1話 『休み明けの教室』
休み明けの教室は、普段より少し騒がしかった。扉を開ける前から、廊下まで話し声が漏れている。中へ入ると、何人かの生徒が机の周りに集まり、休みの間に起きたことを話していた。
「正門のところにいた人たち、魔法省の人だったらしいよ」
「学生会の久世先輩が、白鷺さんを連れ去ったんでしょ?」
「そうらしいよ。それを橘さんが倒したって」
「私は桐原くんが倒したって聞いた」
休みの間に、話だけはずいぶん広まったらしい。久世が白鷺を連れ出し、それを一年生が止めた。そこまでは同じだが、誰が倒したのかになると話す相手によって変わる。橘だという者もいれば、橘が追い詰めたところをオレが最後に倒したという者もいた。ここまではいい。だが、そこから先の噂は元の出来事とは全くの別物になっていった。橘が森にいた魔獣を一匹残らず倒したことになり、最後には白鷺を誘拐したのはオレで、久世はそれを止めようとしていたことになっていた。
教室の奥にいた生徒が、こちらに気づいた。
「あ、桐原君だ」
その声で、周囲の視線が一斉に向けられる。歓迎というより、噂の本人を見つけた顔だった。席へ向かおうとすると、高橋と大野が机の間を抜け、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「おい、桐原。橘さんはもう大丈夫なのか?」
高橋が立ち止まるなり尋ねた。隣の大野も、こちらの返事を待っている。
「ああ。昨日会ったときは、もう普通に歩いてた。顔色も戻ってたぞ」
「本当か?」
「ああ」
二人は顔を見合わせ、揃って息を吐いた。橘が倒れたというところまで、噂は広がっているらしい。
「ならよかった」
大野が胸を撫で下ろしたあと、少しだけ身を乗り出した。
「それでお前、橘さんが追い詰めた久世先輩を、最後に倒したんだって?」
「一番いいところだけ持っていったらしいな」
高橋が続ける。こちらから訂正する必要のない話だった。
「まあ、そうだな」
二人の動きが止まった。
「……認めるのか」
高橋が目を見開く。その隣では、大野も同じような顔をしていた。
「自分の手柄にはしないのか?」
「お前らと一緒にするな」
「おはよう」
隣の席へ鞄を置いた花田が、こちらへ片手を上げた。
「朝から大変そうだな」
「見てないで助けろ」
「嫌だよ」
花田は迷わず断り、自分の椅子を引いた。休みの間に、話せる範囲のことは伝えてある。そのため、周囲の生徒のように事件の内容を聞こうとはしなかった。
「昨日言ってたとおりなら、橘も今日は来るんだよな?」
「ああ。もう大丈夫そうだった」
「ならよかった」
花田が教室の入口へ目を向けた直後、廊下側で何人かの声が重なった。橘が教室へ入ってきた。顔色は、休みの間に会ったときよりもよくなっている。歩く様子にも辛そうなところはなく、周囲から声をかけられると、いつもの笑顔を浮かべて足を止めた。
「橘さん、もう大丈夫なの?」
「はい。ご心配をおかけしました。もう平気です」
近くにいた女子生徒が声をかけたのをきっかけに、ほかの生徒たちも橘の周りへ集まり始めた。体調を尋ねる者もいれば、事件について何か聞きたそうにしている者もいる。高橋と大野も、オレを置いて橘の方へ向かった。
「橘さん、鞄持ちましょうか?」
高橋が橘の持っている鞄へ手を伸ばしかける。
「まだつらいなら、保健室まで付き添いますよ」
大野も真剣な顔で続けた。
「ありがとうございます。でも、本当にもう大丈夫ですから」
橘は鞄を持ったまま、小さく頭を下げた。
「無理しないでくださいね」
「何かあったら、すぐに言ってください」
「朝から二人で囲まないの」
人垣の横から二見が割って入り、高橋と大野を押し退けるように橘の前へ出た。二見は橘の顔を近くから確かめ、わずかに眉を下げる。
「昨日よりは、だいぶよさそうね」
