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23>●第四幕 お友達大作戦>第一節:明乃の遭遇

第五幕最終節まで、あと7節。

●第四幕 お友達大作戦


23:明乃の遭遇


 月のない夜だった。


 それは、駅から徒歩で十数分のところにあるという菜々穂の部屋へ向かっている途中で起きたという。落ち込んだ菜々穂を気遣いながら、彼女の隣を歩いていた明乃は、人通りの少ない路地に入ったところで、ぼんやりと浮かび上がる人影を見る。


 黒いパーカーを着た男が立っていた。立ち塞がっていた、という表現のほうが正しい。男のまとう異様な雰囲気が道を覆っていた。男だとわかったのは、背丈や体格からだ。


 街灯を背にし、パーカーのフードを目深にかぶってできた影のせいで、どんな顔をしているのかもわからない。


 無視して通り過ぎようとするのも気味が悪い。そう思った明乃は、来た道を引き返そうとする。


 そのとき、男がスッと右手をかざした。


「待て」


 声はなぜか二重、三重に反響したように聞こえ、その輪郭を捉えることができない。足どころか、指一本動かせなくなっていることに気づいた。


 明乃たちの状態をわかっているのか、男がゆっくりと歩み寄ってくる。


 逃げ出したいのに、体は金縛りにあったかのように自分の意思を阻んだ。隣にいる菜々穂の様子も気になるが、首をそらすどころか、目を動かすこともできない。


 近づいてくる男が、その背丈以上に大きく感じる。パーカーのフードで作られた影が、男の顔全体を覆い、黒いのっぺらぼうのようだ。


 あと一歩踏み出せば、手が届きそうな距離まで迫ってきた男は、右手の人差し指を額に向けてくる。触れられたのかはわからない。だが、妙な感触が額の中心に残る。菜々穂に対しても同様の仕草をおこなったらしい男は、まっすぐ伸ばしていた右腕を払うように外側へ振った。


 何も持っていない。


 頭ではわかっているのに、なぜかその右手には、包丁のような、あるいは鎌のような刃物が握られているようにしか見えなかった。パントマイムで存在しないはずの場所に壁を感じるように、その男の右手には「見えない刃物」があるように見えた。


 切り付けられたらどうしよう。恐怖が明乃の体内を震わせる。それよりも菜々穂を守らなくては……明乃は動かない体の代わりに、めいっぱい脳を動かそうとするが、眼前に立つ男への恐怖はそれすらも許さない。


 男が右手にあった刃物を振るう。


 明乃は目を逸らすこともかなわない。


 だが、見えない刃物が傷つけたのは、明乃たちではなかった。


 男は右手にあった刃物を、自身の左前腕部に刺した。そして、ジリジリと手首のほうへ向かって刃を這わせていく。


「お前の罪を背負ってやる」


 再び輪郭のはっきりしない声が聞こえたかと思うと、男が左腕を上げ、パーカーの袖口を右手で掴んだ。


「この傷は、その証だ」


 男が左腕の袖を引き下げると、刃物で切り開いたような生々しい傷口ができていた。明乃たちの後方にあった電灯のわずかな光が傷口のあたりだけを狙い澄ましたように照らす。男の左前腕部背側の肘から手首にかけて、見るだけで卒倒したくなるほどの傷がぱっくりと口を開いていた。皮膚を開いた先にある肉が脈打っている。ところどころに、傷口の両端をつなぐように粘度が高く赤黒い血が糸を張っていた。


「お前の罪は、この傷となった。それを心に刻み、己が生を、その祖たる者たちが犯してきた過ちを省みるがいい」


 日本語というのがわかるだけで、放たれた言葉の意味はまったく理解できない。


 やるべきことを終えたらしい男は、左腕の袖を元に戻すと、背を向けて歩き出す。


 数秒ほどで男の姿は見えなくなり、あたりに満ちていた禍々しい空気も消えた。


 呼吸を忘れていたことに気づいた明乃は、貪るように空気を吸い込んだ。欠乏していた酸素を取り戻した血液が、全身を急いで駆け巡っていた。体全体が極度の緊張状態になっていたことを痛感する。


 突然、隣にいた菜々穂が両膝をついた。


「大丈夫?」


 明乃が片膝をついて問うたが、答えはない。


 菜々穂は土下座をするように地面に突っ伏し、唐突に泣き出した。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 すでに不審者はいなくなっている。明乃がその状況を伝え、「もう大丈夫だよ」と何度宥めても、その言葉はまるで届かず、菜々穂は謝り、泣き続けた。


