番外編 『大野くんが選ばれた理由』
きっかけは三日前だった。実技の授業を終えたオレたちは、訓練場から教室へ戻る途中で、一ノ瀬とすれ違った。彼女は両腕に、小型魔獣を運ぶための飼育箱を抱えていた。箱には布がかけられていたが、前面の格子までは覆われておらず、その奥から二つの丸い目が覗いている。
大野が一ノ瀬の横を通り過ぎようとした瞬間、箱の中で何かが跳ねた。木枠が大きく鳴り、飼育箱が一ノ瀬の腕からずれ落ちる。大野が咄嗟に底を支えたため、地面に落ちることはなかった。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます」
一ノ瀬は箱を抱え直し、格子の奥を確かめた。中の魔獣は前脚を格子へかけたまま、大野から目を離そうとしない。一ノ瀬は戸惑ったようにその様子を見てから、大野の顔へ視線を移した。
「どうかしたのか?」
「いえ……すみません。少し驚いただけです」
一ノ瀬は小さく頭を下げ、そのまま飼育棟の方へ歩いていった。箱の中では、離れていく大野を追うように、何度も木枠が鳴っていた。
「……今の俺、かっこよくなかったか?」
大野が一ノ瀬の背中を見送りながら言った。
「箱を受け止めたところか?」
花田が尋ねる。
「ああ。しかも、そのあと一ノ瀬、俺の顔を見てただろ」
「見てたわね」
二見が言った。
「驚いた顔してたよな」
「……まあ、してたわね」
「だよな」
大野は満足そうに口元を緩めた。
「何が『だよな』なのよ」
「別に」
別にと言うには、大野の口元は緩みすぎていた。
三日後の放課後。オレと花田、二見、高橋の四人は雨宮先生から教室へ残るよう言われた。ほかの生徒が廊下へ出たあと、雨宮先生は開いたままの扉を閉め、教卓の前でオレたちを見回した。
「この後、魔獣の捕獲を手伝ってもらえない? この前、一ノ瀬さんが運んでた子が、昨日の清掃中に逃げちゃったのよ」
「あの箱の中にいたやつか……」
三日前のことを思い出し、花田が呟く。
「今は旧飼育室に入り込んでる。危険な魔獣じゃないんだけど、人が追うと建物の奥へ逃げるから、少し面倒なのよね」
二見が怪訝そうに眉を寄せる。
「それを、どうやって捕まえるんですか?」
「気に入った顔を見せれば、自分から出てくるわ」
雨宮先生が平然と答えた。
「……顔?」
「人間とは顔の好みが逆なの。それで三日前、大野君を見たときに、今までにないくらい強く反応したらしくてね」
教室の空気が止まった。
高橋だけが無言で教卓へ近づく。
「網はどこですか?」
「待ちなさいよ。まだ大野が引き受けるって決まってないでしょ」
二見がその腕を掴んだ。
「分かっている。場所を聞いただけだ」
「なんでそんなに乗り気なのよ」
「捕獲を失敗させないためだ。別に他意はない」
以前、別の魔獣を捕まえたとき、高橋も囮にされたことがある。大野はその一件を知らないが、高橋は忘れていなかったらしい。
「本人には一ノ瀬さんからきちんと説明するわ。嫌がったら中止。あなたたちは、大野君が引き受けた場合に備えて先に待機しておいて。この前も使った捕獲用の網があるから」
雨宮先生は旧飼育室の見取り図を教卓へ広げた。オレたち四人が正面の出入口を囲み、雨宮先生は飼育担当の教師と一緒に裏手の窓を塞ぐらしい。大野を囮にすること以外は、まともな捕獲計画だった。
説明を終えて教室を出ると、廊下の先に一ノ瀬と大野の姿が見えた。一ノ瀬は周囲を気にしながら、少し声を落としている。
「実は大野くんのことを気になってる子がいて、この後、旧飼育室まで一人で来てもらえませんか?」
「一人で?」
「はい。ここだと言いづらい内容なので、そこで詳しく話します」
「一ノ瀬さんが?」
「……?はい、私がです」
「分かった。必ず行くよ」
大野はほとんど間を置かずに答えた。なぜか大野の顔は先ほどよりも男の顔になっていた。
「ありがとうございます。それでは、放課後に」
一ノ瀬は安堵したように頭を下げ、廊下の反対側へ歩いていった。大野はその後ろ姿が角の向こうへ消えるまで見送ってから、こちらへ振り返った。どうやら気配でオレたちがいることに気づいていたらしい。
「今の話、聞いてたか?」
「聞いてた」
花田が答える。
「なら分かるな。放課後、俺のことは放っておいてくれ」
「もともと一緒に帰る約束なんてしてないでしょ」
二見が呆れたように言ったが、大野は気にしなかった。
「一ノ瀬の話は最後まで聞けよ」
オレが忠告すると、大野は片方の眉を上げる。
「当たり前だ。こういう話を途中で遮るほど、俺は野暮じゃねえよ」
そう言い残し、大野は一人で教室へ戻っていった。二見はしばらく黙ってその背中を見送っていた。
「絶対、告白だと思ってるわよね」
「思ってるな」
花田も否定しなかった。
「誰か教えた方がいいんじゃない?」
「駄目だ。一ノ瀬が説明することになってるだろ」
高橋はそれだけ言うと、旧飼育室の見取り図を折り畳んだ。
「俺たちは網を持って待てばいい」
声も表情も落ち着いていた。だが、言い終えると同時に、誰よりも先に旧飼育室へと歩き出した。
