22話 『笑顔の向こう側』
私は母と二人で暮らしていた。母は朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってきた。私は玄関の扉が開く音を待ちながら、一人で夕食を食べた。眠くなれば先に布団へ入り、帰ってきた母の物音で目を覚ました。
「起こしちゃった?」
「ううん。起きてた」
本当は、眠っていた。けれど、起こされたと言えば、母が申し訳なさそうな顔をする。だから嘘をついた。
寂しくても泣かなかった。学校で嫌なことがあっても、母が疲れている日は話さなかった。欲しいものを聞かれれば、いらないと答えた。そうすると、母は私の頭を撫でてくれた。
「紗良はいい子ね」
その言葉が好きだった。私が我慢すれば、母は笑う。私が笑っていれば、母は安心する。子どもの私にも、母を助けることができる。それが嬉しかった。
最初は、それだけだった。
学校でも、同じようにした。友達と欲しいものが重なれば譲った。面倒な係が残れば引き受けた。誰かが怒れば宥めて、誰かが泣けば慰めた。
「紗良ちゃんなら分かってくれるよね」
「うん」
「これ、お願いしてもいい?」
「いいよ」
「紗良ちゃんって優しいね」
「ありがとう」
私が笑えば、相手も笑った。いつの間にか、母に向けていた気遣いを、周りの誰に対してもするようになっていた。
嫌だと言えば、相手は困る。断れば、空気が悪くなる。怒れば、誰かが傷つく。だったら、私が少し我慢すればいい。
最初は、本当に少しだった。けれど、いつからか、どれくらい我慢を重ねたのか分からなくなっていた。
頼まれるたびに笑った。
――自分でやればいいのに。
相談されるたびに頷いた。
――そんなことも自分で決められないの。
好意を向けられるたびに、相手を傷つけない言葉を選んだ。
――勝手に好きにならないで。
口から出る言葉と、胸の中に浮かぶ言葉は、少しずつ離れていった。それでも、笑顔だけは変わらなかった。
優しい子。聞き分けのいい子。誰にでも平等な子。それが橘紗良だった。
それ以外の私を知っている人はいなかった。私自身にも、もう分からなかった。何がしたいのか聞かれても、何でもいいとしか答えられない。何が嫌なのか考えようとすると、先に相手の顔が浮かんだ。
私が嫌だと言ったら、この人はどんな顔をするだろう。
そんなことばかり考えた。
ある日、母が笑って言った。
「紗良は昔から手がかからなくて、本当に助かるわ」
いつもなら、嬉しいはずだった。それなのに。
――うざい。
そう思った。
母は何も悪くない。仕事で疲れていても、私を育ててくれた。忙しいなりに、私を大切にしてくれていた。
分かっている。分かっているのに、胸の奥から言葉が湧いてきた。
何が助かるの。
私が何も言わなかったから、手がかからなかっただけでしょ。
言えなかっただけなのに。
本当は寂しかった。たまには、私のことで困ってほしかった。私が泣いたら、困った顔をするより先に、抱き締めてほしかった。
そんな言葉が、喉まで上がってきた。母は疲れた顔で笑っていた。だから、私も笑った。
「ううん。お母さんのほうが大変だから」
母は安心したように、また笑った。
そんなふうに思ってしまった自分が、何よりも嫌だった。母が好きだったから、いい子になったはずなのに。その母にまで、うざいと思ってしまった。
だから、もっと笑うようになった。頼み事は断らなかった。嫌なことを言われても許した。胸の奥でどれだけ悪態をついても、表には出さなかった。
橘紗良は優しい。橘紗良は誰も困らせない。そうでなければならなかった。
いい子でいることは、もう母を喜ばせるためだけのものではなかった。それをやめたら、私には何も残らない。
誰かを見下して、頼られるたびに苛立って、母にまで悪態をつく。そんなものが本当の私だなんて、認められるはずがなかった。
だから笑った。いい子ではない自分を、誰にも見つけられないように。
『どうして、そこまで自分を取り繕ってるんだ?』
冗談でも、当てずっぽうでもなかった。もう一度問い直した私に、桐原君は迷わず「ああ」と答えた。その言葉が嘘ではないと、私には分かってしまった。
母にも、昔からの友達にも、誰にも気づかれなかった。私が笑えば、みんなそれを信じた。疑う人なんて、一人もいなかった。
その笑顔を、出会ってまだ二週間しか経っていない桐原君に見抜かれた。
誰にも触れられなかったものを、たった一度、言葉にされただけで。
怖かった。これ以上話せば、隠してきたものを全部知られてしまうような気がした。だから私は、いつもの笑顔に戻った。明日からも今までどおりに接するように言って、その場を終わらせた。