「はい。昨日は心配をかけてしまって、すみませんでした」
「謝らなくていいわよ。もう平気なら、それでいいから」
「ありがとうございます」
橘は普段と変わらない笑顔で答えた。周囲の生徒から同じような言葉をかけられるたび、一人ずつ丁寧に返していく。何人目かに同じ返事をしたあと、橘は誰にも気づかれない程度に一度だけ息をついた。体調が戻っても、落ち着いて席につけるまでにはまだ時間がかかりそうだった。
どうにか人を散らした方がいいかと考えていると、教室の前方で扉が開いた。
「はいはい、朝から元気ねー」
雨宮先生が教室へ入り、橘の周りにできた人垣を見渡した。
「そろそろ席に戻って。今日は先に、先生から話があります」
その言葉を聞き、生徒たちは口々に橘へ声をかけながら、それぞれの席へ戻っていった。高橋と大野も、何度か振り返りながら自分たちの席へ向かう。雨宮先生は教卓へ鞄を置き、全員が座るのを待ってから出席簿を開いた。
「もう知っている人も多いと思いますが、休みの前に学園内で事件がありました」
先ほどまで残っていた小さな話し声が消えた。雨宮先生の口調は普段と変わらない。ただ、教卓に置いた両手は動かず、教室を見渡す目にも、いつもの気の抜けた様子はなかった。
「一年Aクラスの白鷺奈央さんは、現在、学園外の病院で治療を受けています。すでに意識も戻っており、命に別状はありません」
教室のあちこちから、安堵したような息が漏れた。白鷺が病院へ運ばれたことまでは広まっていても、その後の容体までは知らなかった生徒が多かったらしい。張りつめていた空気が、わずかに緩んだ。雨宮先生は一度言葉を切ってから続けた。
「白鷺さんを連れ出したのは、学生会に所属していた三年生の久世君です。久世君は事件のあと、魔法省へ身柄を引き渡されました。詳しい経緯については、現在も調査が続いています」
再び教室がざわめいた。
「本当に久世先輩だったんだ」
「……桐原じゃなかったのか」
まだ疑ってた奴がいたらしい。前の方に座る男子生徒が尋ねた。
「魔獣を使ってたって話も――」
「それ以上は、まだ先生から話せません」
そのあたりについては、休みの間に受けた事情聴取でも口止めされていた。魔獣に命令を聞かせていた首輪型の魔道具、建物の床に描かれていた魔法陣、久世が白鷺と魔獣を使って何をしようとしていたのか。捜査に関わる情報は、ほかの生徒へ話さないよう求められている。
「今、みんなの間で広まっている話には、確認されたことと、誰かが勝手につけ足したことが混ざっています。憶測だけで話を広めるのはやめてくださいね」
声を荒らげたわけではない。それでも、それ以上質問する者はいなかった。
「それから、白鷺さんへ何度も連絡を入れるのも控えてください。心配なのは分かります。でも、同じことを何人からも聞かれたら、それだけで休めなくなるからね」
何人かの生徒が気まずそうに視線を落とした。すでに連絡を送った者がいるのかもしれない。
「橘さんと桐原君も、休みの間に何度も事情を聞かれています。魔法省から話さないよう言われていることもありますから、二人を囲んであれこれ聞くのはやめてくださいね。話せることでも、話すかどうかは二人に任せること」
教室中の視線が、橘とオレへ集まった。
「今すぐ聞いていいって意味じゃないからねー」
雨宮先生に言われ、生徒たちは渋々視線を戻す。
「はい。先生からの話はここまで」
雨宮先生が出席簿を開く。張りつめていた教室の空気はすぐには消えなかったが、そのまま引きずらせるつもりもないらしい。
「それと、休み前の課題をまだ出していない人」
何人かがはっと顔を上げる。
「事件があったから、先生も忘れていると思った?」
雨宮先生は笑顔のまま教室を見渡した。
「残念でした。先生、そういうところだけはよーく覚えています。朝のうちに持ってきてください」
