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3>●第一幕 ボクはキミの××××××になりたい>第三節:日課の素振り

第五幕最終節まで、あと27節。

3:日課の素振り


 大学からの帰路。最寄りのバス停で降りた僕は、見慣れた歩行者信号が赤になっているところで歩みを止める。


 僕が住んでいる……今は「僕ら」が住んでいる二階建てのアパートは、ここからでも見つけることができた。ベランダのある壁面に沿って流れる道路との境には、昨今の防犯意識を反映してか、視界を遮るような壁はなく、申し訳程度に設えられた芝生の庭と、数本の低木が植えられている。


 横断歩道を渡って短い直線を進み、二階へ続く階段を上ると、一番奥にある部屋のドアに鍵を差し込む。


 部屋の間取りは、大学生には少し贅沢な1LDK。父が懇意にしている不動産屋が、友人価格で相場よりだいぶ安く住めるように手配してくれた部屋だった。


 鍵を閉めた瞬間、ようやく自分の時間が戻ってきた気がする。


 外の目まぐるしさと室内の静けさのあいだに、かすかな境界があるように感じられた。この形での暮らしを始めて以降、部屋の内と外をこっち側とあっち側というように、無意識に分けていたのかもしれない。大学で今日一日に発した言葉の数は、たぶん僕がこの一ヶ月で使ったものと同量か、それ以上になるだろう。


「ただいま」と小声で呟き、リビングへやってくる。二人がけのソファにだらりと座り、今日のことを振り返った。


 初対面の相手と言葉を交わしたのはどれくらい前になるだろうか。


 僕はスマートフォンを操り、画面に表示された名前を見る。 


 絹倉高判――妙に馴れ馴れしくて、距離感のわかりづらい青年だった。けれど、何かを見透かすような瞳が印象に残る。僕のこともほんの少し、外から覗き込まれたような気がしてならない。あのキャッチボールのやりとりにも、言葉以上の何かが含まれていたように感じられた。


 不意に「お帰り」という声が聞こえてくる。


「ただいま。寝てなくて大丈夫?」


 僕はほぼ昼夜逆転した生活を送る恋人に返した。


 長嶋結美ながしまむすびは「うん、平気」と頷くと、ベッドのある部屋から出てきて僕の隣に座る。それが彼女の定位置だった。この数ヶ月、ほとんど日光を浴びていない、透き通るように白い肌の彼女を見て、僕は自分のホームグラウンドへ帰ってきたという安心感を覚える。


「手続きは無事に終わった?」


「うん」


「どうだった、大学は……?」


「やっぱり高校とは規模も設備も違ったよ。ぜんぜん回りきれてないけど」


「そう。わたしも行ってみたかったな」


「行けるよ。今はまだ準備が整ってないだけで」


「行けるかな……行けるといいな」と結美は力無く笑う。「ごめんね……森也」


「結美が謝ることなんてひとつもないよ」


 僕がいつものようにそう答えると、結美は瞳を閉じて、小さく首を横に振るような素振りをする。会話はそこで途切れた。


 結美の性格はたしかに変わってしまったかもしれない。でも、僕たちのあいだに流れる空気は、高校で付き合っていた頃から、何ひとつ変わっていないのだ。


 僕は必ず、あの頃と同じ結美の笑顔を取り戻す。いや、取り戻さなければならない。



 夜八時を過ぎた頃、うつらうつらしていた結美をベッドに寝かせる。結美の寝息は規則正しく、安らかだった。だが、その頬は以前より痩せて見える。回復傾向にあると思っているが、僕が気づけていない不調要因があるのかもしれない。


 だからなんなのだ。僕は自分の胸を、拳で殴りつける。


 今の僕は、今できることをおこなう。まずは日課の「素振り」だ。僕は動きやすく、汚れても良いTシャツに着替え、木製バットの入った革ケースを肩にかける。


 夜な夜な町内を無作為に歩くのが日々の習慣になっていた。


「素振りの日課」というのは結美を不安にさせないためについた嘘の名目だ。

本当の目的は……結美をあんな状況に追いやった犯人……「キズモノ」を見つけて、結美が味わった以上の恐怖や苦痛を与えることだ。


 一歩、アパートの外へ出た瞬間、昼間のぬるい陽射しがすっかり冷めきったことに気づく。夜の空気が、肌にじんわりと貼りついた。誰もいない路地を進みながら、肩にかけたバットの重みだけがたしかな感触だった。

 

 なんの手がかりもない。ただ当て所なく町を歩く。たった一回の目撃証言とネットの情報をたよりに遭遇を試みようとするのが、どれほどバカげた行動であるかはわかっている。わかっていても今の僕にはこれくらいしか思いつかない。


 五分ほど歩いては、短いダッシュを入れて心拍数を上げる。


 自転車を使わないのはこうした鍛錬を入れることで、身体を鈍らせないようにするためだ。けして自転車を使ったら見回りが数段早く終わってしまうから、というわけではない。断じてない。

