言葉を、誰かから返される回です。支えられることを知らない人が、初めて人に委ねる。そして美咲が、先生のあの眼に、名前をつけます。


 翌朝、柊木透は、いつもより一時間早く目を覚ました。


 身体は、鉛のように重い。それでも透は、施術着に袖を通そうとした。今日は常連が3人。あの人たちの巡りは、一日空ければ、また元に戻ってしまう。休むという選択肢は、頭の隅にもなかった。長いあいだ、そうやって自分を後回しにすることに、透は何の疑問も持たずに生きてきた。


 ブースのカーテンを開けると、そこに、美咲が立っていた。


「おはようございます、先生。……やっぱり、来ましたね」


「小林さん。なぜ、ここに」


「予約の3人には、私から連絡しました。ぎっくり腰の田口さんは急ぎだったので、近くの整形外科を紹介して。あとのお二人は、来週で構わないそうです。みなさん、先生の身体のほうを、心配してました」


 美咲は、手にしていた紙袋から、水筒を取り出した。


「先生。座ってください」


 その口調に、透は思わず従っていた。逆らう気力も、今日はなかった。丸椅子に腰を下ろすと、美咲が水筒の蓋を開け、湯気の立つほうじ茶を、紙コップに注いだ。


「温かいお茶、入れました。……話は、それからで」


 透の言葉だった。いつも、患者に鍼を打つ前、透が必ず口にする、あの一言。それが今、そっくりそのまま、自分に向けられていた。


 透は、コップを両手で包んだ。手のひらから、じんわりと温かさが伝わってくる。指先の痺れは、まだ残っている。けれど、その熱を、こわばった身体が少しずつ受け取っていくのが、自分でも分かった。鍼を打つ前の「間」というのは、こういうものだったのか。いつも患者に渡していたものを、透は初めて、受け取る側で味わっていた。


「……小林さんに、こんなことをさせるわけには」


「させてください」


 美咲は、引かなかった。


「先生は、私に何度も言いましたよね。自分を後回しにするな、って。断れないのは弱さじゃない、ただ自分を見失ってるだけだ、って。……今の先生、あのときの私と、そっくりです」


 図星だった。透は、返す言葉を持たなかった。


 他人の霧ならいくらでも視える。倒れそうな相手には、迷わず手を伸ばす。それなのに、自分のこととなると、いつも決まって、後回しにしてきた。若い頃から、ずっとだ。自分の痛みだけは、なぜか、いつも「あとで」だった。


「今度は、私が」


 美咲が、静かに言った。


「私が、先生を整える番です。鍼は打てません。先生みたいに、身体の中は視えないから。でも、休ませることと、あったかいものを渡すことなら、私にもできます。……それくらい、させてください」


 しばらく、二人は黙って、お茶を飲んだ。

 沈黙が、気まずくなかった。むしろ、この静けさそのものが、透のこわばった巡りを、少しずつほどいていくようだった。効率だけを求める郷原の医務室には、決してなかった時間だ。急かされない、という一事が、これほど身体を緩めるものかと、透は思った。


 ふと、美咲が口を開いた。


「先生。前から、思っていたことがあって」


「なんでしょう」


「先生って、人の身体を触ると、その人が言葉にしてないことまで、当ててくるじゃないですか。私、初めて診てもらったとき、本当に驚いたんです。喉のつかえも、食いしばりも、全部、私が誰にも言えなかったことだったから」


 美咲は、コップの中の茶を見つめながら、少し照れたように笑った。


「あれ、たぶん……肩や顎を視てるんじゃなくて、心まで視える眼、ですよね」


 透の手が、一瞬、止まった。


 誰にも、言われたことのない呼び方だった。怪しい治療師だと誤解されるのが常で、透はこの眼のことを、ずっと胸の奥に隠してきた。化け物と思われるのではないか。その怖さと、ずっと連れ添ってきた。だから患者にも、見立ての理由を、細かくは語らずにきた。


 なのに、美咲の言い方には、恐れも、疑いも、なかった。ただ、救われた者の、まっすぐな信頼だけがあった。名付けることで、得体の知れなかったものを、そっと手のひらに載せてくれるような、そんな響きだった。


「……そうかも、しれませんね」


 透は、否定も肯定もせず、ただ、そう答えた。


 心まで視える眼。

 その名前は、透がこの力に長く感じてきた後ろめたさを、ほんの少しだけ、軽くした。


「変な名前、つけちゃいました」


「いえ。……悪くない、です。ありがとう」


 美咲が、目を丸くした。透が誰かに、こんなふうに「ありがとう」と言うところを、初めて見た気がした。


 窓から、朝の光が差し込んでいた。

 いつも人を照らす側だった手が、今日は、照らされている。それも、悪くない。透は、そう思った。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 「温かいお茶、入れました。話は、それからで」。柊木先生の言葉が、美咲の口から返ってきました。支える側と支えられる側の反転、書いていてぐっと来る場面でした。急かされない時間が身体を緩める、というのも、この人がずっと自分に許してこなかったものですね。

 そして美咲が、先生の異能に「心まで視える眼」という名前をつけました。ずっと隠してきた力を、恐れずに受け止めてもらえたこと。それが先生の後ろめたさを、少しだけ軽くします。この眼が、のちに本当の名前を得るのは、もう少し先の話です。

 次回、第18話「整える番」。回復に向かう先生が、遠い日の恩人を思い出します。第6章のしめくくりです。

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