逃げ恥の爺②
ガンッ!
ジョッキをカウンターに叩きつける音が鈍く響き、木人は枝毛を逆立てて黄ばんだ葉を散らせた。
「じゃ、じゃあ私は離れて、おくわねッ!」
木人は慌てた様子で走り逃げた。きっと種族別陸上競技選手だったに違いない。
横目で彼女が見えなくなるまで見届けた後、イヴァルノンは鼻を鳴らした。
「じーさん、何飲んでんの?甘い奴?」
遠くから声を掛けてみたが、じーさんは酒瓶をイヴァルノンの足下に放り投げるだけだった。割れた破片と残った酒が地面に散らばる。
「酒の色とか銘柄見たって分かんないよ。私、下戸だもの」
じーさんは身動ぎしなかった。
「・・・注いであげようか?」
新しい酒瓶の蓋を開けようとした手がピクリと止まり、じーさんはようやく顔を向けてきた。
「そんなところで何をぼさっとしとる!?!
さっさと注がんか馬鹿者!!」
真っ赤な顔のじーさんは痰の絡まった声を張り上げた。
古人の血が濃い鬼人の様で、尖った牙や耳、四つ指と鋭い爪以外は体格も含めて古人の範疇とも言える。
「いつもいつもわしの言う事など聞きやしない!誰のお陰で得た自由だと思っているんじゃ!」
「はいはいはい」
どうやら彼の頭の中ではイヴァルノンが何者かに置き換えられているらしい。
そのお陰か、先程まで警戒していたのだろうじーさんの肩が下がり、イヴァルノンは難なくじーさんに近付けた。しかし残念な事に、じーさんが座る赤い革張りの丸椅子以外に腰かけられるものがなかった。仕方なく彼の横に立った。
(酒くさぁぁぁ・・・・ぅぇぇ)
酒の香りでさえ酔う、飲めば卒倒する遺伝子的下戸なイヴァルノンは、じーさんから醸し出される体臭に思わず顔を逸らして深呼吸をした。
腹いっぱいに空気を貯め込み、息を止める。そのまま振り返り、酒瓶の蓋を専用道具で開き、僅かに魔力を込めながら彼のジョッキの中に酒を注ぎ入れた。
「わしは尽してきたぞ!ずっとだ!十年ずっと!それなのにお前は出ていった!」
じーさんはジョッキに入った―――アルコールの抜けたジュースを一気に飲み干した。
酒臭いゲップをして口元を拭う様子からは、気付いていないように見えた。
「お前もわしを捨てて出ていった」
(バツイチ?)
感情の昂ぶりか、禁断症状か、ジョッキを握るじーさんの手がわなわなと震え始め、ゴトゴトとジョッキの底でカウンターを叩く。
「お前のせいで震えが止まらん!ずっとだ!ずっと・・・サグマの阿呆がわしになんて言ったか聞かせたか!?
『上官!僭越ながら!一度も家に帰らない上官を見限った奥さんは正しいと思われます!』だとか言い・・・おい、聞いとんのか!?」
「うーん、正しいと思う」
「わしはキキに言ったんじゃ!軟弱な兵士ばかりでは盆国は皇国に負けるのだと!だのに聞く耳を貸さんかった!わしの顔程の耳があるくせにな!!」
「はーはははは」
話をまるで聞いていない様な乾いた笑い方で、イヴァルノンの腰布に隠れているオセットは目を細めた。
(イノン・・・いくらなんでも棒読みが過ぎないか?)
しかし、じーさんはあくまでも自分語りに夢中の様だ。
「昔はよかった!ディグデン将校がおられた時ほどの絶好機がこの国の歴史上にあっただろうか!!
幾度も他国を蹂躙する皇国と対等に渡り合えていた頃を!火殿国にも負けない自衛力を持っていた頃を!
お前も覚えているだろう!?リンドン山の戦いだ!身震いするほどに見事な地形戦だった!数の劣る盆国が皇国軍の侵攻を防ぎ、町一つさえ奪わせないまま追い返した・・・ジェヴィーガン省将の悔しそうな表情など今でも忘れられんよ!どの面提げて国に帰ったか想像するだけでも酒が進むわ!
リーヂラ、覚えているか?その戦いで守り切ったリンドン山の麓の町だ、苔塩を入れたチェリー酒が美味いお前の故郷だ、わしらはそこで会ったじゃろ。酔うとすぐに忘れるお前の事だから、どうせ覚えておらんだろうが。
その後のエビシの夜襲も屁のカッパだった!ディグデン将校が呆れ顔で敵将に『お前らの指揮官はクソくらえ』と言い放ち、仕掛けた罠で一網打尽にしたときは痛快だったな。計画取り、とはあの事を言うんじゃろう。
ああ、お前はそう言えば戦争が落ち着いたら果実園でも作ろう、と言っていたな。今はどうしている?果実園は作ったのか?美味い酒は造れるようになったのか?」
少しずつ口調は穏やかになって来て、逃げられた奥さんと思われているイヴァルノンに酒を催促しなくなってきた。
だが、じーさんは横を向かなかった。ずっと手元やジョッキばかり見ている。
隣にいるのが奥さんではない事を、分かってしまうのが嫌なのだろうか?
「そんなに奥さんが気になっているなら会いに行けば?」
空気を読む事に長けている訳ではないが、少なくとも人並みに気を遣える筈のイヴァルノンがどんな意図があって言い出したのか、はたまた口に出てしまっただけなのか。
今迄意気揚々と語っていたじーさんの言葉は突然と消え失せ、隣に向けた顔には驚きと嫌悪感が滲み出ていた。
「大人げなく暴れていないでさ」
沸々と魔力が湧き立ち、ジョッキの取手が悲鳴にも似た声で軋んでいく。
「こんなところで、あんたは何をしているの?」
ガタッ、じーさんは立ち上がり、真っ赤に変色した身体からの放熱で吹き上がる蒸気を纏った。
鋭い眼光には殺意が籠り、とぼけた顔のイヴァルノンを睨みつけた。
「いや、そんなに睨まないでよ。大したこと言ってないじゃん」
イヴァルノンの腰布にしがみ付いていたオセットは、全速力でその場から逃げた。
彼女は恐らくじーさんを煽っているのではなく、ただ、苛立っているのだ。
「あんたが怒る理由って何なの?図星だから?何も言い返せないから暴力に訴える訳?
気持ちよく飲んでいたのに邪魔された?饒舌に好きな思い出話をしていた時に現実の話を持ってこられたから?
饒舌に好きな思い出話をしていた時に現実の話を持ってこられたから?
ああ、なんて拙いプライドだこと。」
(ああ、確実に暴力沙汰だ。
イノンはうじうじする奴には無表情のままイライラするからな・・・。)
イヴァルノンの邪魔にならない様、出来る限り離れようとしていたオセットは、しかしながらいつまで経っても地響きがしない事に首を傾げた。
そろそろ~っと遠目で様子を伺ってみると、予想外の光景が目に飛び込んできた。
「うあああああああああああああああっっ!!!!」
じーさんが、泣き喚いていたのだ・・・・。