何人かの顔が引きつり、慌てて鞄の中を探り始めた。先ほどまで教室に残っていた張りつめた空気も、いつの間にか消えている。
「それじゃ、出席を取ります」
雨宮先生は何事もなかったように、名簿の一番上へ目を落とした。返事をする声が順番に続いていく。
事件の話は終わった。少なくとも、この教室ではそういうことになった。
出席を取り終えると、雨宮先生は一時間目の準備があると言って教室を出ていった。扉が閉まるなり、抑えられていた話し声が少しずつ戻り始める。ただ、先ほどまでとは違い、橘やオレへ直接事件のことを尋ねてくる者はいなかった。雨宮先生の釘は、思ったよりよく効いているらしい。
隣の花田は、鞄から取り出した課題を教卓へ置きに行っていた。机の中から教科書を取り出していると、橘がこちらへ近づいてきた。
「桐原君、少しいいですか?」
周囲へ向けるのと同じ、柔らかな声だった。
「ああ」
橘はオレの机の横へ寄り、周囲に聞こえないよう少しだけ身を屈めた。
「あれでよかったのよね?」
声から丁寧さが消える。
何のことかは聞くまでもなかった。
「ああ」
「魔法省の人には、私が久世先輩を追い詰めて、最後にあなたが倒したって話したわ」
「オレも同じだ」
休みの間に何度も聞かれたが、久世を倒した経緯については、二人とも同じ説明を通している。橘が戦い、久世を追い詰めた。オレはその最後に手を出しただけ。教室で広まっている噂と、そう大きくは変わらない。
「途中で話を変えてないでしょうね」
「変える理由がないだろ」
「あなた、面倒になったら適当に答えそうだから」
「面倒だから、同じことを話したんだよ」
橘は一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。
「そういうところだけは信用できるわね」
「褒められてる気がしないな」
「褒めてないもの」
橘が身体を起こそうとしたところで、後ろから声が飛んできた。
「ねえ」
振り返ると、二見が頬杖をついたまま、こちらを見ていた。
「さっきから何をこそこそ話してるの?」
「事情聴取で話した内容の確認です」
橘はすぐに普段の口調へ戻った。二見は橘の顔とオレの顔を交互に見る。
「それは分かったけど……二人、ちょっと近くない?」
言われてみれば、橘はオレの机の横に身を屈め、かなり近くまで顔を寄せていた。周りに聞かれないためとはいえ、事情を知らない人間には妙に見えるだろう。橘も今さら気づいたらしい。わずかに目を見開き、すぐに半歩下がった。
「教室が騒がしかったので、聞こえにくいかと思って」
「普通に話しても聞こえるでしょ」
「聞かれたくない話だったんだろ」
オレが答えると、二見の眉が寄った。
「だから、あんたたちだけに分かる話をしてるのが気になるのよ」
「じゃあ聞くな」
「気になるって言ってるでしょ」
理屈が一周して戻ってきた。橘は二見の視線を受け止めたあと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「今は話せないんです。すみません」
「……無理に聞き出したいわけじゃないけど」
二見はそう言って視線を逸らした。本人なりに、こちらの事情へ踏み込みすぎたと思ったらしい。
「ただ、また二人で勝手なことしないでよね」
森へ入ったことを言っているのだろう。橘の表情から笑みが消え、少しだけ目を伏せた。
「はい」
短く答えると、橘は自分の席へ戻っていった。二見はその背中を見送り、今度はこちらへ目を向ける。まだ納得していないことは、言われなくても分かった。
そのとき、授業開始の鐘が鳴った。ほどなくして雨宮先生が戻ってきた。小脇には、人数分の紙の束を抱えている。
「はーい。それじゃ、一時間目を始めます」
雨宮先生は紙の束を教卓へ置き、列ごとに分けて前の席へ渡した。
「今日は新しいところへ入る前に、休み前までの内容を確認するためのテストをします」
