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第五幕最終節まで、あと6節。
24:キャッチボール
もともと飾り気のない部屋が一層、殺風景になっていた。壁のカレンダーさえ外されていることに気づく。季節を告げるものが、何ひとつ残っていなかった。
僕はこの相談室でおこなわれたいくつかのやりとりを振り返る。有意義なものもあれば、ただの無意味な雑談もあっただろう。だが、今ならわかる。僕にとって、胸の内にあるものを吐き出すというのは、どれも必要なことだったのだ。数枚のA4用紙をシュレッダーにかけると、残花は僕のほうを見る。
「これで私がこの大学にいた痕跡はなくなった」
「逃亡者にでもなるんですか」
「立つ鳥後を濁さず、と言うだろ。残すところは君の始末だけだ」
「そんな……人を残飯みたいに」
相変わらず残花の言葉は真面目なのか冗談なのかよくわからない。
「それで……儀式のほうは考えてきたのか」
「ええ」
「では聞こう」
「じゃあ、とりあえず、外に出ませんか」
事務棟の外へ出て、裏に回ると職員用の広い駐車場がある。
昼を過ぎたこの時間帯に、車の行き来はほとんどなく、駐車しているのも数える限り三台だ。スペースは充分にある。
僕は鞄の中から取り出したそれを、「どうぞ」と残花に渡し、十五メートルほど距離を取る。残花はそれをしばらく眺めたあと脇に挟み、左手の薬指に嵌めている正十字をかたどった銀の指輪を外して、スラックスのポケットへ入れた。
「準備はいいですか」
僕が問うと、残花は「ああ」と頷いて、脇に挟んでいたグローブを嵌める。
僕が考えた終わりの儀式……それはキャッチボールだった。
僕が放ったボールを残花は表情も変えずにキャッチする。残花のフォームは野球経験者のものではないとひと目でわかるが、それでも運動センスが感じられるものだった。僕の胸元に構えたグローブが快いキャッチ音を奏でる。
――ちゃんと集中すれば、相手が投げてくるボールで、その人が今、どんな心の状態か、しっかりとキャッチすることができる。
出会っていきなりキャッチボールをやらされたときに、絹倉から言われた言葉だ。
僕には残念ながらそんな聡い感性は備わっていないらしい。十球以上は受けたが、残花の心の状態など推し量ることもできなかった。
「迷っているな?」
僕のボールを受けた残花が問うてくる。
職業柄か、それとも絹倉のような洞察力を持っているのか……その両方かもしれない。
「だが、それでいい」と投げ返してくる残花の直球は力強かった。
「葛藤も矛盾も己から安易に切り離せるものではない。それらとどう付き合っていくかをずっと考えていくといい。これから君は、さまざまな裏切りに遭うかもしれないが、それが糧になってくれるだろう」
残花は語りながら僕のほうへ歩みを進めてくる。
左手に嵌めたグローブを外すと、僕にそれを差し出した。儀式は終わり、ということだろうか。
残花福伸という掴みどころのない人を、僕はきっと理解できなかった。
でも、それでも彼と過ごした時間は、僕にとって大事な大学生活の一部だったのだ。
「たぶん、なんとかやっていけそうです」
言葉が口をついて出ていた。僕はスマートフォンを取り出すと、ある画像を見せた。それは先日、練習試合で勝利したあとにリベリアンドのみんなで撮った集合写真だ。
「これは?」
残花の問いに、「なんとかやっていけそうな証です」と僕は答えた。
「そうか」
残花が微笑んだ。気のせいかもしれない。改めて見るといつもの無表情だ。この人の表情は、いつも曖昧だった。微笑んでいるようでもあり、悲しんでいるようでもある。まるで人間の感情というものを、別の次元から観察している存在のような印象を受ける。今になって思えば、彼は最初から僕たちとは違う世界の住人だったのかもしれない。
残花はポケットから銀の指輪を取り出し、左手の薬指に嵌めると「良い儀式だった」と言い残して、歩き出す。彼の視線の先に何があるのか、後ろから見ている僕にはわからない。ひとすじの風が吹き、彼の背中を通り抜けていく。
歩き去る残花に向かって、僕は自然と頭を下げていた。
絹倉とは「学術情報センター」に数部屋設置された会議室の一室で落ち合うことになっている。
いち学生が借りられる最大上限時間で予約したと伝えてきたので、長丁場になるのを覚悟したほうがいいだろう。何かを掴んだのか。それとも何も掴めなかったから長時間を見込んでいるのか。どちらにせよ、手持ちの飲み物が心許ない僕は、大学生協へと向かうことにする。待ち合わせ時間まで、まだ三十分はある。生協が多少混んでいても、余裕で間に合う。
「深くん」
後ろから声をかけられた。見なくてもわかる。明乃だ。だが、今は気をつけなければいけない。僕は振り向いて、自然な表情を作ろうとする。
「ああ、明乃……と、菜々穂」
明乃の後ろにぴったり張り付くように菜々穂が縮こまっていた。初対面からの変貌ぶりに正直、驚いている。
