第71話 切り戻しまで百分の一秒
帰還本番は朝の早い時間に始まる予定だった。
修司は前夜のうちに、全員の配置を決めていた。エイラとその保守班が基盤炉監視室で負荷の数値を見る。セルアスが承認局への緊急凍結命令の再発行に備えて、監視室の隣の部屋で待機する。バルトが北部・東部の地方炉担当者と通信を繋いで、予備魔石の投入タイミングを手元で管理する。ガルドが帰還準備室の外廊下と召喚の間への導線を封鎖する。
聖女は生命維持補助の独立処理を担当し、ユウトの傍に立つ。
修司自身は監視室のコンソールに座り、帰還処理の深層ログと、旧テンプレートの監視ラインを同時に開いたまま待つ。
前夜の通知を、もう一度確認していた。
〔帰還本番申請受理と同時に承認局旧テンプレートが自動起動を試みた——即座に凍結により停止〕
申請が通った瞬間に動いた。申請というトリガーがあった。では帰還処理が実際に始まり、空き容量が発生し始めた瞬間には何が起きるか。それはまだ分からない。分からないから、全員に役割を持たせた。
午前六時、ユウトが帰還準備室に入った。
帰還処理の最初のフェーズは、供給リンクの段階的な遮断だ。
第一段階として、ユウトの供給リンクを十パーセント絞る。生命維持補助は聖女が独立処理として維持している。基盤炉への負荷変動は、この段階ではわずかだ。
エイラの声が通信に入った。
「第一段階、開始します。現在の基盤炉負荷……定常値内です」
「確認しました。継続してください」
修司は深層ログを見ていた。帰還処理のセッションが開いている。ユウトの魂波形が安定して出力されている。数値は基準値の範囲内だ。
第二段階。二十パーセント。
「負荷、少し動きました。定常値内ですが上端に近い」とエイラが言った。
「想定内です。地方炉の残量を確認してください」
「北部、バルトさんから確認中……七十二パーセント、現状問題なし、とのことです」
修司はメモに数字を書いた。第二段階、安定。
第三段階に入ったのは、開始から十七分後だった。
三十パーセントの遮断。ここからが、事前試算で最も負荷変動が読みにくい範囲だった。
変化は、第三段階に移行してから三十秒以内に来た。
修司のコンソールの右端——旧テンプレートの監視ラインに、一件の通知が入った。
〔承認局管理系統:旧テンプレート起動シーケンス検出。対象リソース:帰還用安全余裕〕
昨夜と同じ種別だった。ただし今回は申請受理ではなく、帰還処理の実行中に来た。
「エイラさん。旧テンプレートが起動しています。帰還処理は続けてください。継続します」
「続けますか? バッファが食われそうになっても」
「バッファの優先度を今から最上位に固定します。テンプレートの復帰はそちらで対処します。エイラさんはユウトさんの数値だけ見ていてください」
「……了解しました」
修司は二つの操作を並行した。一つ目——帰還用安全余裕のリソースIDに対して、優先度フラグを暫定的に最上位に書き換える。これで旧テンプレートが同じリソースを参照しようとしても、帰還処理側が先に確保済みの状態として弾ける。
二つ目——旧テンプレートの復帰ログを、今この瞬間のタイムスタンプ付きで保存する。起動した事実、起動した対象、起動したタイミング。全部記録に入れる。
〔帰還用安全余裕:優先度最上位に一時固定〕
〔旧テンプレート復帰ログ:保存完了。帰還処理第三段階への移行と同時刻に起動を確認〕
セルアスへの通信を入れた。
「旧テンプレートが動きました。承認局への凍結命令を再発行してください」
「今すぐいたします」とセルアスが即座に返した。紙を出す音が通信越しに聞こえた。
「凍結命令、起草します。マナベ殿、発行先の部署に変更はありますか」
「承認局と、魔導院の管理系統の両方に同時に出してください。魔導院が防衛予備権限で上書きしてくる可能性があります」
「両方、同時に出します」
第三段階の処理が安定し始めた頃、バルトから通信が入った。
「北部地方炉、残量が下がり始めた。想定より速い」
「どれくらいのペースですか」
「計算より二割増しで消費している。試算では一時間分の余裕があったが、七十分で底をつくかもしれない。予備魔石、今から入れた方がいいか」
「入れてください。第三段階が終わるまで持たせてほしい」
「了解した。今から北部担当に指示を出す」
バルトが通信を切った。修司は地方炉の残量監視ウィンドウを一つ開いた。北部の数値が少しずつ下がっていくのが見えた。バルトが予備魔石を投入するまでのタイムラグがある。その間、数値は下がり続ける。
第四段階の開始を少し遅らせるかどうかを考えた。遅らせると帰還処理全体の時間が延びる。延びると、旧テンプレートが抵抗する時間も長くなる。遅らせない方がいい。