あの日からも、桐原君はそれ以上聞かなかった。分かったような顔で慰めることも、私を責めることもなかった。ただ、私が隠していたことに気づいて、それでも態度を変えなかった。
そのことが、ずっと引っかかっていた。
見抜かれたくなかった。なのに、私の中で何も変わらなかったことに、少しだけ安心している自分がいた。
*
「……桐原君?」
名前を呼ばれ、窓から顔を戻した。
ベッドの上で、橘が目を覚ましていた。保健室の照明は消えている。開いたカーテンから差し込む月明かりが、白いシーツと枕に広がった黒髪を淡く照らしていた。
「起きたか」
「ここは……?」
「保健室だ」
橘は何度か瞬きをしたあと、窓の外へ目を向けた。夜空を見て、ようやく時間の経過に気づいたらしい。
「私、どれくらい寝てた?」
「三時間くらい」
身体を起こそうとしたが、腕に力が入らなかったらしい。肩がわずかに浮いただけで、すぐに枕へ戻った。息を詰めた橘の顔から、さらに血の気が引いていく。
「まだ動かないほうがいい。魔力が戻ってない」
橘は自分の身体を確かめるように目を閉じた。すぐにその表情が変わる。
「白鷺さんは?」
「病院へ運ばれた。まだ意識は戻ってないが、命に別状はないらしい」
「本当に?」
「ああ」
掛け布団を掴んでいた橘の指が緩んだ。それまで浅かった呼吸も、少しだけ落ち着く。
「よかった……」
声に出した途端、張り詰めていたものが切れたのか、橘は枕へ深く頭を沈めた。
「久世先輩は?」
「先生たちが確保した。今は別の場所で監視されてる」
「そう……」
橘は目を閉じた。安堵したように見えたが、眉間にはまだ薄く皺が残っている。しばらくして、また瞼を開いた。
「私が気を失ったあと、どうしたの?」
「お前と白鷺を手前の部屋へ運んだ。久世は魔獣を繋いでいた鎖で縛って、それから学園まで戻った」
「一人で?」
「ほかに誰もいなかったからな」
「先生たちを連れて戻ったの?」
「ああ」
「私をここまで運んだのも?」
「オレだ。先生たちは白鷺の搬送と久世の確保、それに小屋の調査で手が足りてなかった」
橘の視線が、オレの制服へ落ちた。砂埃は軽く払ったものの、完全には落ちていない。右の袖も破れたままだった。
「久世先輩には、どうやって勝ったの?」
あの時意識はあったが、魔力をほとんど失った状態で戦いの内容まで追えてはいなかったのだろう。
「オレが着いたときには、お前との戦いで久世も限界だった。最後にできた隙を突いただけだ」
「嘘」
顔を上げる。橘は枕に頭を預けたまま、こちらを見ていた。焦点の合わなかった目が、今はまっすぐオレへ向けられている。その体内で、残り少ない魔力がかすかに動いていた。
「どうしてそう思う」
「何となく」
「何となくで嘘だと決めるのか」
橘は答えず、しばらくオレの顔を見つめた。やがて視線を外し、枕へ頬を沈める。
「でも、言いたくないならいいよ」
「そうしてくれ」
「分かった。もう聞かない」
橘は天井へ目を向けた。会話が途切れる。保健室の外から人の声は聞こえない。壁に掛けられた時計が、一定の間隔で時を刻んでいた。
「ねえ、桐原君」
「今度は何だ」
橘はすぐには答えなかった。掛け布団の上に置いた手へ目を落とし、指先でシーツの皺を何度もなぞっている。
「どうした」
「……何でもない」
そう言いながらも、話を終える様子はなかった。橘は一度こちらを見たが、目が合う前に視線を逸らした。普段なら、言葉に迷っていることさえ悟らせない。相手が何を求めているかを考え、その場に合った答えを先に選ぶ。
今は、その答えを決められずにいるらしい。
「聞きたいことがあるなら聞けばいいだろ」
「簡単に言わないで」
「黙ってても、オレには分からないぞ」
「……そういうところ、本当に嫌い」
「元気になってきたな」
橘がわずかに眉を寄せた。けれど、いつもの笑顔で取り繕うことはしなかった。何度か口を開きかけ、やめる。
やがて橘は息を吐き、覚悟を決めるように掛け布団を握った。
「私、白鷺さんを守ろうとはしてたよね」
「してたな」
「……あれも、ただのふりだったと思う?」
「何のふりだ」
「いい子のふり」
橘の指が、掛け布団の端をつまんだ。
「私、ずっと周りが望むように振る舞ってきた。誰にでも優しくして、笑って、相談されたら親身になって。心の中では面倒だと思っていても、そんな顔は一度もしなかった」
淡々と話そうとしているのだろう。けれど、言葉を重ねるほど声が小さくなっていく。
