■第九話 七百人の村、ついに町になる
人口、七百三十一人。
その数字を見たカイルは、しばらく黙っていた。
「……増えたな」
「増えましたね」
記録係が答える。
「三十七人だった頃が懐かしいです」
「俺もそう思う」
カイルは人口台帳をめくった。
名前。
年齢。
職業。
家族構成。
住んでいる場所。
農地。
家畜。
商売。
以前は村長が管理する必要などなかった。
三十七人しかいなかったのだからだが今は違う。
七百人。
誰がどこに住んでいるのか。
誰が何を作っているのか。
どれだけ食料が必要なのか。
どれだけ水が必要なのか。
記憶だけでは管理できない。
「人口台帳を正式な住民登録にしよう」
「住民登録?」
「アルバに住む人を記録する」
「何のために?」
「税を取るためだけじゃない」
カイルは首を横に振った。
「食料の配分、道路の整備、学校、医療、防災。人がどれだけ住んでいるのか分からなければ、何も計画できない」
記録係は頷いた。
「なるほど」
こうしてアルバでは、正式な住民登録が始まった。
同時に土地の記録も作られた。
誰がどの土地を使っているのか。
畑なのか。
牧草地なのか。
住宅地なのか。
工房なのか。
道路なのか。
水路なのか。
すべて地図に書き込んだ。
「これで土地を巡る争いも減ります」
「そういうこと」
さらにカイルは、税についても見直した。
これまで村では必要なときに各家庭から少しずつ徴収していた。
人口が増えた今、それでは不公平が出る。
「土地の広さだけで税を決めるのはやめよう」
「では?」
「商売をしている人。
農業をしている人。
工房を持っている人。
それぞれの負担能力に応じて、できるだけ分かりやすくする」
「複雑になりませんか?」
「だから税率を低くして、仕組みを簡単にする」
カイルは表を書いた。
収入。
必要経費。
利益。
その一部を公共のために出す。
「大事なのは、明日から税率が変わるかもしれないと思わせないこと」
「商人が安心して商売できますね」
「そういうこと」
税金を集める。
道路を作る。
水路を作る。
学校を作る。
診療所を作る。
消防設備を整える。
そして、その使い道を公開する。
「税金を払った人が、何に使われたのか分かるようにする」
これがアルバの新しいルールになった。
その結果。
商人たちから意外な反応が出た。
「アルバは商売がしやすい」
「税が突然増えない」
「道路が整っている」
「倉庫がある」
「商品を盗まれにくい」
「病気になっても診てもらえる」
「だからここに店を出したい」
店が増えた。
職人が増えた。
商人が増えた。
家が増えた。
そして――
人口が増えた。
七百三十一人。
八百二十人。
九百四十人。
そして一年後。
「カイル様」
記録係が走ってきた。
「人口が千人を超えました」
「……」
カイルは固まった。
「何人?」
「一千十二人です」
「千……」
カイルは窓の外を見る。
そこには、以前とはまるで違う景色が広がっていた。
朝から市場には人がいる。
道路には荷車が走る。
工房では金属を叩く音がする。
パン屋からは焼きたての香り。
魚市場では朝に獲れた魚が並ぶ。
学校では子供たちが勉強している。
診療所には患者が来る。
道路を歩く人。
馬車を操る人。
商談する商人。
羊を連れて歩く牧夫。
農具を修理する職人。
「……これが、三十七人の村だったのか」
隣にいた老人が笑った。
「カイル」
「何?」
「そろそろ認めたらどうだ?」
「何を?」
「ここはもう村じゃない」
カイルは黙った。
「……まだ村だ」
「千人いるぞ」
「村は人口で決まるわけじゃない」
「では何で決まる?」
「気持ちだ」
「それは無理がある」
周囲にいた人々が笑った。
だが、問題は笑っていられなかった。
千人を超えると、新しい問題が次々に出てきた。
最初はごみだった。
「ごみが増えています」
「分別を徹底しよう」
次は火事だった。
「家が密集してきました」
「火事が起きたら危険だな」
そこでカイルは消防隊を作った。
水桶。
梯子。
手押しポンプ。
消火用の水槽。
火の見やぐら。
さらに建物の間隔も決めた。
「木造住宅を密集させない」
「工房は住宅地から少し離す」
「鍛冶場の近くには消火用水槽を置く」
「市場では火気の使用場所を限定する」
人々は最初、面倒だと思った。
しかし数か月後。
工房の一つで小さな火事が起きた。
「火事だ!」
鐘が鳴った。
消防隊が走る。
水を運ぶ。
火を囲む。
延焼する前に消し止めた。
被害は工房の一部だけだった。
「消防隊がなければ、もっと燃えていた」
誰もが実感した。
安全もまた、インフラだった。
そして次に問題になったのが水だった。
千人分の飲み水。
千人分の生活用水。
家畜の水。
工房の水。
農業用水。
今までの水路では足りない。
「新しい水源を探そう」
調査隊が周囲の山へ向かった。
数日後。
「見つけました」
山の奥から湧き出る水。
しかも水量が安定している。
カイルは現地を確認した。
「ここから水を引く」
山から村へ。
水路を作る。
途中に沈殿池を作る。
さらに水を貯める大きな貯水槽を作る。
飲料用の水は、できるだけ汚染されないよう別系統にした。
「水はアルバの生命線だ」
カイルは工事現場を見ながら言った。
「食料と同じくらい重要だ」
こうしてアルバでは、水道設備まで整備され始めた。
そして水が安定すると、今度は別の産業が伸びた。
浴場だった。
「風呂?」
「そう」
カイルは建設予定地を指差した。
「共同浴場を作る」
最初は村人たちも驚いた。
だが、完成してみると大人気だった。
温めた湯に入る。
身体を洗う。
汗や汚れを落とす。
仕事終わりの職人たちが集まる。
農民も来る。
商人も来る。
「これはいいな」
「仕事の疲れが取れる」
「もっと大きくしてくれ」
カイルは笑った。
「風呂まで産業になるのか……」
浴場の周辺には食堂ができた。
茶を出す店ができた。
休憩所ができた。
商談する人まで現れた。
そして気がつけば。
浴場周辺が、新しい街区になっていた。
人口一千人。
市場。
学校。
診療所。
工房。
倉庫。
道路。
上下水道。
消防。
共同浴場。
宿。
商業施設。
そして周辺には農村、漁村、鉱山集落、林業集落。
老人が地図を見ながら呟いた。
「……もう完全に町だ」
カイルは聞こえないふりをした。
だが。
その日の午後。
南の大国から来ていた商人が、カイルの前に一枚の書状を置いた。
「これは?」
「我が国の商業組合からの正式な申し入れです」
カイルが書状を開く。
そこには、こう書かれていた。
『アルバ地域との正式な通商協定を結びたい』
カイルの手が止まった。
アルバ村。
ただの小さな村だった。
それが今では。
外国と正式な通商協定を結ぼうとしている。
カイルは頭を抱えた。
「……俺、村長になっただけなんだけどな」
老人が横から言った。
「もう村長じゃないかもしれんぞ」
「え?」
「この書状を見てみろ」
老人は笑った。
「相手はもう、お前を『村長』として扱っていない」
カイルは再び書状を見た。
その下には。
アルバの代表者。
そう記されていた。
カイルはしばらく黙っていた。
そして、小さく呟いた。
「……話が大きくなりすぎてないか?」
誰も答えなかった。
アルバ村の人口は、ついに一千人を超えた。
そして今。
村の外から、国家が動き始めていた。