「エイラさん、第四段階に移ります。現在のユウトさんの数値は」
「波形は安定しています。生命維持補助、聖女から問題なしの確認が入っています」
「続けます」
第四段階に入ったのは、開始から四十一分後だった。
このフェーズでは供給リンクを六十パーセント遮断する。基盤炉への負荷変動が本格的に大きくなる段階だ。
修司がキーを打った直後、監視室の入口の外で声がした。
ガルドの声だった。廊下に誰かがいる。
「立ち入り禁止です。帰還監査の実施中です」
「緊急の通達がある。魔導院からの優先権限命令だ。帰還処理を一時停止させる」
修司は聞きながら、手を止めなかった。
廊下に来ているのは魔導院の使者だ。優先権限命令、という言葉を使っている。ガルドが扉の前に立っていて、中には入らせていない。
「何の根拠で停止を命じますか」とガルドが静かに言った。
「国家防衛緊急対応権限の行使だ。基盤炉の現在の負荷変動は、省令第十七条の発動条件を満たす」
「発動条件の確認は誰が行いましたか」
「魔導院の判断だ」
「軍務部の意見書はありますか」
「それは必要ない。緊急の——」
「現在、前線の軍務部からの意見書が帰還監査に提出されています。省令第十七条の発動には防衛上の緊急事態の確認が必要ですが、前線は現在安定していると軍務部は証言しています。停止命令の根拠が不足しています」
廊下のやり取りを聞きながら、修司は修司でコンソールを見ていた。
魔導院の上書き要求が、管理系統から来ている。ガルドが使者を扉の前で止めている間にも、システム上では要求が来ている。
「セルアスさん。魔導院の上書き要求が来ています。防衛予備権限名目です。照会を出せますか」
「すでに出しています。軍務部の意見書を根拠として、省令発動条件を満たしていないという異議申し立てを同時に送りました。処理が完了するまで要求は保留状態になるはずです」
「確認しました」
修司は管理系統の画面を見た。上書き要求の横に、保留処理中のステータスが入っていた。セルアスの動きが間に合った。
廊下では、ガルドがまだ使者を止めている。使者が別の根拠を探している声が聞こえる。ガルドはそのたびに「記録します」と言っていた。入れない。入らせない。戦わずに、ただ立っている。
第四段階が完了したのは、開始から七十一分後だった。
北部地方炉の残量が一時的に六十パーセントを下回ったが、バルトが予備魔石を投入したことで持ち直した。バルトから「東部に余裕が出てきた。融通できる」という短い通信が来た。
「北部に回してください」と修司は返した。
「確認します」
ダリルへの通信も入れていた。前線結界の安定を確認する短い照会だ。返答は書面ではなく、今回は通信で直接来た。
「前線、現在安定。縮退を受け入れた状態で維持している」とダリルが言った。声が低かった。
「マナベ検査官。帰還させてやれ」
「しています」と修司は短く答えた。
第五段階。供給リンクの遮断を八十パーセントへ。
ここが臨界点に近い。帰還処理の最終フェーズに入ると、ユウトの接続が急速に薄くなる。残り二十パーセントの供給リンクが切れると、ユウトはこの世界との物理的な接続を失う。
修司はバッファの優先度が最上位に固定されていることを確認した。旧テンプレートの復帰ログが積み上がっていることを確認した。セルアスの凍結命令が処理中であることを確認した。
全部見えている。
「エイラさん、第五段階に移ります」
「分かりました」とエイラが言った。
「現在のユウトさんの波形……安定しています。聖女から確認、生命維持補助も問題なし」
「では始めます」
修司がキーを打った。
供給リンクが最終段階の遮断へ入った。
基盤炉が一度、大きく揺れた。
揺れ、という言葉は正確ではない。負荷変動が数値として出た。エイラの声が来た。
「基盤炉の出力、変動しています。定常値の百十二パーセント……百十五……」
「閾値は百二十です。続けます」
「百十七……」
コンソールの旧テンプレート監視ラインに、三件目の復帰試行が記録された。今度はより深い経路から来ている。承認局経由ではなく、魔導院の管理系統から直接だ。
修司は保留処理の状態を確認した。セルアスの異議申し立てがまだ処理中になっている。保留が続く限り、上書きは実行されない。だが処理が終わって却下されれば、上書きが通る可能性がある。
「セルアスさん。保留処理の状況は」
「まだ処理中です。ただし承認局側から、凍結命令の受理確認が返ってきました。オルフェさんが署名を入れてくれています。承認局側は凍結状態に入りました」
「魔導院側の経路からの復帰試行が来ています。そちらの凍結は」
