第10話 鏡のむこう
お疲れ様です。
今回から第4章。腰や肩の話から少し離れて、「顔」の話をします。
誰かに見せるためじゃなく、自分のために綺麗になりたい。そう言えるようになった美咲の、小さな変化の回です。どうかお付き合いください。
その日の昼休み、美咲はいつもより少しだけ緊張した面持ちで、施術ブースの椅子に座っていた。
「あの。前に言った、美容鍼のこと、なんですけど」
膝の上で指を組んだりほどいたりしながら、美咲が切り出す。
「やってみたい、です。でも、その。先生に変なふうに思われないかなって、ちょっと」
「変なふう、とは」
「仕事に関係ないことで、福利厚生の時間を使うなんて、って」
柊木は、いつものように温かいお茶を差し出した。
「綺麗になりたいと思うのは、身体を大事にしたいと思うのと、同じことですよ」
「同じ……ですか」
「ええ。だいたい、美容鍼って、顔だけいじって魔法みたいに若返らせる、そういうものだと思われがちなんですけど。違うんです」
柊木は、自分の頬を指でなぞってみせた。
「顔って、内側の鏡なんです。よく眠れていない人は目の下に出る。食いしばっている人は、ここ、エラのあたりが張る。巡りが滞れば、肌の色が濁る。だから顔を整えるっていうのは、本当は身体の内側の巡りを整えることなんですよ」
「じゃあ、私の顔……今、どうなってますか」
美咲が、こわごわ尋ねた。
柊木は、美咲の正面に回り、そっとその顔を見た。
触れずとも、視える。気血、つまり気と血の巡りが、頬の片側で淀んでいる。眠れる夜が増えて、肌そのものは前より明るい。けれど、エラから首筋にかけて、まだ固い名残があった。長い年月、奥歯を噛みしめて言葉を飲み込んできた、その癖の跡だ。
「左の、奥歯。ずっと噛みしめる癖、ありませんでしたか」
「……あります。気づいたら、噛んでて」
「顔の左半分の巡りが、それで少し止まっています。鏡で、左右で表情が違うように見える日、ありませんか」
美咲が、息を呑んだ。
「ありました。写真で。この前、部署の集合写真撮って。私だけ、なんか……疲れた知らない人が写ってるみたいで」
声が、少し湿った。
「それが嫌で。自分の顔なのに、自分じゃないみたいで。だから、ちゃんと、自分の顔に戻りたいって、思ったんです」
柊木は、その言葉を、静かに受け止めた。
鏡のむこうの自分が、知らない他人に見える。それは肌の問題ではなかった。美咲が長いあいだ、自分の顔を、自分のために動かしてこなかったからだ。誰かに気に入られる表情ばかり作って、自分が本当はどんな顔で笑うのか、忘れかけている。
その奥に、もうひとつ。
柊木の眼は、美咲の背のずっと深いところに、薄く残る焦げの色を、まだ視ていた。第1章のあの日より、ずいぶん淡い。けれど、消えていない。本人の暮らしが整えば薄れていくはずのその霧が、まるで職場が毎日、薄く塗り重ねるように、しぶとくそこに居座っている。
「小林さん」
柊木は、トレイの鍼にはまだ手を伸ばさず、お茶を一口すすめた。
「今日は、打ちません」
「え。だめ、でしたか」
「いえ。今日はちゃんと、聞かせてほしいんです。あなたが綺麗になりたいと思った、そのいちばん奥の本音を。たぶんそれは、顔の話だけじゃない」
美咲は、湯呑みを両手で包んだまま、まばたきをした。
「本音……」
「次に来てくれるとき、一緒に探しましょう。温かいお茶を入れて、ゆっくり」
窓の外、昼休みの終わりを告げるチャイムが、遠く鳴った。
美咲は、まだ何かを言いかけて、結局、こくりと頷いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
顔は、内側の鏡。美容鍼を「顔だけいじる魔法」じゃなく、巡りを整える話として書きたくて、この章を立てました。
集合写真の自分が知らない他人に見えた。美咲のあの感覚、身に覚えのある方も多いんじゃないでしょうか。彼女が「自分の顔に戻りたい」と願ったこと。それ自体が、もう大きな一歩です。
次回、第11話「素顔のツボ」。柊木が美咲の顔に、細い鍼をそっと沈めます。そして、その奥に隠れた本音を聴きます。
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