「白鷺さんを助けようとしたのも、同じだったのかもしれない」
橘はそこで一度言葉を止めた。
「困っている人を見捨てない自分でいたかっただけで……本当に白鷺さんを助けたかったのか、自分でも分からない」
「白鷺を守ろうとしたのは、お前だ」
橘がこちらを見る。
「久世に魔力を吸われても、白鷺の前から動かなかった。それに、気を失うまで結界を残してた」
「あれも、いい子のふりをしただけかもしれない」
「誰に見せるためのふりだ」
「……白鷺さんとか」
「白鷺は気を失ってただろ。それとも、久世に褒めてもらいたかったのか?」
「違う」
返事だけはすぐに返ってきた。
「なら、久世しか見ていない場所で、誰のためにいい子のふりをしたんだよ」
橘は何も言わなかった。シーツをつまんでいた指に少しずつ力が入り、皺が寄っていく。
「いい子でいようとしただけかもしれない」
しばらくして絞り出したのは、先ほどとほとんど変わらない答えだった。
「それで白鷺を守ったなら、十分だろ」
「でも、心の中では何を考えてたか分からない。逃げたいとか、どうして私がって思ってたかもしれない」
「考えてることと、やったことは別だ」
「……そんな簡単に分けられないよ」
「分けられなくても、白鷺を守ったことはなくならない」
橘の唇がわずかに開いた。しかし、言葉は出てこなかった。納得した顔ではない。けれど、すぐに否定することもできないらしい。視線を落とし、自分が握り締めたシーツの皺を見つめている。
窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らした。月明かりが一度途切れ、また橘の顔を照らす。
「私、優しい人じゃないよ」
「そうかもな」
「優しくした相手に、うざいって思ったこともある。頼られるたびに、自分でやればいいのにって思ってた。笑って話を聞きながら、心の中では相手を見下してた」
一つ口にするたび、橘はオレの顔を窺った。
「思ってることを全部口に出して生きてる人間のほうが珍しいだろ」
「でも、みんなに見せてた私は、ほとんど嘘だった」
「全部じゃないんだろ」
「桐原君に、私の何が分かるの?」
「全然分からないな」
橘の目がわずかに揺れた。
「だが少なくとも、白鷺を守ったお前まで嘘だったことにはならないだろ」
橘は顔を背けた。枕の上に広がった髪が、頬の半分を隠す。そのまま黙り込む。
「……私のこと、気持ち悪いと思わないの?」
聞こえなくなりそうなほど小さな声だった。冗談で聞いている顔ではない。否定してほしいというより、否定されても信じていいのか分からない顔をしていた。
「思わない」
「どうして?」
「さっき言っただろ。心の中で何を考えていても、実際にやったことまで消えるわけじゃない」
橘はこちらを向かない。
「性格が悪いとは思わないの?」
「それは少し思う」
髪の間から見えていた橘の目が、ゆっくりとこちらへ動いた。
「そこは否定してよ」
「本当のことを聞きたいのか、慰めてほしいのか、どっちだ」
「……本当のこと」
「なら、少しは性格が悪い」
「桐原君にだけは言われたくない」
「そうか」
「否定しないんだ」
「お前ほどじゃないと思ってる」
「やっぱり性格悪いよ」
橘の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。けれど、それはすぐに消えた。
「もう私とは関わりたくない?」
「いいや」
「本当に?」
「ああ」
「教室で私が今まで通りでも?」
「好きにすればいい」
「桐原君の前でも?」
「笑いたいなら笑えばいい。笑いたくないなら、無理に笑う必要はない」
「そんな簡単に変えられないよ」
「なら、変えなくていい」
「どっちなの?」
「今日中に決める必要はないってことだ」
橘は天井へ目を向けた。目元に張っていた力が、少しだけ抜ける。
「私と関わるの、面倒じゃない?」
「面倒だ」
「そこは即答するんだ」
「人と関わるのはだいたい面倒だからな。橘に限った話じゃない」
橘は長く息を吐いた。掛け布団を掴んでいた指が、一本ずつゆっくりと開いていく。
「助けてくれて、ありがとう」
「ああ」
橘は目を伏せたまま黙った。これで話が終わったのかと思ったが、何かを言い終えた顔ではなかった。何度か唇を動かし、声にする前に止める。
迷った末に、もう一度こちらを見た。
「一つ、聞いてもいい?」
「まだあるのか」
「どうして、私が目を覚ますまでここにいたの?」
「オレも疲れてたからな。ここで休んでただけだ」
「……私が心配だった?」
答えるまでに、少し間が空いた。
「別に」
