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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第6章 異能の代償

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第16話 倒れた鍼灸師

 お疲れ様です。

 これまで何人もの身体を整えてきた柊木先生。その先生が、この章で初めて倒れます。他人は救えても、自分は後回し。治す側の人間が抱える、いちばん危うい癖の話です。どうか、見届けてください。第6章「異能の代償」、はじまります。


 その夜、メビウスソフトのオフィスビルは、ほとんどの窓が暗くなっていた。


 小林美咲は、エレベーターホールで足を止めた。定時で帰ったはずなのに、机に企画書のファイルを置き忘れたことへ、駅の改札で気づいて戻ってきたのだ。


 半年前なら、自分を責めていただろう。こんな凡ミスをするなんて、と。けれど今夜は、少しだけ笑えた。断ることを覚えてから、忘れ物くらいで自分を追い詰める癖も、いつのまにか薄れていた。


 福利厚生フロアの隅。産業鍼灸のブースの明かりが、まだ灯っている。


「柊木先生、まだいらしたんですね」


 声をかけながらカーテンを開けて、美咲は、その場に凍りついた。


 柊木透が、施術台の脇の床に、倒れていた。


「先生……! 先生っ」


 駆け寄って肩を揺する。意識はある。だが顔色は紙のように白く、額には脂汗が浮いていた。呼吸だけが、やけに浅い。いつも患者を落ち着かせるあの穏やかな声が、今は掠れて、ほとんど言葉にならない。


「小林、さん……。ああ、悪い。少し、立ちくらみが」


「立ちくらみで、人は倒れません。救急車、呼びます」


「いや、いい。……大げさに、しないでください」


 こんなときまで、この人は。美咲は唇を噛み、それでもスマホを取り出した。ちょうどそこへ、給湯室から遠藤葵が顔を出した。残業のカップ麺の湯を、もらいに来たらしい。事情を察した葵の動きは、思いがけず速かった。


「小林、私が肩貸す。柊木先生、歩けます? 無理なら、這ってでも運びますよ」


 かつて、焦げた影を抱えて倒れたのは、葵のほうだった。あのとき柊木に救われた彼女が、今は誰かを担ごうとしている。救われた者が、救う側へ回る。その順番が、静かに、巡り始めていた。


 社内の医務室に、透は運び込まれた。

 呼ばれてやってきたのは、間の悪いことに、ヘリオス産業医クリニックの郷原だった。夜間の当番だったらしい。


 郷原は透の脈を見て、瞼を上げて瞳孔を見て、それから面倒くさそうに息をついた。


「典型的な過労ですね。点滴を一本打っておきます。栄養と、あとは鎮痛系の合剤を少し。明日には動けますよ。……鍼の先生も、案外、身体は普通なんだな」


 最後のひと言には、隠しきれない皮肉が滲んでいた。人の不調をオカルトで取ると嘯く男が、こんなにあっけなく倒れる。そう言いたげな目だった。


「点滴は、結構です」


 透が、掠れた声で断った。


「これは、栄養で戻るものじゃ、ないので」


「では、何で戻るんです。気合ですか」


 郷原は鼻で笑い、カルテに「過労・要休養」とだけ書いて、出ていった。痛みを消して、最短で再稼働させる。この男にとって身体はいつも、それだけの箱だった。倒れた理由を問うことも、そこに耳を澄ますこともない。


 医務室に、美咲と葵が残された。

 透は簡易ベッドに横たわり、天井を見上げていた。


 視えている、と透は思った。

 自分の身体の、内側が。いつも患者に対して視ているそれが、今は自分の胸から腹にかけて、黒い墨を流したように、澱んで広がっている。気血、つまり気と血の巡りが、あちこちで堰き止められ、流れをなくしていた。他人の霧を視る眼は、自分の身体にも、容赦なく働く。


 どこに鍼を打てばいいかは、手に取るように分かる。滞りの芯も、そこへ至る細い道も、いつもの患者と同じように、はっきりと視えている。


 分かるのに、その手が、動かない。

 指先の感覚が、昼間、永井に打った瞬間から、痺れたまま戻らない。鍼を握ろうとしても、力が入らなかった。見立てだけが冴えて、実行だけが、奪われている。医者の不養生とは、よく言ったものだ。他人の霧なら迷わず打てる手が、自分の身体を前にした途端、視えるだけの、無力な眼に成り下がる。


「先生」


 美咲が、ベッドの脇に椅子を寄せた。


「明日の予約、私、代わりにお断りの連絡を入れておきます。先生は、休んでください」


「……いや。明日は、常連の方が、3人。あの人たちは、俺が診ないと」


「先生」


 美咲の声が、少しだけ強くなった。


「先生に、何度も言われました。痛みは、身体からのメッセージだって。無視し続けると、もっと大きな声で叫ぶって。……今、先生の身体が、叫んでますよ。いちばん近くにいる先生に、聞こえないんですか」


 透は、言葉に詰まった。

 自分が何十回も患者に言ってきた言葉を、今、そっくりそのまま、返されていた。


 窓の外の夜は、深い。

 いつも誰かの巡りを整えてきた手が、自分の巡りひとつ、整えられずにいた。天井の染みを見上げながら、透は、ずいぶん長いこと、この身体の声を、後回しにしてきたのだと思った。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 ついに柊木先生が倒れました。望神で自分の澱が視えているのに、指が動かず打てない。「治す側」がいちばん無力になる瞬間です。彼の技は、自分の巡りを相手に分け与えるもの。だから、無限ではないんですね。

 そして、いつも先生に救われてきた美咲が、今度は先生の言葉を、そのまま先生に返しました。かつて倒れた葵が、今は人を担ぐ。救われた人が、救う側へ。関係が、少しずつ、反転していきます。

 次回、第17話「治せない医者」。支える側に回った美咲と、他人に委ねることを知らない先生の、静かな攻防です。

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【今回の東洋医学メモ】望聞問切ぼうぶんもんせつ——柊木の眼の正体


 柊木の“望神ぼうしん”がどこから来ているのか、少しだけ解説。覚えなくても物語は追えます。

 東洋医学では、患者を診るのに4つの入り口を使います。四診と呼び、「望聞問切」のことです。望(見る)、聞(声や匂いをきく)、問(暮らしや痛みを尋ねる)、切(手首の脈や肌に触れる)。この四診を重ねて、身体の内側で今なにが起きているかを読みます。つまり、東洋医学の「診る」は五感をフルに使うということです。


 柊木がいつも「肩、凝ってませんか?」と問い、お茶を出しながら声を聞き、手首にそっと指を当てる——あれは全部、この四診です。派手ではないやり取りの一つひとつが、実は診察なんですね。

 そして“望神”は、そのうちの「望(見て診る)」を、人ならぬ域まで伸ばしたもの。本来は名医でも、顔色や姿から不調の“気配”を察する程度です。柊木のそれが黒い霧として視えてしまうのは、少しだけ人の域を超えている。だからこそ自分の身体まで容赦なく視えて、この章で彼は倒れます。


 ちなみにこの話で郷原が診たのは、脈と瞳孔だけ。同じ「診る」でも、数値で切り取る診方と、巡りごと聴く診方——その差が、二人の医療の差でもあります。


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