21話 『魔力量では測れない』
「……誰だ、君は」
「橘から手を離せ」
「質問に答えてほしいな」
久世の指に力が入る。掴まれた手首から、橘の魔力が先ほどよりも速く引き出され始めた。
オレは床を蹴った。脚へ集めた魔力が、一気に身体を加速させる。久世の空いている右腕へ、全身を覆っていた魔力の一部が流れ込んだ。肩から腕を通り、指先で術式を形作っていく。
風が放たれるより先に、その正面から外れた。圧縮された風がすぐ横を通り過ぎ、開いた扉の向こうで木箱を砕く。そのまま久世の前まで踏み込み、橘を掴んでいる左腕を蹴り上げた。
久世の指が離れる。体勢を立て直される前に二人の間へ入り、橘たちを背にして立った。久世は数歩下がり、魔法陣の中央で足を止める。
オレは久世から目を離さないまま、背後の橘へ声をかけた。
「立てるか」
「……無理」
「分かった」
答えるだけでも苦しいらしい。橘は床へ手をつき、浅く息をしながら、それでも言葉を続けた。
「気をつけて……あの人に触れられたら、魔力を吸われる」
「ああ」
久世は蹴られた左腕を確かめるように、何度か指を動かした。先ほどまで浮かべていた笑みは消えている。
「名前は?」
「桐原朔也。橘と同じクラスだ」
「桐原……」
久世がオレの顔を見る。
「一年生か」
「そうだ」
「なら、君もここから帰すわけにはいかないな」
久世を覆っていた魔力が左右へ分かれ、それぞれ別の術式へ流れ込んだ。右側の術式が先に完成する。
オレは左へ走った。直後、右の術式から風が放たれ、立っていた場所の石床を砕く。もう一つの術式には、まだ魔力が流れ続けていた。最初から、オレが避けた先を狙うためのものだ。左側の術式がこちらへ向きを変える。
身体を沈めた。風が頭上を通り過ぎ、奥の壁へぶつかる。低い衝撃音が響き、砕けた石の欠片が背中へ降りかかった。
立ち上がろうとしたところで、久世の正面へ新たな魔力が集まる。
三つ目。
術式が完成していく流れは見えている。それでも、身体が追いつかない。見えることと、避けられることは同じではなかった。
正面へ術式を展開する。魔力を流し込むと同時に、半透明の結界が広がった。直後、風が結界へ突き刺さる。
表面に亀裂が走った。衝撃が腕を抜け、身体の芯まで届く。靴底が石床を擦り、数歩分も後ろへ押された。それでも、結界は残った。
久世の視線が、結界からオレへと移る。眉がわずかに寄った。
「……速いな」
「何がだ」
「術式だ。こちらの術式が完成してから展開した。それで間に合うものじゃない」
久世の目が細くなる。
「それに、さっきから動き出すのが妙に早い」
オリジナルの正体を見抜かれたわけではない。久世に分かったのは、オレが術式の完成を待たずに動いていることだけだ。それでも、一度の攻防でそこまで気づいた。二度目の攻撃では、オレが動くまで発動を遅らせた。避けた先へ術式を向け直し、さらに三つ目を重ねている。
同じ避け方は、もう使えない。
久世を覆う魔力が大きく揺れ、一か所へ集まった。先ほどまでよりも大きな術式が正面へ浮かび上がり、部屋の空気がそこへ引かれていく。床の砂埃が久世の方へ流れ、制服の裾が持ち上がった。
まともに受ければ、今度こそ結界ごと抜かれる。
オレは右の壁際へ走った。術式の向きがこちらを追う。風が放たれる直前、結界への魔力供給を止め、残った魔力を足元へ回した。床へ新しい術式が浮かび上がる。
次の瞬間、オレと久世の間で石床が斜めに隆起した。そこへ風がぶつかり、轟音が部屋を揺らす。隆起させた石は一瞬で砕けた。それでも、風の向きはわずかに上へ逸れた。頭上を通過した風が天井を打ち、石造りの部屋全体が震える。細かな破片が降り注いだ。