「今追加します」
修司は同時に帰還処理のバッファ監視を見ていた。優先度最上位の固定は生きている。旧テンプレートが同じリソースIDを参照しようとしているが、弾かれている。帰還用バッファは確保されたままだ。
「百十八」とエイラが言った。声が少し張っている。
「継続します」
「百十九……」
帰還処理の最終フェーズに入ったのが分かった。
数値ではなく、ログの変化で分かった。ユウトの接続セッションのステータスが「遮断処理中」から「解放処理中」へと変わった。こちら側からの繋がりが消えていき、向こう側への経路が開こうとしている。
「百二十。閾値に到達しています。修司さん」
「継続します」
「このまま行きますか」
「続けます。バッファは守れています」
エイラが一瞬黙った。それから「了解しました」と言った。
修司は旧テンプレートの監視ラインを見た。三件の復帰試行ログが並んでいる。今この瞬間も、復帰しようとしている。だが、バッファに食い込めていない。優先度の固定が、帰還用リソースを守っている。
魔導院からの上書き要求は、まだ保留中だ。
処理が終わる前に、帰還が完了すればいい。
そのとき、エイラの声が変わった。
「修司さん」
声のトーンが違った。報告ではなく、確認を求めている声だった。
「ユウトさんの魂波形が……急激に下がっています。閾値に近い」
「数値を読んでください」
「基準値の六十三パーセント。下がっています。六十一……五十八」
「供給リンクは」
「最終遮断フェーズに入っています。これは想定内の変動ですか」
修司は事前試算と照合した。最終フェーズで波形が下がるのは想定内だ。ただし、下がるペースが少し速い。旧テンプレートが帰還用バッファの周辺リソースを食っているために、波形の安定化に使える補助リソースがわずかに削られている可能性がある。
「想定内の範囲を少し超えています。閾値まで余裕はありますか」
「閾値まで……あと八パーセント」
「聖女の補助、増やせますか」
「聖女に確認します」とリゼットの声が来た。準備室にリゼットも入っている。少しの間があって
「増やせます、と言っています。やります」
「お願いします」
数値の下落ペースが落ちた。少し落ちた。
修司はバッファの監視ラインを見た。優先度最上位の固定は生きている。
旧テンプレートの四件目の復帰試行が来た。今度は今まで試みていなかった経路だった。神殿管理局の経路から入ってきた。
修司は神殿側の凍結状態を確認した。神託枠の暫定フィルタは昨日まで有効だった。今この瞬間は——有効だ。神殿経路からの試行も弾かれた。
「五十五……五十三」とエイラが言った。
「聖女の補助が入ったはずです」
「……少し持ちこたえています。五十二。……五十二で止まっています」
「そこで止まっていれば大丈夫です」
「閾値はいくつでしたか」と今度はエイラが聞いた。数値を読み続けながら、確認している。
「四十五です。七パーセントの余裕があります」
「……了解しました」
エイラがそれ以上何も言わなかった。数値を見ることに集中しているのが通信越しに伝わった。
修司は帰還処理の最終ログを見ていた。
ユウトの接続セッションが、ゆっくりと終わりに向かっている。こちら側のセッションが終わるとき、向こう側のセッションが開く——はずだ。旧仕様では「こちらから消えたら失敗」と扱われていたが、修司はそれが正しいとは思っていない。こちら側で終わることと、向こう側で受信されることは別のログに出るはずだ。
向こう側のログが出るかどうかは、まだ見ていない。出るかどうかを今から確認する。
魔導院からの上書き要求は、まだ保留中だった。セルアスの異議申し立てが処理中のままだ。帰還が完了するまで保留が続けばいい。
「エイラさん、波形は」
「五十三。……微妙に揺れていますが、落ちていません」
「聖女、継続してください」
「継続しています」とリゼットが聖女の代わりに伝えた。
ログの最後の行が変わった。
〔帰還セッション:最終遮断処理実行中〕
修司はそこを見た。
次に何が出るか。エラーが出れば切り戻し発動だ。エイラとの二人での判断になる。切り戻し条件は決めてある。波形が四十五を下回ったとき、あるいはバッファが守れなくなったとき。
今はまだどちらでもない。
ログが動いた。
エイラが声を出した。
「修司さん。波形が——」
声が止まった。
修司は波形監視のウィンドウを見た。
数値が消えていた。
五十三からゼロになったのではなく、ログそのものが消えた。セッションが終了したのではなく、出力が止まった——あるいは、こちら側での存在が終わった。
エイラが一秒、黙っていた。長い一秒だった。
「……波形、消失しました」