どれくらい経った頃だろうか。


 実際にキズモノと出くわしたら……という虚しい想定をしてみる。咄嗟に体が動かない、なんてことにならないよう、僕は身構えて十メートル先にぼんやりと見たこともないキズモノの輪郭を思い描く。こっちに向かってくるなら、ケースの中にあるバットを取り出すところだが、今日の仮想キズモノは背中を向けて走り出した。


 僕は、心の中で「待て」と叫び、走り出す。何度か通りの角を曲がるが、まだ見失っていない。その先には小さな市民公園がある。自分の身長を超える生垣の、わずかな隙間を走り抜ける。そうして見通しの良い中央の広場まで来て、僕は足を止めた。息が上がっている。手の平にもじっとりと汗が滲んでいた。

 

 体力が落ちているな、と思う。


 何をやっているんだ、僕は……。


 虚しいのはわかっていたが、理屈では抗いようのない虚無感が僕の心に押し寄せてくる。


 帰ろう……結美の待つ部屋に。


 そう思って公園を出たとき、足元にあった小石を蹴飛ばしたようで、乾いた音が響いた。その音が、やけに大きく耳に残る。


 視界の端に何者かの影が差した。


「やあ」


 親しげな声をかけられる。親しげ? 自分で感じたことに疑問が生じる。


 電灯に照らされた顔が見える。大学で会った青年、絹倉だった。


「何をしていたんだい、深津森也ふかつもりやくん?」


 絹倉の問いかけに真っ当な答えは必要ないだろう。


「用事は終わったんだ。今帰るところ」と僕ははぐらかす。


 一拍の間、空気が緩む。


「なら良かった。行ってみたいところがあったんだ、ちょっと付き合ってよ」

僕が断ることなんて、これっぽっちも想像していない人間の口調だった。難癖をつけるだけの労力すら惜しい僕は、頭に浮かぶ突っ込みや文句を手放して、絹倉の歩みに少し離れてついていく。


「ところでさ……」


「何?」


「森也って呼んでいいよね? 苗字も『くん』付けも、面倒だし」


「どうぞ」


 僕が拒否することなどハナから考えていない相手には思考放棄が一番楽だと学ぶ。


 辿り着いた先は、「葛の湯」という名の銭湯だった。


「一度来てみたかったんだよね……」と絹倉ははにかんだ。


 脱衣所で服を脱ぎ始めた僕のほうを見て、「ち……?」と絹倉が呟いた。


 なんのことかわからず反応に困っていると、絹倉がポケットから長四角の紙片を取り出し、軽やかな手捌きで僕の頬に触れる。絹倉の手が離れ、僕がそこに手を当てる。


 バンソーコーを貼られたらしい。どうやら頬に傷ができていたようだ。そういえば、左頬にわずかな痛みがある。


「猫にでも引っ掻かれたのかい?」


「いや……」


 原因を考えてみた。おそらくキズモノの虚像を追い駆けて公園の生垣を走り抜けたときに、木の枝にでも引っかけたのだろう。


「どうも」と軽く頭を下げる僕に、絹倉は「どういたしまして」と微笑んだ。


 僕が服を脱ぎ終えると、一拍遅れて脱衣した絹倉が「助かったよ」と言う。


「何が?」


「こういうスタイルの銭湯へ来るのははじめてだから、作法がよくわからなくてね」


 帰国子女か何かだろうか。そんなことを思いつつ、口には出さないで浴場へと足を運ぶ。



「君は博愛主義者か何かなの?」


 体を洗って湯船に浸かった僕は、ぼんやりと口に出していた。


 広めの湯船に誰かと横並びで入るのは、高校の部活時代以来だ。


「その心は?」


「フツー、今日知り合った奴と銭湯なんて行ったりしないだろ」


「キャッチボールをした仲じゃないか」


「待ち合わせの人が来るまでの時間潰しだろ」


「時間潰しくらい、一人でもできるさ」


「なら、なんで……」


「キミは傷ついてる」


「は?」


「キミのボールを受けて、そう感じたんだ。ボクの直感は霊能者顔負けに鋭いからね」


「よくわからないよ」


「いずれ、わかるときがくるさ……傷ならばボクとともに、癒していこう」


 絹倉の言う「いずれ」という未来が、僕には漠然とし過ぎていた。


「ボクはね……なりたいんだ」


「……何に?」


 絹倉は湯船から右手を出し、僕の頬に触れた。そこには絹倉に貼ってもらったバンソーコーがある。


「ボクはキミのバンソーコーになりたい」 

読んでくださってありがとうございました。


ブクマ・ポイント・ご感想、すべてが力になります。

どうか、最後の風景まで見届けていただけますと嬉しいです。


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次節:第一幕 第四節「後期開講と人集め」

5/23(土) 15:00 公開予定

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