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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第5章 顎に潜む本音

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第15話 それは、出来ません

 お疲れ様です。

 今回は、この物語をずっと支えてきた美咲が、生まれて初めて、上司に向かってあの一言を口にする回です。

 断れなかった人が、断る。たったそれだけのことが、どれほど勇気のいることか。どうか、その一歩を見届けてください。第5章のしめくくりです。

 黒岩は、モニターから目を離さずに言った。

「ああ、小林。ちょうどよかった。来週の仕様変更、あれも進行で巻き取っといてくれ。お前なら回せるだろ」

 いつもの口調だった。断られることを、これっぽっちも想定していない声。半年前の美咲なら、反射的に「はい、大丈夫です」と答えていた。

 けれど、美咲は答えなかった。

 黒岩が、不審そうに顔を上げる。


「黒岩さん。少し、お話しいいですか」

 美咲の声は、自分でも驚くほど静かだった。心臓は、口から出そうなほど跳ねている。それでも、声は震えなかった。

「この案件、今の納期のままだと、たぶん回りません」

「は? なんでだよ、お前が回せば」

「私一人の話じゃないんです。さっき、永井さんが顎を壊して、施術を受けてました。仕様変更が毎週入って、無理だと言えないまま、奥歯を食いしばって。あのまま行けば、永井さんの次は別の誰かです。私かもしれない」

 黒岩の眉が、ぴくりと動いた。


「進行管理って、仕事を詰め込む係じゃないと思うんです」

 美咲は、一歩も引かなかった。

「全部を今の納期で抱えたら、全部の品質が落ちます。それで人も倒れる。だから、優先順位を決めさせてください。本当に来週いるものと、後ろに倒せるもの。営業さんとの間にも、私が入ります。……このまま全部やる、っていうのは、それは、出来ません」

 言い切った。

 最後の一言は、ほとんど吐き出すようだった。けれど、確かに自分の口から、外へ出た。

 誰かのキーボードを叩く音が、途中で止まった。コピー機の駆動音だけが、やけに大きく聞こえる。


 フロアが、少しだけ静かになった。

 黒岩は、しばらく美咲を見つめていた。これまで、彼に「出来ません」と言った部下は、いなかったのだろう。怒鳴られるかもしれない、と美咲は身構えた。

「……お前、変わったな」

 黒岩が、ぽつりと言った。怒ってはいなかった。むしろ、少し、ばつが悪そうだった。

「優先順位の案、出してみろ。営業との調整も、お前がやるってんなら、任せる。倒せるもんがあるなら……まあ、俺も上に掛け合う」

 全部が解決したわけではなかった。それでも、断られたことのない男が、初めて立ち止まって、考えようとしていた。

 美咲は、深く頭を下げた。下げた拍子に、視界が少しだけ滲んだ。


 その夜。

 美咲は、定時で帰り支度をしながら、給湯室の前を通った。昨日、頭痛薬のシートを握りしめて固まった、あの場所だ。今夜は、鞄に手を入れなかった。昨日まで頭痛薬のシートの角を探していた指先が、鞄の上で止まり、そのまま離れた。代わりに、温かいほうじ茶を一本買って、両手で包んだ。

 言葉は、飲み込むためにあるんじゃない。

 永井に向けた柊木の言葉が、自分の中にも、ちゃんと根を張っていた。



 同じ頃、誰もいなくなったブースで、柊木はひとり、形見の鍼を手のひらにのせていた。

 美咲が黒岩に「出来ません」と言えたことは、葵から聞いた。よかった、と心から思う。けれど、その一本を持つ指先は、いつもより重かった。

 昼間、永井に打ったとき走った、あのしびれ。あれから、指先の感覚が、まだ戻りきっていない。試しに自分の腕に意識を向けると、経絡の流れが、ところどころで淀んでいるのが分かった。他人の霧を視る眼は、自分の身体にも、容赦なく働く。

 ここしばらく、休まず重い霧を相手にしてきた。葵の焦げ。美咲の顔。永井の顎。鍼は、相手に自分の巡りを分け与える技だ。分け与え続ければ、いつか、底をつく。柊木は、それを誰より知っているはずだった。知っていて、止まれなかった。


 窓の外が、暗かった。

 形見の鍼を見つめながら、柊木は、遠い日の声を思い出していた。

 まだ若かった頃、白石の治療院で。透、お前はいつか、自分を後回しにして倒れるぞ。あのとき白石は、皺だらけの顔で、そう笑った。

 医者が自分を治せんのは、よくある話だ。だがな、お前が倒れたら、お前が救うはずだった誰かも、一緒に倒れる。それだけは、忘れるな。

 あのとき、笑って聞き流した。けれど今になって、その言葉の重さが、じわりと効いてくる。

 あのとき自分は、何も言えなかった。倒れていく白石に、ひと言も。

 柊木は、軽く頭を振った。視界の端が、わずかに揺れていた。立ち上がろうとして、机に手をついた。

 ……少し、休まなければ。

 そう思ったのが、最後だった。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 「このまま全部やる、っていうのは、それは、出来ません」。第1話からずっと「大丈夫です、これくらい」と言い続けてきた美咲が、ついに別の言葉を口にしました。書いていて、こちらまで胸が熱くなりました。全部は解決しなくていい。立ち止まらせたこと、それが彼女の大きな一歩です。

 その一方で、ずっと人を救い続けてきた柊木に、影が差します。他人は救えても、自分は後回し。彼が抱えた代償が、いよいよ表に出てきました。

 次章からは第6章「異能の代償」。倒れた柊木と、今度は支える側に回ろうとする美咲。関係が、少しだけ反転します。

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