第9話 昨日の正解
お疲れ様です。
痛みが消えると、人は前を向けます。今回は、腰を取り戻した陸くんが、こわかったステージへ向かう回です。
そして章の終わりに、柊木がなぜ「細い一本」にこだわるのか。その原点が、少しだけ姿を見せます。第3章のしめくくり、どうかお付き合いください。
鍼を打った翌々日、陸はもう、ふつうに歩いていた。
社内便の台車を押して、フロアをきびきびと回っている。すれ違いざま、柊木に気づくと、彼は深々と頭を下げた。
「先生。腰、まったく痛くないです。それより……あの、ありがとうございました。腰以外も」
「いえ。あなたが、自分で立つと決めただけですよ」
陸は、台車の取っ手を握ったまま、少しためらってから言った。
「俺、ずっと、上手い人にビシッと治してもらえば、それで安心できると思ってたんです。痛いとこを、力で消してもらえば、それでいいって」
「ええ」
「でも先生のは、消すんじゃなかった。俺の身体に、聞いてくれた。こわいって本音まで、聞かれちゃって。……あんなの、初めてで」
柊木は、湯呑みを二つ用意しながら、静かに笑った。
「速水さん。ひとつだけ、覚えておいてほしいことがあります」
「はい」
「身体は、誰かの所有物じゃない。事務所のものでも、お客さんのものでもない。その人自身のものです。ステージで響かなかったとしても、あなたの身体は、あなたのものだ。それだけは、誰にも値踏みさせなくていい」
陸は、その言葉を、口の中で何度か繰り返した。やがて、こらえきれないように、くしゃりと笑った。
来週のライブの夜。
陸からメッセージが届いた。「立てました。最後まで、腰、平気でした」。それから少し間があって、続きが来た。「事務所の人、声かけてくれませんでした。でも、めっちゃ楽しかったです。また、やります」。
柊木は、その文面を二度読んで、ブースの窓辺で小さく息を吐いた。
声はかからなかった。けれど陸は、夢をあきらめる言い訳を、もう必要としていない。立つのがこわかった青年が、こわいまま立って、そして「また、やります」と書いてきた。痛みを取り戻すことは、その人の歩幅を取り戻すことだった。
その夜、誰もいないブースで、柊木はひとり、細い鍼を見ていた。
髪の毛のように頼りない、この一本。これを最初に握らせてくれた人のことを、見るたびに思い出す。
まだ柊木が、薬で焼き切れた身体を引きずっていた頃。
白石宗玄は、町外れの治療院で、柊木の手にこの細い鍼を一本、のせた。太い鍼を選ぼうとした柊木を、皺だらけの手が止めた。
強い鍼が偉いと思うとるな。違うぞ。
白石は、窓の光に鍼をかざして、ぽつりと言った。
響かせるな。聴け。太い鍼で身体を怒鳴りつければ、身体はびっくりして、ほんの一瞬だけ言うことを聞く。だがな、本音は、怒鳴られた相手には言わんものだ。
細い鍼は、頼りない。けれど、頼りないからこそ、身体は警戒を解く。そうして初めて、いちばん奥に隠した一言を、ぽろりとこぼす。
ツボはな、その一言と一緒に動くんだ。だから追え。昨日の正解にしがみつくな。
柊木は、あの日の鍼の重さを、手のひらで覚えている。頼りないほど軽くて、けれど、どんな太い鍼より遠くまで届いた。
鍼を捨てていると、ブースの入口で、遠慮がちな声がした。
「先生、まだ大丈夫ですか」
美咲だった。仕事帰りらしく、コートを腕にかけている。
「小林さん。どうぞ、お茶でも」
「いえ、すぐ帰ります。ただ……ちょっとだけ、聞いてほしくて」
美咲は、入口に立ったまま、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「速水くんが、すごく元気になったって聞いて。それで、思ったんです。私も、痛いところを取ってもらうだけじゃなくて。……なんていうか、私、最近、鏡を見るのが嫌じゃなくなってきて」
「ええ」
「だから、その。先生に診てもらうついでに、ですけど。自分のために、ちょっとだけ、綺麗になってみたいなって。……変ですか、こんなこと言うの」
柊木は、磨いたばかりの鍼を、そっと布の上に置いた。
「変じゃありませんよ」
いつかの美咲なら、誰かに見せるために、を理由にしただろう。今の彼女は、自分のために、と言った。澱の奥で、確かに何かが向きを変えていた。
「次は、そういう鍼の話をしましょうか。温かいお茶を入れて、ゆっくり」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第3章はこれでひと区切りです。声はかからなかったけれど、陸くんは「また、やります」と書いてきました。勝ち負けより、自分の身体で立てたこと。そこを書きたかった回でした。
そして白石老人の「響かせるな、聴け」。柊木の細い一本の原点です。彼の鍼が、なぜあんなに頼りなく、なぜあんなに遠くまで届くのか。その答えが、ここにあります。
次章からは第4章「美容鍼の秘め事」。美咲が、初めて自分のために変わりたいと願います。二人の距離が、少しだけ近づく章です。
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