彼女たちがキズモノと遭遇して以来、十日余りが過ぎようとしているが、菜々穂は終始こんな様子だった。何についてもびくびくするようになった。一人では部屋から出ようとせず、毎日明乃が迎えに行って、宥めすかして大学に連れてきているのだという。
そんな菜々穂の状況を見て、僕は部屋に置き去りにしている恋人のことを思い出さずにはいられない。
「これから講義?」
明乃の問いに「いや、生協行って、そのあとは野暮用でちょっと……」と返す。
菜々穂の手前、これから絹倉とキズモノについて話す、とも伝えづらかった。
明乃は「そっか」と力なく呟く。無理もない。明乃は僕よりも人間ができているが、それでも同年代の女の子なのだ。終始、暗い顔をした友達の世話をさせられていたら気が滅入ってしまうだろう。
「良かったら、生協までいっしょに行かない」
僕が提案すると、明乃の表情がぱっと明るくなり、「大丈夫だよね」と後ろを振り向く。菜々穂が申し訳なさそうに頷くのを見て、僕らは歩き出した。
二人とも疲れているはずだ。できることなら、少しでも気を抜いてもらいたい。
菜々穂がすぐ横にいる手前、直接的な話題は避けたほうが無難だろう。だから話題の選択肢をいくつか頭の中で思い浮かべ、いちばん軽いものを選ぶ。
僕は明乃たちに他愛のない野球話をすることにした。
「高校の野球部時代のことなんだけどさ、唯一僕が、他の部員に負けなかったことがあるんだ。なんだと思う?」
明乃はいつもの朗らかな調子で「え、なんだろ」と会話に乗ってきた。「ねえ、菜々穂はなんだと思う?」と落ち込んでいる友人への気配りも忘れない。
「打率……とか?」と菜々穂が小さく呟く。
その声は震えていたが、たしかに僕たちに届いた。明乃が感動を抑えたような顔をしたのを、僕は見逃さなかった。菜々穂なりに会話に参加しようとしてくれたのが嬉しかったらしい。
「そういうカッコいいのなら、もっと大々的に自慢しているよ」と僕は苦笑いした。
「掛け声の大きさ……とかはキャラ的になさそうだし、わかった! 絶妙な濃度のスポーツドリンクを作ることができた、でしょ」
明乃が得意げに言う。場を明るくしようとしている気持ちが伝わってくる。
「そうそうスポーツドリンクソムリエって言われてて……って、そんなわけあるかっ」
「うわ! 深くんがノリツッコミするところなんてはじめて見た」
明乃は笑ってくれるが、菜々穂の表情は特に変わらない。どうやら僕の身と羞恥心を削った試みも空振りに終わったようだ。明乃のことを思えば、なんてことはない。
「それで……答えはなんなの?」
菜々穂がぼそっと訊いてきた。昔のような元気はなくなってしまったが、気になったことをそのままにしておけないのは、変わらないようだ。
「実はさ、僕は高校の野球部時代、一度も怪我をしなかったんだ。おかげで試合出場数だけは、同学年でナンバーワン。あ、先に言っておくけど『出場回数最多なのに、打率は最多じゃないんだ』っていうのは悪口になるよ」
明乃が声を出して笑った。それを見て菜々穂の口角も少しだけ上がったような気がする。僕はこの光景を見られただけで、明乃たちといっしょに大学生協に来た価値があると思えた。
「早いね」
僕が会議室のドアを開けると、絹倉はすでに準備万端という感じで待っていた。パソコンを繋げ、ホワイトボードには付箋の付いた地図や、出力した写真が貼られている。
「キミと約束した一時間前には、入っているからね」
どうやら何かを掴んでいるらしい。絹倉の表情から、そう感じられた。
二人には広過ぎる会議室で、僕が椅子に座って聞く姿勢になると、絹倉はホワイトボードに貼った資料を指差しながら説明を始める。
「さて、まずは残念なお知らせから伝えることにしよう」
のっけから不景気な言い草だった。
「以前、ボクが提案したSNSにキズモノらしき者と遭遇した書き込みをしている人たちに接触しようとした件なんだけど……」
なんだ、そんなことか、と思う。
「こちらから送ったメッセージには誰もリアクションを返してくれなかった」
結果は聞かなくても容易に想像できていた。だから僕は賛成しなかったのだ。
「だけどボクは粘着質だからね。それで終わることはない」
絹倉は涼しげに微笑んだ。
「直接話を聞くことはできなくとも、彼らが発信した情報を改めて精査してみた。その結果、キズモノの行動にはいくつかの傾向があることがわかった」
絹倉はホワイトボードに右半面にマーカーで書いた手書きの文字を示す。そこには四月から十一月までの日付がいくつも書かれていた。
「これ、SNSに書かれた日付や書き込みの内容からキズモノらしき不審者に遭遇した日付を割り出したものなんだ。ここになんらかの規則性を感じないかい?」
「パッと見ての感じだけど……一ヶ月おきくらい、とかそういうこと? あ、でも、八月がないから必ずしも一ヶ月おきとは言えないのか……」
