第14話 奥歯の言葉
お疲れ様です。
今回は、柊木が永井さんの顎に鍼を打つ回です。何ヶ月も奥歯で噛み潰してきた言葉に、ひとつだけ、出口を作ります。
治すというのは、言えるようになること。本作のテーマが、いちばんはっきり出る回かもしれません。どうかお付き合いください。
翌日の昼休み、永井はもう一度、施術ブースを訪れた。
今日も口は半分しか開かない。けれど、来てくれた。それだけで、柊木には十分だった。
「永井さん。昨日、診させてもらって、ひとつ分かったことがあります」
永井をうつ伏せにしながら、柊木は静かに言った。
「あなた、顎が悪いんじゃないんです」
「え。でも、開かないのは顎で」
柊木は、永井の側頭部から肩へ、指をすべらせた。
黒い霧が、顎の関節を起点に、こめかみ、首筋、右肩へと、ひと続きの帯になって張り詰めている。バラバラの不調に見えて、出どころは、たった一つだった。
「頭が痛いのも、肩が上がらないのも、顎が開かないのも。別々の故障みたいに感じてますよね。でも、違う。頭痛も、肩こりも、その顎も……根は、一つです」
「ひとつ」
「言いたい言葉を、ずっと奥歯で噛み潰してきた。その力が、顎から上と下へ、両方へ漏れて広がってるんです。だから、顎だけ揉んでも取れない。出どころの一点を、ゆるめないと」
永井は、うつ伏せのまま、息を呑んだ。
柊木は、髪のように細い鍼を、指先につまんだ。
顎の関節の、ほんの少し奥。指で押せば張る場所と、本当に詰まった芯とが、わずかにずれている。噛みしめる癖が、痛みのツボそのものを、内側へ逃がしていた。柊木の眼が、その逃げ先を捉える。
ふと、鍼を持つ指先に、かすかなしびれが走った。
ここ数週間、立て続けに重い霧を相手にしてきた。葵の焦げ、美咲の顔、そして今、永井の顎。柊木は、その違和感を、一度だけ瞬きで押しやった。今は、目の前の一点に集中する。
逃げる芯の、半歩先。そこへ、鍼先を構えた。
とん、と、静かに沈む。
次の瞬間、顎から肩までを縛っていた帯が、内側からふっとゆるんだ。固く凝った霧が、光の波紋に押されて細い線へほどけ、首筋を伝って散っていく。
「……あ、れ」
永井が、おそるおそる口を動かした。
大きく、開いた。何ヶ月ぶりかで、顎が痛みなく開いた。
「開く……開きます、先生。痛くない」
永井の声が、震えた。長いあいだ歯のあいだに閉じ込めていた声が、まっすぐ外へ出てきた、その響きだった。
柊木は、鍼を抜いた。一本だけだった。
「永井さん。正直に言いますね。これ、また固まります」
「え」
「あなたが、また言葉を噛み潰し始めたら。鍼でいくらゆるめても、同じところがまた凝る。本当の養生は……奥歯で噛み潰してる言葉を、口から出すことです。無理なものは、無理だと」
永井は、しばらく天井を見つめていた。やがて、ゆっくりと身体を起こした。
「……言って、いいんですかね。無理ですって」
「言葉は、飲み込むためにあるんじゃないですよ」
永井は、初めて、痛みのない顔で笑った。
「言ってみます。無理なものは無理だって。営業にも、上にも。……どやされるかもしれないけど」
そのやり取りを、ブースの外で、美咲が聞いていた。
永井が、開いた口で「言ってみます」と言ったとき。美咲の中で、何かがはっきりと固まった。
給湯室で握りしめた、あの頭痛薬のシート。あれを飲んで今夜を片づけることは、永井が顎を食いしばり続けることと、同じだ。痛みに蓋をして、言葉を飲み込んで、明日の自分を前借りする。それを、自分はもう、やめると決めた。
美咲は、ブースに背を向けて、まっすぐにフロアへ歩き出した。向かう先に、上司の黒岩の席があった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「言葉は、飲み込むためにあるんじゃない」。柊木のこの一言、書いていて自分自身に刺さりました。顎関節症の方の中には、本当に「言えないストレス」が背景にある方もいます。鍼で顎をゆるめても、噛みしめる暮らしが変わらなければ、また戻る。だから養生なんですね。
そして永井さんの「言ってみます」が、美咲の背中を押しました。次回、いよいよです。
次回、第15話「それは、出来ません」。美咲が、生まれて初めて、上司に向かってあの一言を口にします。第5章の山場、どうかお見逃しなく。
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