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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第4章 美容鍼の秘め事

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第12話 自分のための顔

 お疲れ様です。

 素顔を取り戻した美咲が、職場で少しだけ変わります。今回は、その小さな変化を快く思わない人も出てきます。

 そして章の終わりに、柊木がなぜこの会社にいるのか。その理由の影が、ほんの少しだけ姿を見せます。第4章のしめくくりです。


 美容鍼に通うようになって、美咲の様子は、周りにも分かるほど変わってきた。

 顔色がいい、とよく言われるようになった。けれど、変わったのは肌だけではなかった。

 昼休み、これまでなら机でおにぎりをかじりながら作業を続けていた美咲が、ちゃんと席を立つようになった。窓辺で温かいお茶を飲み、5分だけ目を閉じる。たったそれだけのことが、以前の彼女には、後ろめたくてできなかったのだ。


「小林さん、最近ちょっと、雰囲気変わった?」

 同僚の葵が、すれ違いざまに言った。あの日倒れて以来、葵もまた、少しずつ薬を手放そうとしている一人だった。

「分かります? ……鍼の先生に、顔も診てもらってて」

「えー、いいなあ。私も今度行こ」

 二人で、小さく笑い合った。素顔で笑うと、頬の奥が温かい。それが自分の顔なのだと、美咲はもう、知っている。


 その昼下がり、フロアに郷原が来ていた。

 提携クリニックの定期巡回だ。社員の血色を一人ずつ確かめるその目が、窓辺で休む美咲の前で、ふと止まった。

「ずいぶん、顔色がよろしいですね、小林さん」

「あ……はい。おかげさまで」

「例の、鍼の先生のところですか。美容鍼、でしたか」

 郷原は、薄く笑った。慇懃で、温度のない笑みだった。

「申し上げにくいですが。福利厚生の時間を、美容に使うというのは、いささか非生産的だ。痛みを取るならまだしも、顔の話でしょう。会社の時間で、するようなことですかね」

 美咲の肩が、反射的にこわばった。けれど、今日は、そのまま俯かなかった。

「……私には、必要なことでした」

 声は小さかった。それでも、言葉にした。郷原は、ほう、と眉を上げただけで、何も言わずにフロアを去っていった。


 その後ろ姿を、離れたブースから、柊木が見ていた。

 郷原は近いうちに、来期の会議で施術ブースの廃止を提案するつもりでいる。美容鍼への冷笑は、その地ならしだ。痛みを取る鍼でさえ「オカルト」と呼ぶ男にとって、顔の巡りを整える鍼など、笑い飛ばす格好の口実だろう。

 けれど、柊木は焦らなかった。美咲が「私には、必要なことでした」と、小さくでも言い返せた。半年前の彼女には、できなかったことだ。郷原の冷笑よりも、その一言のほうが、ずっと遠くまで届く。柊木にはそう思えた。



 その夜、ブースを片づけながら、柊木は窓の外の夜景を見ていた。

 遠くに、いくつもの会社のビルが灯っている。そのどこかでも、誰かが今、白いカプセルを飲んで、明日の自分を前借りしている。

 自分がこの会社の産業鍼灸師になったのは、偶然ではなかった。数ある求人の中から、柊木はメビウスソフトを選んで、ここへ来た。提携先が、あのクリニックだったからだ。あの薬が、いちばん深く根を張った場所の、内側へ。

 形見の鍼を小箱に戻す手が、ふと止まる。

 かつて柊木の背を最初に診てくれた老人。あの白石が、最後に診ようとしていた患者たちも、同じ薬の檻の中にいた。白石がどうなったのか。それを口にするには、まだ早い。けれど、その答えを探しに、自分はここにいる。

 美咲の素顔も、葵の手放しかけた一錠も、陸の取り戻した夢も。守りたいものが、ここには確かに増えていた。だからこそ、突き止めなければならない。誰が、なんのために、この街の人を焦がし続けているのかを。


 翌朝。

 美咲のもとへ、上司の黒岩がやってきた。

「小林。来月から、例の大型案件、進行まるごと任せたいんだが。お前なら断らないよな」

 黒岩の口調は、いつものように、断られることを少しも想定していなかった。

 美咲は、顔を上げた。鏡で見た自分の素顔を、ほんの一瞬、思い出した。

 心臓が、小さく跳ねた。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 第4章はこれでひと区切りです。「私には、必要なことでした」。郷原に言い返したこの小さな一言が、今の美咲の到達点でした。派手ではないけれど、半年前の彼女には言えなかった言葉です。

 そして、柊木がこの会社を「選んで」来たこと。彼の穏やかさの奥に、まだ語られない目的があります。白石という人がどうなったのかも、もう少しだけお待ちください。

 次章からは第5章「顎に潜む本音」。食いしばり続けるエンジニアの施術と並んで、美咲がいよいよ、上司に「それは出来ません」と言う日が近づきます。

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【今回の東洋医学メモ】経絡けいらく経穴けいけつ


 本文でルビだけそっと添えてきた2つの言葉を、章の区切りに少しだけ解説します。覚えなくても物語は追えます。お茶のおともにどうぞ。


 「経穴」は、いわゆる「ツボ」のこと。美容鍼で柊木が美咲の顔に鍼を置いた、あの一点一点です。全身に360以上あるとされ、身体の状態が表ににじむ“窓”のようなもの。押して痛む場所と、本当に詰まった芯とがずれる——「ツボは動く」というのは、この窓が日によって少し場所を変えるからです。


 「経絡」は、そのツボとツボをつなぐ“道”。気と血が巡る通り道で、ここが滞ると、離れた場所に不調が出ます。肩のこりが頭痛を呼び、飲み込んだ言葉が喉をふさぐ。柊木が「根は、一つです」と言うのは、バラバラに見える症状が、この道の上でつながっているからです。


 柊木の眼に映る黒い墨の霧は、経絡が詰まって澱んだ姿。鍼で一点をゆるめると、道づたいに巡りが戻り、霧が光の波紋にほどけていく——第1話で美咲の身体に走った、あの澄んでいく感覚が、それです。


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