2話 『学園長の頼みごと』
最後の授業が終わると、生徒たちは待ちかねていたように席を立った。教科書を鞄へ入れていると、教卓で書類をまとめていた雨宮先生がこちらを呼んだ。
「桐原くん、帰る前に学園長室へ寄ってくれない? 学園長から直接のお呼び出しです」
「何かしましたか?」
「用件までは聞いてないけど、多分、久世くんのことじゃないかな」
雨宮先生は重ねた書類の端を揃えながら答えた。
「じゃあ、橘もですか?」
「橘さんは聞いてないね」
雨宮先生はそこで少し首を傾げた。
「確かに、久世くんのことなら橘さんが呼ばれてないのはおかしいか。桐原くん何か悪いことした?」
「悪いこと前提で話さないでください」
近くで話を聞いていた高橋と大野が、揃ってこちらを見る。
「今日なら心当たりあるだろ。確認テスト」
それを聞いた大野が、にやにやと口元を緩めた。
「迷路の出口は、学園長室に繋がってたみたいだな」
横で聞いていた高橋が、声を上げて笑った。
オレはバカ二人を無視して雨宮先生から場所を聞くと、鞄を持って教室を出た。放課後の廊下には、教室を出た生徒たちの声が響いていた。階段を上がるにつれて人影は減り、学園長室のある階へ着く頃には、下の階の騒がしさも遠くなっていた。
廊下の突き当たりにある学園長室の扉の前で足を止め、二度ノックする。
「入れ」
中から返ってきたのは、落ち着いた女の声だった。
「失礼します」
扉を開けると、正面の大きな執務机の向こうに学園長が座っていた。背中へ流した長い黒髪に、墨色を基調とした着物。袖には銀白と灰紫の花が控えめに散らされ、暗い臙脂の帯が締められている。入学式では遠目にしか見えなかったが、近くで見るとかなりの美人だった。花の意匠が入っているわりに派手さはなく、落ち着いた色合いが長い黒髪によく馴染んでいる。
部屋の中央には、低い机を挟んで二つの長椅子が向かい合っている。壁際には書棚や戸棚が並び、執務机の上には何段にも重ねられた書類と、湯呑みが一つ置かれていた。
書類の隙間から顔を上げた学園長が、こちらをしばらく眺める。
「お主が桐原か。まあ、そこへ座れ」
学園長はゆっくりと立ち上がると、執務机の上から書類を何枚か抜き取り、袖を揺らしながら部屋の中央へ向かった。示された側へ鞄を置いて腰を下ろす。学園長も反対側へ座り、持ってきた書類を低い机へ置くと、背もたれへ深く身体を預けた。
御影紫苑。国内に三人しかいない《星冠》の一人。
入学式の壇上では、講堂全体を黙らせるような張り詰めた空気をまとっていた。だが、今は長椅子へ深く身体を沈め、袖の中へ片手を入れたまま、のんびりとこちらを眺めている。背筋を伸ばす気もなければ、話を急ぐ様子もない。学園長という肩書きから想像するよりずっと力が抜けていて、少し頼りなくさえ見えた。
同じ人物だと分かっているのに、入学式で見た姿とはどうにも結びつかない。
「入学式のときとは、ずいぶん雰囲気が違いますね。今の方が素なんですか?」
「なんじゃ。不満か?」
「いえ。ただ、どっちが普段の学園長なのかなと」
「さてのう。どちらであろうな」
学園長は答えを考えるでもなく、のんびりと視線を天井へ向けた。
聞いたところで、まともに答える気はなかったらしい。
「そういえば、前から気になってたんですけど、学園長って『お主』とか『じゃ』とか、ずいぶん古い話し方しますよね。見た目はそんな歳には見えないのに」
学園長の眉がわずかに上がった。
「ほう? わしがいくつに見える?」
自分から聞いてきた以上、答えないわけにもいかない。
「見た目だけなら、二十代後半ってところですかね。でも、学園長をやってるくらいですから、実際は三十代……上なら四十くらいじゃないですか?」
「ほう、ほう」
学園長は口元を緩め、妙に満足そうに何度も頷いた。こちらの答えをどう受け取ったのかは分からない。少なくとも、気を悪くした様子はなかった。
「ちなみに、いくつなんですか?」
「おなごの歳を尋ねるものではないぞ」
「そっちから聞いたんでしょう」
「それとこれとは話が別じゃ」
そう言い、学園長は執務机に残してきた湯呑みへ目をやった。取りに戻るか少し迷ったようだが、結局そのまま背もたれへ身体を預け直す。
「まあ、歳の話はこの辺にしておこうかの」
口元に残っていた笑みが薄れる。学園長は改めて、こちらの顔から身体へ視線を移した。