その中を前へ出る。
大きな魔法を放った直後だというのに、久世の魔力はすでに両脚へ集まっていた。次の動きにも遅れがない。久世の姿が、一息で目の前まで迫る。
オレも魔力を脚へ集めた。久世のように、全身を厚い魔力で覆い続ける余裕はない。動く瞬間だけ、必要な場所へ集める。
吸収する左手が伸びてくる。身体を横へずらしてかわした直後、久世の右腕が振られた。魔力を両腕へ移して受け止める。
重い。
衝撃で身体が傾いた。久世はその崩れを逃さなかった。オレが右腕を受け止めたまま動けないところへ、もう一度左手を伸ばしてくる。
避けきれない。
指先が手の甲に触れた。そこを境に、オレの身体を覆っていた魔力が久世へ引かれる。脚へ魔力を回そうとしたが、反応が一瞬遅れた。身体の内側から力が抜け、膝が沈みかける。
すぐに腕を振りほどいた。残った魔力を脚へ集めて踏み込み、空いた胴へ蹴りを入れる。久世が後ろへ下がった。オレもすぐに距離を取る。
触れられたのは一瞬だった。それでも、オレを覆っていた魔力は目に見えて薄くなっている。捕まれば、橘と同じ状態になるまで時間はかからない。
「少ないな」
久世が、吸収した魔力を確かめるように左手を開いた。
「その魔力量、C評価か……」
久世はすぐには次の魔法を使わなかった。オレの全身へ視線を走らせ、最後に足元を見る。
「……なら、なおさらおかしい」
「何がだ」
「その術式の速さと魔力制御は、一年生のものじゃない」
久世が初めて、自分から一歩下がった。
「君は何者だ?」
「さっき名乗ったぞ」
「答える気はないということか」
そう言うと、久世の魔力が、再び左右へ分かれる。だが、浮かび上がった二つの術式はオレに向いていなかった。どちらも、オレの斜め後ろへ向けられている。
その先にいるのは、橘と白鷺だ。
正面からオレを捕まえられないと見ると、すぐに狙いを変えた。
オレは二人の前へ戻り、久世との間に結界を張る。二方向から放たれた風のうち、右からの一撃がわずかに先に結界へ突き刺さった。一枚目が砕ける。すぐ後ろへ二枚目を展開した直後、もう一方の風がぶつかった。
視界が揺れた。結界の中央から亀裂が広がり、身体ごと後ろへ押される。片膝が床についた。
魔力の流れは見えている。だが、今度は避ける方向がなかった。オレが退けば、風はそのまま橘と白鷺へ届く。
結界へさらに魔力を流す。広がりかけていた亀裂が止まった。その代わり、身体を覆っていた魔力がさらに薄くなる。
「二人を残して、どこまで避けられるかな」
久世がゆっくりと近づいてくる。
答える余裕はなかった。二枚目の結界にも、新しい亀裂が走っている。背後では、白鷺を守っている橘の結界も輪郭を失いかけていた。
防ぎ続ければ、こちらの魔力が先になくなる。正面から戦い続けて勝てる相手ではない。
久世の身体を見る。部屋へ入ったときには大きく外側へあふれていた魔力が、度重なる攻撃で少しずつ減っている。それでも、久世を覆う魔力はオレよりはるかに厚い。
背後で、小さな音がした。橘の結界に、新しい亀裂が走っている。
こちらにも、待っている時間はない。
同じ動きを繰り返せば、久世はすぐに対応する。なら、一度だけ判断を誤らせるしかない。
次の風が結界へぶつかる直前、オレは結界の向きを斜めに傾けた。正面から受け止めていた風が表面を滑り、橘たちから外れて右側の壁へ逸れる。
結界はその勢いに耐えきれず砕けた。風が側壁を打ち、石の欠片を撒き散らす。オレも衝撃に押され、橘たちの前から数歩だけ左へずれた。
久世がこちらを見る。
「諦めたのか?」
「まさか」