「いや、『八月がない』とは言い切れない。ボクはただネット検索をしているだけだからね。うまく拾えるキーワードが出せなかったのかもしれないし、八月の被害者がSNSをやっていなかったのかもしれない。あるいはこのとき、キズモノが流行病にでもかかって相手に移るのを危惧して、活動を控えたとか……」
最後のは冗談だろうと思うが、言わんとすることはわかる。
「だからキミの言うとおり、『だいたい一ヶ月おきくらい』というのは、けして的外れな見解でもない」
「それはどうも」
「なぜ一ヶ月おきくらいなんだと思う?」
僕は少し考える。何かしらの理由は必要になるだろう。
「キズモノは自分の体に傷をつけている……だから、その治癒期間が必要だったとか?」
絹倉がちょっと意外そうな顔をした。
「その発想はなかった……ダメだね、自分の仮説ありきで考えていたせいで、視野を狭くしていたみたいだ」
「仮説? それってどんな?」
どうやら絹倉の中では、すでに考察による答えが出ているらしい。
絹倉は頷いて、持論を展開する。
「キズモノが現れる日は、基本的に月が出ていない日……厳密な時間ではないけど、おおよその幅として『新月の日』、ということができる」
僕は絹倉の発言を聞いて息を呑んだ。絹倉は続ける。
「単純に月明かりがないことで正体を隠しやすいのかもしれないし、なんらかの儀式的な決め事をキズモノが持っているのかもしれない。そのあたりは直接問うしかないと思うけど、もし僕の仮説が正しければ……」
「次にキズモノが行動をおこす日が予想できる?」
「ご明察」
絹倉が人差し指を立てる。
「呟き系は即時性があるSNSだから、言及がない限りその発信時間近辺。ブログのほうは幸いにも記述があって、出現時間は夜の八時から十時前に絞れる。襲う相手は女性だけとも限らないし、明乃たちの前に現れたことも考え含めて、必ずしも一人だけを狙い撃ちにしているわけでもない。ただ襲う対象以外に人目のないところは選んでいるようだ」
なるほど、キズモノの出現日時や対象に関しては相当の限定ができたことになる。
そこで僕はホワイトボードの左反面に貼られた地図を見る。そこには、赤いマーカーでいくつかのポイントに星印が打たれており、写真が貼られていた。僕は絹倉が次に出そうとしている話題を先読みする。
「時間が絞れたら、次は場所の話か?」
絹倉が「そこでこちらの地図だ」とホワイトボードを軽く叩く。
「六件の書き込みのうち、五件はキズモノに遭遇した場所の画像を貼ってくれていた。それを警察に訴えたけどロクに動いてくれない、なんて愚痴もあったけど」
絹倉が苦笑いをすると、ホワイトボードに貼った地図に赤いマーカーで歪な円を描く。
「SNSの証言を見る限り、キズモノの出現範囲を思ったほど広くはない。この円内に収まる範囲で、人目につきにくい場所になるだろう」
地図をよく見ると、そこに見慣れた相南平の番地が書かれていた。
絹倉がSNSの証言や画像から割り出した出現範囲は、僕が夜な夜な見回りしている範囲と大きく変わらない。直径十キロメートルほどの範疇だ。漆野のときも思ったが、ニアミスしていたかもしれない出現範囲だった。
「どうかな」
絹倉が涼しげに笑う。その笑みにはどこか得意げな感じが読み取れ、面白くない。面白くない……が、ただ無策に見回っていた僕からすれば、「お見事」と思う他なかった。
「負けたよ。ここまで詰め切れるとは思っていなかった」
僕が白旗を上げるように、右手を振った。
「でも……」と僕は思いついていた反論を口にする。「たしかに、おおよその日時、そして、場所は絞り込めたかもしれない。だけどさ……時間はまだどうにかなるとして、出現可能性の範囲は広すぎるよ。たとえ、僕らが二手に分かれたって、とても網羅できるとは思えない」
「誰が二手に分かれるって言った?」絹倉が不敵に笑う。「ここから先は、今まで積み上げてきた人脈が物を言うのさ。最高の作戦を考えてきたよ」
「作戦?」
「その名も……『お友達大作戦』!」
絹倉が今日いちのキメ顔をし、僕はそのふざけた作戦名に椅子からずり落ちていた。
「こっちは大真面目なんだけど」
「あ、うん。それがわかってるからこのリアクション」
絹倉はやれやれという感じで息を吐き、僕に「お友達大作戦」の構想と詳細を語り始めた。聞き終えた僕の顔からは血の気が引いていたと思う。
絹倉は「さあ、絆の力を見せてやろう」と涼しげに微笑んだ。
読んでくださってありがとうございました。
ブクマ・ポイント・ご感想、すべてが力になります。
どうか、最後の風景まで見届けていただけますと嬉しいです。
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次節:第四幕 第三節「新月の夜の包囲」
7/24(金) 20:00 公開予定
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