「森から戻って二日ほど経つが、身体に変わりはないか? 医務室からは異常なしと聞いておるが、本人にしか分からぬこともあるからの」
「特に問題ありません」
「ならばよい」
学園長はそれ以上尋ねず、低い机に置いた書類へ視線を落とした。
「休みの間、魔法省には何度も話を聞かれたそうじゃな」
「はい。同じことを何度も聞かれました」
「向こうも仕事じゃから許してやれ。聞かれる方は、たまったものではないがの」
紙を一枚持ち上げ、書かれた内容へ目を通す。
「橘紗良が久世を追い詰め、最後にお主が倒した。二人とも、そのように話しておる」
「事情聴取の内容が、学園長にまで届いてるんですか?」
「わしを何だと思うておる。この学園の学園長じゃぞ。それくらい届いても不思議はあるまい」
学園長は書類を机の端へ置いた。
「ところで桐原。単刀直入に聞くが、久世を追い詰めたのは、橘ではなくお主ではないか?」
一瞬、返事が遅れた。
魔法省には橘と話を合わせてあるし、学園で広まっている噂も、オレが最後に手を出しただけというものだ。少なくとも、今のところそれを疑う理由はないはずだった。
「……どうしてそう思うんですか?」
「先に答えてくれぬか?」
学園長は背もたれに身体を預けたまま、視線だけをこちらへ向けていた。
「追い詰めたというか、最後に倒したのがオレです。久世先輩は、橘と戦って弱ってましたけど」
「それはおかしいのう。橘の証言では、あやつが倒されたあとに、お主が駆けつけたという話じゃ」
「はい。それの何がおかしいんですか?」
学園長は答えず、こちらの顔をしばらく眺めた。口元には先ほどまでと同じ薄い笑みが残っている。
「担任から聞く限り、橘は優秀じゃ。魔力量も多く、基礎魔法の扱いにも長けておる。じゃが、学園へ入ってまだ日も浅い。対して久世は三年じゃ。戦闘訓練を積んだ期間も、魔法を扱った経験も違う。魔力総量だけを見れば近くとも、総合的な力量にはまだ相応の差があったはずじゃ」
「橘が想像以上に強かったのかもしれませんよ」
「うむ。そうかもしれぬな」
あっさり肯定された。
「じゃが、それだけでは説明がつかぬ。久世のオリジナルは知っておるな?」
「橘から聞きました。触れた相手の魔力を奪う能力です」
「左手で魔力を吸収し、奪った魔力を自ら使うことも、右手から別の対象へ移すこともできるというものじゃ。橘が倒れたあと、お主が駆けつけるまでには、いくらか時間があったそうじゃな」
その目が、こちらの反応を確かめるように細められた。
「ならば、お主が駆けつけた時点で、久世は橘の魔力を吸収しておったのではないか?」
学園長は断定しなかった。久世が実際に橘の魔力を吸っていたことまでは、まだ掴んでいないらしい。
「そこまでは分かりません。オレが着いたときには、橘はもう倒れてましたから」
「ふむ」
学園長はしばらくこちらを見たあと、長椅子の上で両手を組んだ。
「もし久世が橘の魔力を吸っておったとすれば、橘との戦いで消耗した分も補えていたことになる。そんな相手を、最後に一発入れただけのお主が倒した」
「運がよかったんじゃないですか? それか、やっぱり橘の魔力は吸収してなかったとか」
「ふむ。そう言われてしまえば、わしからはそれ以上追及できぬのう」
穏やかな声だったが、納得したようには聞こえなかった。
「別にわしは、お主が久世を倒したと学園中へ触れ回りたいわけではない。実力を伏せておるのにも、お主なりの理由があるのじゃろう」
「実力を隠してると決めつけないでください」
「ほう。あくまで認めぬつもりか」
学園長は咎めるでもなく、口元を緩めた。
どうやら、この人の中ではオレが実力を隠していることは、もう確定しているらしい。こっちが何を言おうと、その考えを変えるつもりはなさそうだった。
「まあよい。今は、それを聞き出したいわけではない」
「じゃあ、何のために呼んだんですか?」
「実は、お主に頼みがあってな」
「断ってもいいですか?」
「まだ何も言うておらぬぞ!」
「学園長から直接頼まれることが、簡単な話とは思えないので」
「安心せい。今すぐ魔獣の巣へ飛び込めという話ではない」
「今すぐじゃなければあるんですか?」
「今はない。先のことまでは約束できぬがの」
学園長の口元に残っていた笑みが消えた。
「森の建物で、魔獣に首輪がつけられておったそうじゃな」