紙が後ろの席へ回り始める。その言葉に、教室の何人かが嫌そうな顔をした。やがて手元へ届いた紙には、いくつもの円と線が重なった複雑な術式図が大きく印刷されていた。
「そこに描かれている防護術式には、間違いが三箇所あります。間違っている場所に印をつけてください。時間は十五分。今の理解度を見るためのものなので、成績には入りません」
教室のあちこちから、ほっとしたような声が漏れた。
「成績に入らなくても、相談とカンニングは駄目だからねー。分からないところは、分からないままで出してください」
隣で答案を眺めていた花田が、早くも眉間に皺を寄せた。
「……どこが間違ってるんだ、これ」
「まだ始まってないぞ」
「始まったところで分かる気がしない」
雨宮先生の合図で、教室が静かになった。答案に描かれた術式は、幾重にも重なった円を、細い線が複雑につないでいる。しばらく眺めているうちに、その線が迷路の通路に見えてきた。
成績には入らないらしい。オレは問題を解くのをやめ、術式図の外側に小さく「入口」と書いた。そこから印刷された線を道に見立て、鉛筆で辿っていく。途中で先へ進めなくなるたびに印をつけ、別の道へ戻った。三つ目の行き止まりを見つけたあと、ようやく中心の手前まで辿り着いたが、最後の線が途切れている。オレはその隙間を鉛筆でつなぎ、中心へ「出口」と書いておいた。
「はい、そこまで。筆記用具を置いてくださーい」
教室中で一斉に鉛筆が置かれた。
「各列の一番後ろの人は、前まで答案を集めて、そのまま教卓へ持ってきてください」
椅子を引く音が重なり、後ろの席にいた二見も答案を手に立ち上がった。オレの机に置かれた答案を取ろうとして手を止める。
「……何よ、この回答」
二見が紙を持ち上げた。その声を聞いた花田が隣から覗き込む。術式図の外側に書かれた「入口」と、線を辿った先にある「出口」を見て、花田の表情が固まった。
「おい、桐原。これ……迷路なのか?」
「そうだが」
花田は慌てて、橘が回収したばかりの自分の答案へ目を向けた。オレが行き止まりにつけた三つの印と、花田が回答としてつけた印は、すべて同じ場所にあった。
「桐原、お前だましたな!」
どうやら花田はオレの答案をカンニングしたらしい。
「知るか」
「この三つ、間違ってる場所じゃなかったのかよ!」
「迷路の行き止まりだ」
橘が二枚の答案を見比べる。
「……本当に全部同じですね」
「桐原のを見て書いたからな」
花田が答えた途端、二見の目つきが変わった。
「ちょっと、花田。あんたカンニングしたの?」
「いや、三つ印がついてたから、てっきり答えかと……」
「それでそのまま写したの?」
二見は二枚の答案を見比べ、しばらく黙ったあと、深く息を吐いた。
「そこ、バカ二人はほっといて、先に答案を回収してねー」
教室の前から雨宮先生の声が飛んできた。
「誰がバカですか!」
「あんたに決まってんでしょ。カンニングなんかして」
二見は花田を一睨みしてから、オレの答案を持って前の席へ向かった。橘も花田の答案を持って、そのあとに続く。すべての答案が教卓へ集まると、雨宮先生は花田とオレの紙を並べて確認した。
「花田君。今回は成績に関係ない確認テストだから、注意だけにしておきます。でも、本来の試験だったら、注意だけでは済まされません。分かるよね?」
花田は先ほどまでの勢いを失い、素直に頭を下げた。
「……すみませんでした」
「はーい。次からは自分で考えてください」
「はい」
雨宮先生は花田の答案を置き、今度はオレの紙を持ち上げた。
「桐原君も、次から気をつけてね」
「なんでオレまで」
「そもそも、テスト用紙に落書きなんかするんじゃないの」
「すいません」
確かにその通りすぎるので、オレは素直に謝った。
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