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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第5章 顎に潜む本音

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第13話 食いしばる人

 お疲れ様です。

 今回から第5章。言いたいことを、ぜんぶ奥歯で噛み潰してしまう人の話です。

 そしてこの章は、美咲がいよいよ、ある一言を口にする回でもあります。まずは、ひとりのエンジニアが食いしばる理由から。どうかお付き合いください。

 その男は、口を開けずに喋った。

「すいません、こんな格好で。顎が……開かなくて」

 永井というエンジニアだった。30代半ば、目の下に濃い隈がある。葵が見かねて、施術ブースまで連れてきたのだ。

「永井さん、最近ずっとこうなんですよ。話しかけても、なんか歯を食いしばったまんまで」と、葵が代わりに説明する。

 柊木は、温かいお茶を出した。永井は受け取ったものの、口を大きく開けられず、すするのも痛そうだった。


「いつからですか。顎」

「先月くらいから、です。例の、大型案件が動き出してから」

 永井は、こめかみを押さえた。

「仕様が、毎週ひっくり返るんです。営業が客に何でも『できます』って言ってきて。それを実装するのは俺たちで。納期は動かない。無理ですって言いたいんですけど、誰も聞かないんで。言っても仕方ないから、もう……黙って、やるしかなくて」

 言葉の最後が、奥歯のあいだで潰れて消えた。


 柊木の眼が、職人のものに変わった。

 永井の顎の関節に、黒い霧が固く凝っている。エラから側頭部、肩まで、同じ色がひと続きに張り詰めていた。これは顎だけの病ではない。言いたい言葉を、何ヶ月も奥歯で噛み潰し続けた跡だ。出口をなくした言葉が、そっくりそのまま、顎の関節に溜まっている。

「永井さん。頭痛も、ありませんか。あと、肩。右のほうが、特に」

「……なんで分かるんですか。まさに、そこで」

「顎だけの話じゃないからです。今日は、診させてください」

 柊木は、永井をそっと横にならせた。けれど鍼はまだ取らず、まず関節の強張りを指で確かめた。今日の見立てを、丁寧に、ゆっくりと。


 その様子を、葵の後ろから、美咲がじっと見ていた。

 永井の「無理ですって言いたいけど、言っても仕方ない」という言葉が、胸の奥に刺さって抜けなかった。それは、つい昨日までの自分そのものだったからだ。


 その美咲もまた、限界に近づいていた。

 数日前、上司の黒岩から「大型案件、進行まるごと任せたい」と言われた、あの案件。引き受けたあと、仕事量は一気に倍になった。鏡で取り戻したはずの素顔が、また少しずつ、こわばってきている。昨夜は、久しぶりにほとんど眠れなかった。

 帰り際、美咲は給湯室で、鞄の底から頭痛薬のシートを取り出していた。鏡に通うようになって、手に取る回数は減っていた。それなのに、今、指がそれを探していた。

「飲めば、今夜の分は片づく」

 そう、頭の中で声がした。動けるうちは、大丈夫だと思い込める。あの頃の自分が、また囁いていた。


 美咲は、シートを押し出そうとした指を、止めた。

 さっきの永井の、開かない顎を思い出したのだ。言いたいことを飲み込み続けた人が、最後にどうなるのか。その答えが、たった今、ブースで横になっていた。

 美咲は、頭痛薬のシートを、握りしめたまま動けなくなった。飲むべきか、やめるべきか。それは、薬の話のようでいて、たぶん、もっと別の何かの話だった。

 給湯室の窓に、残業のフロアの灯りが、青白く映り込んでいた。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 「言っても仕方ないから、黙ってやる」。永井さんのその諦めが、顎関節という形で身体に出てしまいました。飲み込んだ言葉は、消えずに、どこかに溜まります。

 そして美咲。一度は手放しかけた鎮痛剤に、また指が伸びる。前に進んだ人ほど、こういう揺り戻しがあります。彼女が給湯室で握りしめたあのシート、次回どうなるのか。

 次回、第14話「奥歯の言葉」。柊木が永井の顎に鍼を打ち、噛み潰された言葉に出口を作ります。そして、それを見た美咲が動きます。

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