「はい」
「現場から回収し、魔法省が調べておる。内部の術式と現場の状況から、魔獣の行動を外部から制御するためのものと見られておる」
「魔獣を操る魔道具なんて、今までにもあったんですか?」
「少なくとも、これまで確認された例はない。魔獣を捕らえ、一時的に動きを封じる道具ならば存在する。じゃが、魔獣の行動そのものを外部から制御するものとなれば話は別じゃ」
橘から聞いた時点では、久世が首輪を使って魔獣を操っていた、というところまでしか分かっていなかった。どうやら、珍しいどころか、魔法省にも前例のない代物らしい。
「久世先輩が自分で作った可能性はないんですか?」
「ない。あやつに、そのような物を作り出せる知識も設備もなかった。それ以前に、一学生が単独で用意できる代物ではない」
「それなら、誰かが久世先輩に渡したと考えてるんですね」
「うむ。どこから手に入れたにせよ、久世以外の人間が関わっておる」
「それに、橘が聞いた話では、久世はあの建物の場所を、ある者に教えてもらったそうじゃ」
その話も橘から聞いている。ただ、肝心の相手までは久世も口にしなかったらしい。
「その相手が誰なのかは、まだ分かってないんですか?」
「そこまでは聞けなかったらしい。じゃが、あの建物は学園の森にある。存在を知っておった者となれば、まず学園の人間を疑うべきじゃろう」
首輪を用意した人間と、建物を教えた人間が同じなのか。それすら、今のところは分かっていないらしい。
「それで、オレに何をさせたいんですか?」
「その話をする前に、もう一つ聞いてもらわねばならぬことがある」
短い沈黙が落ちた。さっきまでと同じ静かな部屋なのに、妙にその間だけが長く感じられた。
「久世が死んだ」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「……今朝、雨宮先生は、魔法省に拘束されたと言ってましたけど」
「拘束されたのは事実じゃ。その後、魔法省の管理下へ移された。じゃが、十分な供述を得る前に何者かに殺された」
学園長の声は変わっていない。淡々とした言い方だったからこそ、その事実だけが妙に重く残った。
「犯人は分かってるんですか?」
「まだ分かっておらぬ。ただ、両手を拘束されたまま、頭を魔法で貫かれておった。事故や自殺ではなく、殺されたと見て間違いなかろう」
廊下の向こうを、生徒たちの話し声が通り過ぎていった。扉越しの気配はすぐに遠ざかり、室内には重い沈黙だけが残った。
「……口封じですか」
「おそらくな」
学園長は淡々と言った。
「久世がすべて一人で企てたのなら、あやつの口を封じて得をする者はおらぬ。じゃが、首輪や建物の件には、久世以外の人間が関わっておる。久世が何を知り、誰と関わっておったのか。話されて困る者がおると考える方が自然じゃ」
「その相手が、学園内にいるかもしれないと?」
「学園内とは限らぬ。久世が魔法省の管理下で殺された以上、向こう側も疑わねばならん。内部に手を貸した者がおるのか、外から入り込んだのか。それとも、正規の手続きを通さず人を動かせる立場の者なのか。今のところ何も分かってはおらぬが、学園の中だけを見て済む話ではない」
「そんな話を、どうしてオレに?」
「最初に言った頼みじゃ。お主に、少しばかり力を貸してもらいたくての」
やはり、この件に関わることらしい。
「具体的には、何をすればいいんですか?」
「何も難しいことではない。普段どおりに過ごしながら、少しばかり周りを見ていてほしいのじゃ。自分から動かずともよい。ただ、久世の事件を妙に探っておる者や、魔道具や森の建物について知っておるはずのないことを口にする者がおれば覚えておけ。何か引っかかることがあったときだけ、わしに知らせてくれ」
予想していた答えとは違った。
「それだけですか?」
「うむ。お主から何かを探しに行く必要はない。気づいたことがあれば、それをわしに伝えてくれればよい」
「学園長に直接ですか?」
「うむ。どこまで手が回っておるのか分からぬ以上、人づてに伝えて途中で漏れるのは避けたい。何かあれば、ほかの者は通さず、わしに直接伝えよ」
そこまで話が広がると、入学したばかりのオレに見られる範囲なんて、たかが知れている。
「でも、オレに分かることなんて限られてますよ」
