第70話 帰っていい理由
ユウトは朝からずっと、帰還準備室の壁を見ていた。
昨日、リゼットと話した。チェックリストを全部読んだ。何が書いてあるかは分かった。理解もした。それでも、ペンを持った手が最後の欄の前で止まった。リゼットに「今日は休んでいい」と言われて、一人でここへ来た。
石の壁。薄い明かり。空の部屋。
家具はない。修司が「帰還の手順を説明するために使う部屋」と言っていた。今はまだ空のままだ。
ユウトは壁に背を預けて床に座り、膝を抱えていた。帰りたかった。その気持ちは本当だった。お母さんの顔を思い出すと、胸の真ん中が痛くなる。自分の部屋の匂いを思い出すと、目の奥が熱くなる。
でも、ペンが動かなかった。
修司が準備室に来たのは昼前だった。
リゼットから「今日のことを話してほしい」と伝えてあった。扉を軽く叩いて、返事を待ってから入った。ユウトが床に座っているのを見て、壁際に同じように腰を下ろした。椅子を探しに行かなかった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
外の廊下から、誰かの靴音が遠く通り過ぎた。
「昨日の同意書、読みましたか」と修司は言った。
「読みました。全部、分かりました」
「でも署名できなかった」
「……はい」
「どこが怖いですか。帰還処理そのものが怖いですか」
ユウトが少し間を置いた。
「それは……あまり怖くないです」
「では何が怖いですか」
また間があった。今度は長かった。ユウトは膝の上に乗せた手を見て、それから顔を上げた。修司を見たが、目を合わせるのが苦しそうだった。
「俺が帰ったら、また誰かが来るんじゃないかって。チェックリスト、全部揃ったって聞いて、サンドボックスも入ったって聞いて、全部なくなったわけじゃないけど守られてるって、頭では分かってる。でも……帰って、俺の席が空いたら、また誰かを呼ぶんじゃないかって。そう思うと、動けなくて」
「今それを止めようとしている人たちが、何人いるか分かっていますか」
「分かってます。でも」
「でも」と修司は繰り返した。責める口調ではなかった。確認の声だった。
「……ここで生きてきたから、だと思います」
ユウトが小さく言った。
「俺が帰ったせいで、知らない誰かが来る。それが嫌で。俺が来たとき、誰も俺に聞かなかった。気づいたらここにいた。同じことが、また起きてほしくない。それを止める方法が俺には帰還を諦めることしか、なんか分かんなくて」
修司は少し間を置いた。
「整理させてください」と修司は言った。
「あなたが恐れているのは、帰還そのものではなく、帰還によって空いた席が次の誰かの召喚に使われることですね」
「そうです」
「それはこれまでの調査で確認されている。受け入れ枠の問題として記録されている。対処も進めてきた。ただ、完全に防げると今この時点で言えるかどうかは、正直に言えば断言できない」
「なら」
「断言できないから帰れない、ということであれば、あなたはどんな条件が揃っても帰れないことになります」
ユウトが何か言いかけて、止まった。
「完全に安全だとは言えない。でも、あなたが帰還を諦めることは、その問題を解決しません。空き席を作らないことは、席を守ることと違います。あなたが残ることで守られる席はない。席を誰かの召喚に使わせないために、別の人たちが動き続けています」
修司はそこで止まった。それ以上は言わなかった。自分の言葉がユウトに届いたかどうかを確かめようとしなかった。
夕方近く、カズヤが準備室に来た。
修司が伝えたのではなく、リゼットが話していたらしかった。ドアを開けると、ユウトがまだ壁際にいた。カズヤは入ってきて、向かいの壁に背を預けて立った。座らなかった。
しばらく、どちらも話さなかった。カズヤがそういう人間だということをユウトは知っていた。先に話し始めるのを待つタイプではない。話す準備ができたら話す。
カズヤが先に口を開いた。
「サンドボックスが入ったのは聞いた。チェックリストも全部揃ったと」
「はい」
「でも署名できない、と」
「……はい」
「何で」
単刀直入だった。責めている声ではなかった。本当に何でかを聞いている声だった。
「俺が帰ったら席が空く。その席を次の誰かに使われるかもしれない」とユウトは言った。