 ここまでが、明乃の話を聞いて僕がイメージできたことだった。


 とにかく個室で話したほうがいいだろう。そう考えた僕らは、駅前のカラオケボックスに入った。店内は賑わっていたが、通された個室に入った瞬間、外の喧噪から切り離される。薄明かりの照明と、防音によって閉ざされた空間が、ひとまず「僕らだけのスペース」であることを保証した。


 菜々穂は震える両手で顔を覆い、恐怖に泣き崩れている。ときおり嗚咽まじりに何かを呟いていた。明瞭な発音にはならない自罰めいた言葉を、何度も繰り返しているように聞こえた。その隣で、蒼ざめた顔をした明乃が「怖かったね、もう大丈夫」と声をかけている。懸命に菜々穂の肩あたりをさすっている姿がいじらしい。


 絹倉と僕は、菜々穂が落ち着くのを待って、少しずつ明乃から話を聞いた。


 大筋はこれまでSNSにあった、キズモノ関連の書き込みと同様、「お前たちの罪を、背負ってやる。この傷はその証だ」と言って、自身の体についた傷口を見せる、というものだった。だが、今回は文字ではなく、実際に目の当たりにした者の情報だ。聞き出せる解像度が違う。


「いくつくらい? とかなんてわからないよね」


「普通なら声の感じとかでわかるんだろうけど……さっきも言った通り、妙にぼやけた声だったから……口調的に、私たちより年上なんじゃないかな」


「身長は?」


「ちゃんとはわからないけど、たぶん百七十センチ以上。絹ちゃんたちより大きいと思う」


 明乃はそこまで答えて「ごめんね」と頭を下げた。「私もびっくりして、頭がぜんぜん回んなくて、記憶があやふやかも……」


 無理もない。キズモノなんて不審者が突然目の前に現れたら、正常な精神でいることなどできないだろう。しかも明乃は自分のことより、パニックに陥っている菜々穂のことを優先していたに違いない。


「こちらこそごめん。今つらいのは明乃たちのほうなのにずけずけ訊いちゃって」


 絹倉が殊勝な顔をする。


「ううん、私は大丈夫なんだけど……」


 明乃は心配そうに、今も泣いている菜々穂を見た。


 カラオケボックスで二時間ほどを過ごし、ひとまず立って歩けるくらいには落ち着いた菜々穂を、明乃といっしょに家へ送り届けた。


 明乃が「今日は菜々穂ちゃんちに泊めてもらうよ」と言ったのは、離れがたそうな視線を菜々穂から送られたからだろう。


「今度のはホンモノ、かな?」


 帰り道、絹倉が訊いてくる。


「そんなの僕にわかるわけがない。でも……」


「でも?」


「今回もニセモノだったとして、僕らをそこまで恨んでいる人間に心当たりがない」


 僕らの関係者に偽物を仕掛けてくるとしたら、漆野くらいに恨んでいる者だろう。だが、この数ヶ月でできた人間関係の中でそんなネガティブなものを作ってきた覚えがない。むしろ良好な関係を築けたほうが多いくらいだ。それも絹倉の介在があってのことではあるけれど。


「こうなったら、キズモノに遭遇した人たちに直接話を聞いてみるのはどうだろう」


 絹倉が閃いたとばかりに提案してきた。


「どういう意味?」


「ボクらの情報源のほとんどは、SNSで発信されたものばかりだ」


 菜々穂たちの証言と、ほとんど話してくれない結美を除いたら、たしかにその通りだ。


「だから、その書き込み主とかに直接メッセージを送って話を聞いてみよう」


 そう提案された瞬間、僕の胸に去来した思いは、なんと無駄なことを……というものだ。釣果ゼロなのが目に見えている。だが、絹倉なりに考えてくれてのことだと思い直し、「急に連絡したって、協力なんてしくれるかな」と消極的な素振りをした。


「このまま当てのない見回りを続けるよりは賢いと思うけど」


「わかった。ならばそっちは絹倉に任せるよ」


 僕は心の中で、意味がないと思うけど、と続ける。


「僕は賢くないから、引き続き今までどおりのやり方を貫かせてもらう」

読んでくださってありがとうございました。


ブクマ・ポイント・ご感想、すべてが力になります。

どうか、最後の風景まで見届けていただけますと嬉しいです。


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次節:第四幕 第二節「キャッチボール」

7/21(火) 20:00 公開予定

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