第1話 勇者召喚、ただし俺だけ戦えない
気がつくと、石畳の冷たさがスラックス越しに伝わってきた。
視界を埋め尽くしたのは、見慣れたオフィスの蛍光灯ではなく、揺らめく松明の炎と、豪奢な石造りの広間だった。
ホコリっぽさと、嗅いだことのない甘い香の匂いが混ざっている。
「おお……! 成功だ! 勇者様方が降臨なされたぞ!」
金糸の刺繍が入ったローブをまとう白髭の老人が、歓喜の声を上げていた。その周囲には、磨き抜かれた甲冑を着込んだ騎士たちが何十人も控え、一様にこちらへ畏敬の眼差しを向けている。
状況がまったく飲み込めない。
つい先ほどまで、俺――真鍋修司は、自席でノートパソコンと睨み合い、終わりの見えない業務改善案の資料に手を入れていたはずだ。33歳にして、なぜこんなファンタジー映画のセットのような場所にいるのか。
周囲を見渡すと、俺と同じように制服姿の高校生や、スーツ姿の若い男女が数人、呆然と座り込んでいた。皆、突然の事態に混乱している。
「ようこそ、異世界リネア王国へ! 皆様は、我が国を救うため、古の召喚陣によって選ばれし勇者候補の方々です」
老人が大仰な身振りで告げた。
異世界。召喚。勇者。
どうやら、フィクションでしか見たことのない異常事態に巻き込まれたらしい。
だが、俺の頭の片隅では、冷静な観察眼がすでに働き始めていた。
老人は「国を救うため」と言ったが、騎士たちの装備は真新しく、広間の装飾も贅を尽くしている。切羽詰まった悲壮感や、国が滅びかけているような焦燥感はまるで感じられない。
それに、足元の幾何学模様――彼らが召喚陣と呼ぶもの――の光り方。
陣の大部分は均等に発光しているが、俺の足元や、特定の結節点にあたる部分の光だけが、かすかに明滅し、線が途切れているように見えるのだ。
意図された演出というよりは、接触不良のような不規則なノイズ。
「さあ、まずは皆様に与えられた『恩恵』を確認させていただきたく存じます。こちらの水晶板に手を触れていただけますかな」
老人が恭しく差し出したのは、タブレット端末ほどの大きさの、透明な水晶板だった。
促されるまま、一番手前にいた男子高校生が恐る恐る手を伸ばす。
彼の手が水晶板に触れた瞬間、板の表面に淡い光が浮かび上がり、見慣れない文字が羅列された。不思議なことに、その意味がスッと頭に入ってくる。
『剣神の加護』『剛力』『身体強化・極』
「おおお……! これは素晴らしい! まさしく前衛の要となる無双の力!」
老人が興奮した声を上げ、騎士たちからもどよめきが起きた。男子高校生は戸惑いながらも、どこか誇らしげな表情を浮かべる。
続いて、別の若い女性が水晶板に触れる。
『大賢者の叡智』『全属性魔法適性』『魔力自動回復』
「なんと! 伝説の大魔法使いの再来か! 素晴らしい才能ですぞ!」
次々と飛び出す華々しい能力名に、広間の熱気は高まっていく。選ばれた者たちは、不安よりも「特別な力」に対する高揚感に包まれているようだった。
だが、俺の順番が回ってきた時、その空気は一変した。
水晶板に手を置く。
淡い光とともに、文字が浮かび上がる。
『差分解析』
……それだけだった。
他の者のように、複数の能力が並ぶわけでもなく、強そうな装飾語がついているわけでもない。
老人の顔から、先ほどの熱狂がスッと引いていく。
彼は水晶板の文字を何度か瞬きして見直し、俺の顔と板を交互に見比べた。
「あの……戦闘に関する能力や、魔力上昇の恩恵などは……?」
「いや、何も。これだけしか表示されていませんが」
俺が淡々と答えると、老人は深く、事務的な溜息をついた。
「……戦闘能力皆無。魔力も一般人以下。召喚の余波で巻き込まれた方か」
「巻き込まれた、とは」
「まれにあるのです。本命の勇者様を召喚する際、術式が周囲の魂を余分に拾ってしまうことが。……我が国が求めているのは、魔物と戦える戦力です。残念ながら、あなたには勇者としての期待はできそうにありません」
老人の声に悪意はなかった。ただ、軍事力を求める組織の責任者として、極めてドライに「不要」という判断を下しただけだ。
周囲の騎士たちの視線も、畏敬から無関心へと変わる。
ふと横を見ると、つい先ほどまで同じように混乱し、肩を寄せ合っていた他の召喚者たちの態度も変わっていた。
誰もあからさまな嘲笑は口にしない。だが、気まずそうにスッと視線を逸らす者や、自分が「外れ」でなかったことに安堵の息を漏らす者がいる。
王宮という権威が下した絶対的な評価。それに引きずられるように、俺と彼らの間には、明確な「見えない線」が引かれていた。
「おい、この者を別室へ案内しろ。扱いは追って指示する」
老人が顎でしゃくると、一人の若い騎士が進み出て、無表情に俺の腕を掴んだ。
厄介払いの通達。
だが、連行される俺の内心は、絶望や怒りよりも、奇妙な高揚感――あるいは職業病に近い探求心に支配されていた。
『差分解析』。
システム運用や業務改善の現場で、日常的に使っていた言葉だ。現行のシステムと改修後の「違い(差分)」を見つける作業。
これが、魔法や剣が存在するこの世界で、どういう意味を持つのか。今の俺にはまだはっきりとは分からない。
ただ、水晶板から手を離した瞬間から、視界のあちこちに奇妙な違和感がチラついているのだ。
水晶板の内部を通る魔力の流れ。
壁を照らす魔導照明の回路。
それらが、目に見えない「ノイズ」や「いびつな偏り」を抱えているのが、なぜか感覚として理解できる。
そして、振り返りざまに見た足元の召喚陣。
やはり、俺の足元だけがおかしいのではない。陣を構成する巨大な仕組みのあちこちに、チグハグな継ぎ接ぎの跡のような違和感が広がっている。
(ただのハズレ能力とは思えない。……この国は、何か根本的な部分でズレている)
「早く歩け」
騎士に背中を押されながら、俺は冷たい石造りの回廊へ足を踏み出した。
彼らにとって俺は無価値かもしれない。だが、この世界で実際に何が起きているのか――それを見極めるまでは、大人しく引き下がるつもりはなかった。