カズヤが少し考えてから言った。
「それ、帰らなかったら防げるか」
「防げない、とは分かってます」
「分かってるのに止まってる」
「……分かってるけど」
「止められなかったら俺たちが止める」とカズヤは言った。
言い切った。返事を待つように少し黙った。
「俺はここにまだいる。すぐには帰れない。でもそれは、お前が帰るなという話じゃない。俺がここにいる間に、次の誰かを呼ばせないようにする。それは俺の仕事だ」
「でも、もし失敗したら」
「失敗したときはそのとき考える。今の話をしてる」
カズヤが一度壁から背を離して、ユウトの方に向き直った。
「お前が帰ることで誰かが来るかもしれない。それはお前の責任か」
「でも俺のせいで」
「召喚したのはお前じゃない」
短く、はっきり言った。
「召喚の仕組みを作ったのもお前じゃない。俺もお前も、知らない間にここへ連れてこられた。お前が帰ることで席が空く。その席を誰かに使わせようとするのは、仕組みの問題だ。お前の問題じゃない。お前が罰として残り続けても、それは一つも解決しない」
ユウトが膝を強く握った。
「……カズヤさんは、俺に帰ってほしいんですか」
「俺が帰ってほしいかどうかは関係ない。お前が帰りたいかどうかだ」
「帰りたいです」
「なら帰れ」
シンプルだった。飾りのない言葉だった。だからかえって、重かった。
リゼットが来たのは夕方だった。
カズヤが出ていってから、ユウトはずっと同じ場所にいた。リゼットは部屋に入って、ユウトの隣に座った。距離を作らずに。
しばらく黙っていた。ユウトが口を開いた。
「帰っていい、って、みんなが言ってくれる」
「そうですよね」
「でも、帰っていいって言われると、余計に怖くなる気がして」
「どうして怖くなると思いますか」
ユウトは少し考えてから言った。
「帰っていいって言われると、本当に選ばなきゃいけなくなるから」
「そうか」とリゼットは言った。責めも励ましもしなかった。ただ聞いた。
「ずっと帰りたかった。毎日思ってた。でも帰れない理由があると、選ばなくていい。理由が消えてきて、あとは自分が決めるだけになると、そこで止まる。……情けないですか」
「情けなくないです」
リゼットが静かに言った。
「ユウトさん、一つだけ聞いていいですか。帰ったら、最初に何をしたいですか」
「……お母さんに会いたい」
「ほかに」
「自分の部屋に帰りたい。学校のこと、正直どうでもいいけど、友達の顔は見たいです。近所のコンビニに行きたい。ご飯食べたい。普通の、何でもないことがしたい」
「それは全部、あなたのものです」
リゼットが言った。
「あなたが生まれて、育って、積み上げてきた日常です。誰かに差し出すために作ってきたものじゃない。帰ることは逃げることじゃない。奪われていたものを返してもらうことです」
「でも、ここで生きてきた時間も、本当で」
「本当ですよ」とリゼットはすぐに言った。
「ここで過ごしたことは消えない。カズヤさんたちのことも、私たちのことも、全部持って帰っていい。ここにいた時間は、帰ることで否定されない」
ユウトが少し黙った。
「……帰ったら、ここのことを覚えてますか」
「覚えていると思います」
「みんなのことも」
「覚えていると思います」
ユウトが目を閉じた。また開けた。
「帰ってからも、ここで続くことはありますよね」
「続きます。カズヤさんたちのこと、次の誰かを呼ばせないこと、全部続きます。あなたが帰ってから消えるわけじゃない。だから、あなたが帰ることを気にしなくていい」
夜になってから、聖女が来た。
修司を通じて、聖女の方から「話せますか」と連絡があった。ユウトは断らなかった。
聖女は部屋に入って、しばらくユウトを見てから、椅子を持ってきて向かいに座った。正面から向き合った。
「今日来たのは、私自身の話をしたかったからです」と聖女は言った。
ユウトが顔を上げた。
「神殿は、あなたたちを異世界から呼んだ。それを神聖な行為と呼んで、守ることが義務だと言い続けた。私もそう信じていた時期があります。あなたを縛る仕組みの一部に、私の祈りが使われていた。そのことを、直接あなたに謝りたかった」
「聖女さんのせいじゃ」
「仕組みの問題だと分かっています。でも、その仕組みを長く支えてきた一人として、言葉にしたかった」
