飛んで火に入る虫の母⑧
「眠れないの」
夜の闇が近づけないため、闇飛ばしのランタンを持って夜回りしていたグラハムは溜息を吐いた。
「この書斎の本も読んでいいとは言ったが・・・だからといって、こんな夜更けまで本を読み漁っていては目を悪くするぞ。」
此処はグラハムの書斎であった。部屋中に作られた棚に納められた本の壁と、溢れた本の山に囲まれたまま、エリは文字の敷き詰められた本を眺めながらメモを取っていた。
「今日は地震の後片付けに時間を費やしてちっとも進めなかったから・・・少しぐらいいいでしょ?」
「そう言って君は徹夜をするんだろう?
元気なのはいい事だが、明日の礼拝には出て貰わなければ」
ちゃんと起きれますぅ、エリはべーっと舌を出した。
「まあ、君が遅刻したことなどないがね・・・。
それはそうと、今、君は何を読んでいるんだい?」
「創世記よ。」
グラハムは少しだけ、しかし、くっきりと、顔を引き攣らせた。
「君は・・・族語が、読めるのかい?」
エリが読んでいる創世記の文字は人の社会で全く用いられていない族語で書かれていた。爪で引っ掻き、牙を突き立てたような文字だけで。
「ううん、ほとんどさっぱり分からなかったよ。
だけど、ちょっとずつ訳して読んでるの。だから一日に数ページ読めるかどうかって・・・ところね。最近は少し法則が分かって来て、読むの早くなったけど」
彼女がメモしていた紙には、族語の訳し方がびっしりと書かれていた。グラハムが見る限り、その多くが間違っていなかった。
「これは、驚いたな・・・古人たちは皆、創世記を『読ませない』と聞いていたが」
「そうよ。私もここに来て初めて読んだわ。
私が習って来た世界の形と全く違うけど、フィクションとして読むとファンタジー小説みたいで面白いのよ」
「・・・そ、そうかい。それは良かった・・・。
今は、何章を?」
「2章の終わり。『陽光アルポリオン』が『裏の王ウェールズマン』と戦っているところよ。」
グラハムはパタ、と本を閉じた。
「もう寝なさい。」
「ええっ!?
もう少しいいでしょ!もう少しで三章までいきそうだったのに!」
エリは声大きく抗議したが、グラハムは本を取り上げてしまった。
「もう寝るんだ。
いいな」
今まで聞いた事もない程、グラハムの声は低く強張っていた。
エリは竦み上がり、グラハムが書斎から立ち去るまで動く事が出来なかった。
「マ ー マ ー 」
暗闇の中から声がする。
闇が波打ち、窓から湿った夜風が入り込む。
モヒートはうっすらと目を開き、ベッドから横の床を眺めた。
その目を見返す白い点が、空に浮かぶ星のように瞬き、幽かにきゃっきゃと笑う。
「マーマ」
モヒートに甘えてくるように這い寄って来る闇を、彼女は拒まなかった。
ベッドからはみ出す手をゆっくりと床へと垂らし、その手に闇は頬ずりをした。
闇には温もりなどなく、しんなりと冷たい感触だった。底なしに熱を奪う液体のようだ。
しかし、血色を失い、寒さで感覚がなくなっていく、闇に憑かれているその手をモヒートは引き戻さなかった。
「モヒート!」
エリが小走りに手に持った蝋燭を振るうと、ふわっ、闇は灯りに追い出される様に消え失せた。
「どうして明かりを点けていないの!?
闇に呑み込まれちゃったら死んじゃうかもしれないんだよ!」
「・・・それはこっちの台詞よ」
モヒートは気だるげに起き上がり、夜中に声を荒げるエリを言い返した。
「朝が来るまでにはまだ時間があるわよ。
起こしに来た訳じゃないのなら何の用?」
エリは口に出す言葉を選びながら言った。
「グラハムが、おかしくて・・・すごい剣幕で、本を取り上げたの。」
「本?」
「創世記。族語を訳しながら読んでいただけなのに」
モヒートは目を細め、垂れた触覚を指先でこすった。
「読んじゃいけない事でもあったの?どう思う?モヒートは読んだことある?」
「教えてもいいけど、知らなかった時には戻れないわよ」
しばらく、ぽかーん、と呆けていたが、エリは「このままじゃ気になって一生寝られないわ」と頷いた。
「創世記の第三章、『裏の王ウェールズマン』を裏の世界に追いやった『陽光アルポリオン』が『黒点ゲベラ』の力によってこの世界の光になった後の話。
光となった陽光アルポリオンの抜け殻である肉体から、人の祖とされている『ニッヂ』が生まれるの。」
「人の祖・・・へぇ、やっぱり進化論全否定なんだね」
「ニッヂは百八十の古人の子を産み、精霊戦争では獣たちを先導する智神でもあった。
だけど、精霊戦争の時に、『裏の王ウェールズマン』が獣たちを唆した。
ニッヂの子の血を飲めば、精霊を蹂躙する事は容易いと」
「え・・・」
「獣たちはニッヂの71人の子を食い殺した。
その血肉を得た獣たちが『最初の獣人』よ。」
エリは緊張したように自分の手首を握り始めた。
「ニッヂは自分の子供を食い殺した獣人たちを許さなかったけれど、精霊との戦いに負ける訳にはいかないと、最初の獣人たちを光の森から追放し、残った獣たちを率いて戦った。
結局、精霊との戦いにニッヂは負けるけど」
モヒートはそこまで言って、エリが言葉を発するまで待った。
「・・・だから、古人は・・、読んじゃいけないって、そういうことなの・・」
「『人血の智神ニッヂ』は人血を以て、知恵を授ける神として、信仰の対象になっている。
獣が信仰する分には、教え導く知恵の神だけど
獣人が信仰するニッヂは、『生贄』や『復讐』、『追放』を意味する。」
きっと彼女は察したのだろう。ロトルになるべく育てられた彼女は、同年代と比べて非常に賢いのだから。
「・・・・グラハム、たちは・・・私たち古人の子供を、殺すつもりなの・・・?」
その声は恐怖で震えている様だった。
「いいえ、流石にあの男でもそこまでする気はないでしょう。
巻き込んでしまっているあなたたちを気遣ってはいるみたいだし」
「なんで・・・どうしてそんなことを?
誰に復讐したいの?どうして??」
「個人的な動機を、他人が知っていると思う?」
荒い呼吸をするエリの肩に手を置き、モヒートは静かに―――耳元で不快に鳴り響く羽音の様に―――告げた。
「私はただの部外者。
この森の事情も、この国の歴史も、私怨の火種が消えようと、燃え広がろうと・・私にとってはどうでもいい。
私は、ただ―――」
「私の子を殺したロトルを、殺したいだけよ」