残っている魔力を足元へ流す。大きな魔法を作る余裕はない。必要もなかった。
ひび割れた石床の表面だけを砕く。細かな破片が一斉に跳ね上がった。
土魔法を維持したまま、風の術式を展開する。ほとんど重なるように二つ目の紋様が浮かび上がり、床から吹き上げた風が、砕けた石と砂埃を巻き込んだ。
大量の砂埃が舞い上がり、魔法陣の青白い光を呑み込む。久世の姿が消え、オレの姿も向こうからは見えなくなった。
それでも、オレの視界から久世は消えていなかった。砂埃の向こうに、人の身体を覆う魔力だけが浮かんでいる。他人から奪い、身体からあふれるほど膨らませた魔力のせいで、久世の位置は隠れるどころか、先ほどよりも分かりやすくなっていた。
久世を包む魔力が、その場で止まる。わずかに左右へ揺れたあと、右腕へ集まり始めた。
風で砂埃を吹き飛ばすつもりだ。右腕へ魔力を集めた分、全身を覆う身体強化が薄くなる。
オレは床を蹴った。砂埃の中を、久世へ向かって一直線に走る。
久世の右手に術式が形作られた。オレの足音に反応し、右腕の向きがこちらへ変わる。風が放たれ、空気が唸った。砂埃が一方向へ押し流され、視界が開ける。
だが、そのときには、オレは風の通り道から外れていた。
久世が息を呑む。
すでに、互いに手を伸ばせる距離まで近づいている。それでも、久世の反応は止まらなかった。
吸収する左手を、オレの胸元へ伸ばしてくる。その腕を外側へ払うと、同時に久世の右手へ新しい術式が浮かび上がった。
近すぎる。放たれてからでは避けられない。
術式へ魔力が流れ込む直前、その腕を下から押し上げた。風が天井へ向かって放たれ、轟音とともに頭上の石が砕ける。破片と砂埃が降り注いだ。
久世の身体が揺れる。それでも倒れない。左手が、もう一度こちらへ伸びてくる。
砂埃はすでに晴れている。久世の右腕には、まだ風魔法へ集めた魔力が残っていた。全身を覆っていた身体強化も、元の厚さには戻っていない。
ここから先は、魔力の流れを見る必要もなかった。
目に集めていた分も含め、残っている魔力の大半を全身へ流す。視界に浮かんでいた魔力の光が消え、代わりに身体が一気に軽くなった。
伸びてきた左腕をかわし、久世の懐へ入る。身体強化を乗せた拳を胴へ打ち込んだ。
久世が後ろへよろめく。それでも踏みとどまり、右手を上げようとした。指先に、新たな術式が浮かびかける。
もう一歩踏み込み、術式が完成する前に胸元へ拳を打ち込んだ。浮かびかけていた紋様が崩れる。
久世の膝が折れ、そのまま床へ倒れた。起き上がろうと腕へ力を入れたが、身体は持ち上がらない。やがて、その腕からも力が抜けた。
胸がゆっくりと上下している。気を失っただけらしい。
部屋から音が消えた。天井から落ちる細かな砂と、橘の浅い呼吸だけが聞こえる。
終わった。
振り返ると、橘は白鷺の前に座り込んだまま、倒れた久世を見つめていた。その視線が、ゆっくりとオレへ移る。
「もう大丈夫だ」
返事はすぐにはなかった。橘はもう一度、久世が動かないことを確かめる。それから長く息を吐くと、張り詰めていた肩から力が抜けた。
同時に、白鷺の前に残っていた結界が静かに消える。
「……よかった」
それだけ言って、橘の身体が傾いた。
床へ倒れる前に受け止める。橘はすでに目を閉じていた。久世が倒れるまで、残っていた力だけで意識を繋ぎ止めていたのだろう。
呼びかけても、返事はなかった。その顔に、いつもの笑顔は浮かんでいない。
少なくとも今は、浮かべる必要がなかった。
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