「それでよい。無理に探れと言うておるのではない。普段どおりにしておって、何か気づいたときだけ知らせてくれればよい」
「それでも、どうしてオレなんですか?」
「久世を倒したからじゃ。お主は現場におった以上、向こうがお主について調べる可能性もある。何も知らぬまま接触されるより、事情を知っておる方がよかろう」
「最後に一発入れただけですけど」
「だからよい」
学園長の口元に、わずかな笑みが戻った。
「少なくとも、学園の大半はお主を警戒せぬ。C評価で、橘が追い詰めた相手へ最後に一発入れただけの一年生じゃ」
「ずいぶん都合よく使いますね」
「使えるものは使う。それだけじゃ」
悪びれる様子はなかった。
「何か気づいても、自分で確かめに行く必要はないんですよね?」
「うむ。怪しいからと後をつける必要も、夜中にどこか忍び込む必要もない。ただ見て、聞いて、気づいたことをわしへ伝えよ」
学園長の目がわずかに鋭くなる。
「危険だと思ったら、すぐにその場を離れよ。そこだけは守れ」
面倒な頼みには違いない。だが、久世の背後にまだ誰かいるのなら、次に巻き込まれるのが誰かも分からない。気づいていながら放っておいて、あとで取り返しがつかなくなる方が、よほど面倒だった。
「引き受けてくれるか?」
「普段どおりでいいなら」
「うむ。では、頼んだぞ」
学園長は満足そうに頷いた。
「近いうち、学生会からも事情を聞かれるであろう。久世は学生会の役員じゃったからの。魔法省へ話した以上のことまで言う必要はないが、そこで何か妙なことがあれば覚えておけ」
「分かりました」
これで話は終わりかと思い、足元の鞄へ手を伸ばした。学園長は止めるでもなく、その様子を眺めている。だが、立ち上がるより先に、ゆっくりと口を開いた。
「ところで桐原」
「何ですか?」
「なぜ、実力を隠しておる?」
さっきのやり取りで、うやむやになったと思っていたが、実はまだ気になっていたらしい。
「買いかぶりですよ」
「別に隠すこともなかろう。お主が、ただ運よく久世を倒しただけではないことくらいは分かっておる」
「それも学園長の推測で、根拠は別にないですよね?」
「根拠ならあるぞ。年の功じゃ」
思わず、学園長の顔をじっと見る。
「なんじゃ、その目は」
「年齢には触れるなと言われたので、どう反応すればいいのかと」
「若く見えると言う分には、いくらでも触れてよいぞ」
「ずいぶん都合がいいですね」
「長く生きておると、都合の悪いことは忘れるようになる」
長く生きてるって、一体この人いくつなんだ。
「ていうか年の功って、根拠というより勘じゃないですか」
「経験に裏打ちされた勘じゃ」
適当に言っているわけでも、鎌をかけているわけでもないらしい。これ以上とぼけても意味はなさそうだった。
「目立ちたくないので」
学園長は、まだ続きがあると思っているのか、こちらを見たまま待っていた。だが、オレが何も付け足さずにいると、その目から探るような色が消え、代わりにぽかんとした顔でこちらを見た。
「それだけか?」
「それだけです」
学園長はしばらくオレの顔を見ていた。こちらの答えを測るようだった目が、やがてふっと緩む。少なくとも、今の言葉をただの言い逃れとは受け取らなかったらしい。学園長は呆れたように眉を下げた。
「お主、若いわりにずいぶん枯れておるのう」
小さく息をつき、手元の書類を引き寄せる。
「今日はもう戻ってよい」
オレは椅子から立ち、足元の鞄を持ち上げる。扉へ向かい、取っ手へ手をかけたところで、背後から声がした。
「桐原」
振り返る。御影学園長は長椅子に座ったまま、先ほどまでとは違う真っ直ぐな目をこちらへ向けていた。
「今日のことは、誰にも話すでないぞ」
「分かりました」
「うむ。気を付けて帰るのじゃぞ」
学園長室を出て、静かに扉を閉めた。廊下の窓から差し込む夕方の光が、床を赤く照らしている。階下からは、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえていた。
学園の大半は、久世が捕まり、白鷺が助かったことで事件は終わったと思っている。オレも、ついさっきまではそう思っていた。
事件は終わったのではない。
久世が死んだことで、誰かに終わらされたのだ。
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