橘はしばらくオレを見ていた。やがて口元が緩み、小さな笑い声がこぼれる。
「何がおかしい」
「それ、嘘だよね」
声には、まだ笑いが残っていた。
「私のオリジナル、人の嘘が分かるの」
時計の音だけが、一度、保健室に響いた。先ほどまで橘が口にしていた質問が、順番に頭へ浮かぶ。
橘が妙にあっさりと追及をやめた理由も、同じような質問を何度も重ねた理由も、ようやく分かった。
「じゃあ、久世の話も」
「うん」
「さっきまでの質問もか?」
「うん」
「魔力は戻ってないんだろ」
「少しだけ戻ってたから」
「そんなことに使うな」
「私には、そんなことじゃないよ」
橘はこちらを見る。
「私を気持ち悪いと思ってないことも、少しは性格が悪いと思ってることも、これからも話してくれることも。全部、本当だった」
「そこまでして確かめたかったのか」
「……怖かったから」
「何が」
「桐原君が、本当は私を嫌ってるかもしれないって思った」
橘の声は小さかった。
「優しいことを言われても、それが本心じゃなかったら、今までと何も変わらないから」
橘は不安そうな顔でオレを見る。
「こんなふうに、勝手に本心を確かめられるのは嫌?」
「嫌だな」
橘の表情が固まった。
「何でも勝手に探られるのは、気分がよくない」
「……ごめん」
橘は目を伏せた。しばらく、時計の音だけが続いた。
「使うときは先に言え」
橘が顔を上げる。
「先に言えば、使ってもいいの?」
「先に言ったからって、許可するとは限らないけどな」
「どっちなのよ」
橘はわずかに目を細めた。
「何を考えてるかまで分かるのか?」
「そこまでは分からない。口にした言葉が、その人の本心と違うと分かるだけ」
「それでも十分気分が悪いな」
「……うん」
「今も使ってるのか」
「うん」
「もう切れ。魔力が戻ってないんだろ」
「でも……」
「もう十分確かめただろ」
橘は何かを言いかけた。能力を止めれば、次にオレが口にする言葉が本当かどうか分からなくなる。
橘はしばらくオレから目を逸らさなかった。やがて目を伏せると、体内でかすかに動いていた魔力が、少しずつ静まっていった。
「……止めた」
「これで、オレが嘘をついても分からないな」
橘はすぐには頷かなかった。オレの顔を見つめる。しばらく視線を外そうとしなかった。
やがて、小さく頷く。
「確かめたかったことは、もう聞けたからいい」
保健室に時計の音が戻る。月明かりも、窓の外の夜も、先ほどまでと何も変わっていない。
「人の嘘が分かって、よかったと思ったことなんて一度もなかった」
橘の視線が、窓の外へ向く。
「知りたいと思って使ったのに、知らなければよかったと思うことばかりだった」
「なら、使わなければいいだろ」
「分からないままでいるのも怖かったの」
「面倒だな」
「……うん。面倒」
実際相手の真意が分かる能力があれば、使わないほうがいいと分かっていても、気になって使ってしまうのだろう。
橘が小さく息を吐く。先ほどまでより、その息は深かった。
「でも、さっきの嘘は、分かってよかった」
「何の話だ」
「私が心配で保健室にいたこと」
「それは忘れろ」
「無理」
橘が小さく笑う。
「ねえ、桐原君」
「何だ」
「明日も、いつも通り?」
「何がだ」
「教室で話してかけてもいい?」
「今さら聞くことか」
「今はもう、嘘かどうか分からないから」
「なら、明日になれば分かる」
「それ、答えになってないよ」
「昼になれば、どうせ花田が食堂へ行こうと言い出す。二見も文句を言いながらついてくる」
「桐原君も?」
「ああ」
「私も行っていい?」
「いつも通りなら、お前もいるだろ」
橘はオレを見つめた。もう、その答えをオリジナルで確かめることはしなかった。
「……うん」
橘の口元が緩んだ。笑おうと形を整えるより先にこぼれた、少し不格好な笑みだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回の更新で、第一章は完結となります。
入学式から始まり、魔力量測定や学園での日常を経て、白鷺の失踪と北の森での事件までを書きました。
第一章の事件はひとまず決着しましたが、まだ明らかになっていないことや、今回の一件をきっかけに動き始めるものも残っています。
第二章へ入る前に、桐原たちの日常を描いた番外編をいくつか投稿する予定です。その後、事件のその後から第二章を始めます。
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番外編、そして第二章もよろしくお願いいたします!