放課後、オレたちは大野より先に旧飼育室へ向かった。訓練場の奥に残された旧飼育室は、長く使われていない平屋の建物だった。イメージとしては体育倉庫に近い。色の褪せた外壁には蔦が這い、曇った窓の向こうには古い仕切りや空の飼育箱が並んでいる。
逃げた魔獣は、すでに建物の中にいた。作戦では大野に扉の前まで行ってもらい、入口を開けたところで、おびき寄せられた魔獣を捕獲するというものだった。
オレと花田は入口の左右へ、高橋は少し後方へ回る。二見は捕獲箱を持った一ノ瀬と一緒に、外壁の陰へ隠れた。雨宮先生たちは建物の裏側にいる。
網を広げ、伸びた草の上へ伏せてからしばらく待つ。
やがて、大野が一人で歩いてきた。約束の時間より少し早い。制服は普段より丁寧に整えられ、前髪には見慣れない分け目がついている。
旧飼育室の前まで来ると、大野は窓硝子に自分の姿を映した。
「俺も同じ気持ちだ」
小さく呟いてから、首を傾げる。
「……軽いか」
オレの向かいに隠れている花田の肩が揺れた。高橋は笑うこともなく、真剣な顔で網の端を握り直している。
ほどなくして、建物の脇から一ノ瀬が現れた。
「すみません。お待たせしました」
「いや。俺も今来たところだ」
少なくとも入口の前を三往復はしていたが、一ノ瀬は気づいていない。
「来てくれてありがとうございます。断られるかもしれないと思っていたので」
「この前、俺のこと見てたよな」
「はい。大野君も気づいていたんですね」
「まあな」
「すれ違ったときのことを思い出して、大野くんしかいないって思ったんです」
大野の口元が、少しずつ持ち上がっていく。
「そうか」
「それで、今日お願いしたいことなんですけど――」
「女に全部言わせるかよ」
一ノ瀬の言葉を遮り、大野が一歩前へ出た。
「え?」
「気持ちはもう伝わった。あとは男の俺が応える番だ」
一ノ瀬は目を瞬いた。言葉の意味を確かめるように、大野の顔を見る。
「……つまり、引き受けてもらえるんですか?」
「そのために来た」
大野は迷わず答えた。
一ノ瀬の表情から戸惑いが消える。
「ありがとうございます。では、お願いします」
一ノ瀬が旧飼育室の扉を開いた。
床を蹴る細かな足音が、まっすぐ入口へ近づいてきた。
大野が扉の方へ顔を向ける。
「何が――」
疑問を口にしたときには、もう遅かった。
灰色の毛に覆われた小型魔獣が入口から飛び出し、迷うことなく大野へ跳びついた。猫ほどの丸い身体が胸元へぶつかり、短い前脚が制服の襟に絡みつく。
「うおっ!? なんだこいつ!」
大野が引き離そうと腕を伸ばす。魔獣はその手をすり抜けて肩までよじ登り、首元へしがみついた。
「今です!」
一ノ瀬の声と同時に、オレたちは物陰から飛び出した。
オレと花田が左右から網を投げる。高橋は誰よりも早く大野の背後へ回り、逃げ道を塞ぐように網を投げた。
三枚の網に包まれ、大野が魔獣ごと地面へ倒れ込む。
「桐原!? なんでお前らがいる!」
「暴れるな。網がずれるだろ」
「網より先にこいつを剥がせ!」
高橋が網の上から大野の肩を押さえ込む。
「大野、もっと頭を下げろ!」
「なんでお前が命令すんだよ!」
「経験者の言うことを聞け!」
「何の経験だよ!」
一ノ瀬と二見が捕獲箱を運んでくる。一ノ瀬は厚手の手袋をはめ、網の隙間から魔獣を慎重に抱え上げた。
大野から引き離された魔獣は、短い脚を懸命に伸ばしている。捕獲箱へ入れられ、格子を閉められても、大野がいる側へ身体を押しつけたまま離れなかった。
オレたちは網を外し、大野を起こした。制服の襟は大きく乱れ、首元には小さな赤い跡がいくつか残っている。
「……説明しろ」
大野が低い声で言った。
「すみません。引き受けてもらえたと思って……」
「何をだ」
「醜貌喰いの囮です」
大野の表情が止まった。
一ノ瀬は申し訳なさそうに続ける。
「人間とは顔の好みが逆なので、逆面喰いとも呼ばれています。気に入った相手を見つけると、顔や首の近くにしがみついて、少しだけ魔力を吸う魔獣です」
大野がゆっくりこちらを振り返った。
オレは地面に落ちた網を畳み、花田は旧飼育室の屋根を見上げ、高橋は捕獲箱の留め具を確認し始めた。二見も一瞬遅れて顔を背ける。
「おい。なんで誰も俺を見ねえんだよ」
一ノ瀬が大野の首元を確認する。
「首の跡は二、三日で消えます。少し疲れを感じるかもしれませんけど、身体への害はありません」
大野は赤い跡へ手を当てた。
「あの……飼育棟へ戻すまで、一緒に来てもらえませんか? 大野君が見えていれば、この子も大人しくしてくれると思うので――」
「二度と俺に近づけるな!」
大野は乱れた襟を直し、校舎の方へ歩き出した。
捕獲箱の中で、醜貌喰いが格子へ身体をぶつける。箱が大野を追うように大きく傾き、一ノ瀬が慌てて両腕で押さえた。
大野は振り返らなかった。背後で格子の音が鳴るたび、歩く速度はだんだん速くなっていった。
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