聖女が少し間を置いた。
「帰還は、あなたの意思で決めていいことです。神殿の儀礼に合わせる必要はない。王国の都合に合わせる必要もない。あなたの意思だけが、この手順の最上位の条件になっています。それは正しいと私は思っています」
「……聖女さんは、帰してくれるんですか」
「帰してあげることは私にはできません。帰る手助けをすることならできます。私がここにいるのはそのためです」
ユウトが長い間、聖女を見ていた。聖女は目を逸らさなかった。
「神様は、俺がここに来ることを望んでいたんですか」
「分かりません」と聖女は静かに言った。
「神の意志をすべて理解できるとは思っていません。ただ、あなたがここに来たことを、誰かが望んだとしても、あなたがいつまでもここにいなければならないという意味にはならない。帰ることを望むあなたの意思もまた、尊重されるべきものです。私はそう信じています」
夜が深くなってから、修司はもう一度準備室へ来た。
扉を叩くと、少し間があってから「どうぞ」と声がした。
入ると、ユウトが立っていた。床に座っていない。壁に寄りかかってもいない。部屋の中央に、ただ立っていた。
「リゼットさんに、来てもらえますか」と彼は言った。
「今から呼びます」
修司が扉の外へ出て、廊下を少し歩き、リゼットの部屋のドアを叩いた。
リゼットが来て、同意書を持ってきた。前日と同じ一枚の紙だ。リゼットはテーブルを探したが部屋に何もなかったので、廊下から薄い板を持ってきて、下に置いた。ユウトがその前に立って、ペンを受け取った。
また止まった。
十秒か、二十秒か、それ以上だったかもしれない。
ユウトが声を出した。声が少し掠れていた。
「帰ったら、絶対ここのことを話します。誰かに信じてもらえなくても、ちゃんと覚えておきます。カズヤさんのこと、マナベさんのこと、エイラさんのこと、みんなのこと、全部」
リゼットが「覚えていてください」と言った。
ユウトがペンを動かした。
名前を書き終えた。
リゼットが紙を受け取って、確認した。修司が隣でそれを見た。
〔本人同意確認:ユウト。署名完了。本人の言葉による意思確認:帰還を希望する。自身が覚えておくという意志を言語化した〕
「ありがとうございます」とリゼットが言った。
ユウトが少し頷いた。それだけだった。
その夜遅く、修司はエイラに連絡を入れた。
「明日、帰還本番の申請を出します。本人同意の署名が取れました」
「分かりました」とエイラはすぐに答えた。
「監視班の招集をかけます。バルトさんにも伝えます。聖女には朝一番に確認します」
「セルアスさんは今夜のうちに動いています」
「準備は揃ってますね」
「揃っています」
エイラが少し間を置いた。
「……明日、ちゃんと帰れますよね」
「手順は全部あります。あとは実行するだけです」
「そうですね」
通話を切ってから、修司はチェックリストをもう一度開いた。八項目、全部に印が入っている。その最初の欄。
〔一番目:本人同意——確認済み〕
旧制度は、この欄を持っていなかった。
帰還は儀式だったから、本人が望むかどうかを問う必要がなかった。来ることも、帰ることも、本人の意思とは別のところで決まっていた。
今はここが一番最初にある。
それだけで、今夜の仕事は終わりだと思った。
深夜、監視室のコンソールが小さく音を立てた。
修司が画面に目を向けると、基盤炉の管理系統から短い通知が来ていた。帰還本番の実施申請が受理されたことを知らせるセルアスからの転送だ。
その数行下に、もう一件の通知が届いていた。
修司は目を細めた。
種別は承認局からの自動処理通知。本来は凍結されているはずの経路だ。内容を開くと、短い一行が出てきた。
〔承認局管理系統:旧テンプレート自動起動確認。起動時刻——〕
時刻は、帰還本番の申請受理と同じ時刻だった。
申請が通った瞬間に、凍結されていた旧テンプレートが一瞬だけ動いた。すぐに凍結されて止まっていたが、起動したという記録は残っている。
修司はその通知を開いたまま、少しの間見ていた。
〔確認事項:帰還本番申請受理と同時に、承認局の旧テンプレートが自動起動を試みた。凍結により即停止。記録保存〕
起動時間はほんの一瞬だった。ただし、起動した。
明日、帰還処理を実際に動かしたとき、何が起きるかは、まだ分からない。




