20話 『消えた橘』
放課後、図書室で借りた本を小脇に抱え、寮へ戻ろうと本校舎の廊下を歩いていた。授業を終えた生徒の多くは、すでに教室棟を離れている。中央階段の手前まで来たところで、窓際に立っていた雨宮先生と目が合った。
「あ、桐原君。ちょうどよかった」
「聞かなかったことにしていいですか」
「先生、まだ何も言ってないよ?」
「その言葉のあとに、頼み事以外が続いたことはないので」
オレが足を止めずに通り過ぎようとすると、雨宮先生が進行方向へ一歩ずれた。
「簡単なお願いだから」
「そう言われて、本当に簡単だったこともありません」
「夕ご飯、ご馳走してあげる」
「話を聞きましょう」
「切り替えが早いね」
雨宮先生の話では、白鷺が正門を出たところは誰にも確認されていないらしい。そのため学園内も調べており、北側の森にある結界札に異常がないか確かめるため、橘を向かわせたという。札の手前から状態を見るだけなら危険はないが、白鷺の行方が分からない以上、念のため橘を一人にはしておきたくないらしい。それなら最初から一人で行かせるなよと思ったので聞いてみると、どうやら橘を行かせた後になって心配になったらしい。
雨宮先生自身はこれから、ほかの教師たちと捜索範囲を決める話し合いがある。そこで、オレに橘を追いかけてほしいということだった。
「店はオレが選んでいいんですよね」
「高すぎないところならね」
「条件をあとから付けないでください」
「先生のお財布にも限界はあるの」
「仕方ないですね」
夕食一回で引き受けるには、少し面倒な頼みだった。それでも断る気にならなかったのは、橘を一人で行かせたと聞いたせいだ。本人に言えば余計な顔をされそうなので、絶対に言わないが。
「ありがとう。結界札を確認するだけでいいからね。異常があっても触らない。森にも入らず、すぐに戻ってくること」
「橘にも伝えたんですか」
「もちろん。ただ、出てから少し経ってるから、もう森に着くころだと思う」
「それを先に言ってください」
雨宮先生と別れ、中央階段を下りる。校舎を出ると、寮へ戻る生徒たちが正面の道を歩いていた。オレはその流れから外れ、北側の森へ続く石畳へ向かう。
前方に橘の姿は見えない。追いつくには、のんびり歩いている時間はなさそうだった。小脇に抱えていた本を持ち直し、足を速めた。
北側の森へ着いた頃には、校舎の方から聞こえていた生徒たちの声も遠くなっていた。石畳が途切れた先には、立入禁止と書かれた看板が立っていた。その奥にある大木には、雨宮先生が話していた結界札が貼られている。
だが、橘の姿はなかった。
「橘!」
森へ向かって呼びかける。返事はない。ここまで来る途中ですれ違ってもいない以上、先に学園へ戻ったとは考えにくかった。
結界札へ近づき、状態を確かめる。紙に破れはなく、四隅を留めている金具も外れていない。周囲の幹にも、魔獣に傷つけられたような跡はなかった。
異常はない。
それなのに、大木の手前には足跡が残っていた。足跡は学園指定の女子用の靴と同じ形をしている。石畳を外れ、結界札の横を通って森の奥へ続いていた。ここへ来たはずの橘が見当たらず、森へ続く足跡が一人分だけある。別人だと考えるほうが無理があった。
「何してるんだ、あいつ」
森へ入るなとは、橘も言われているはずだ。オレは小脇に抱えていた本を看板の根元へ置き、足跡の先へ目を向けた。
今から学園へ戻っている間にも、橘は森の奥へ進んでいく。まだ入ってから時間が経っていないなら、追いつける可能性は高い。
オレも結界札の横を通り、その先へ踏み込む。地面には枯れ葉が積もっている。足跡は少し進んだところで途切れたが、その先には踏み倒された草や、折れたばかりの細枝が続いていた。普段ほとんど誰も入らない森だけに、新しい痕跡は見つけやすかった。
道を選んで歩いたわけではないらしい。痕跡は木々の間を縫うように続き、ときおり大きく方向を変えていた。まだ新しい。そう遠くまでは行っていないはずだった。
そのとき、森の奥で何かが弾けた。空気を叩くような音だった。
少し遅れて、枝に止まっていた鳥が一斉に飛び立つ。羽音が頭上を通り過ぎ、すぐに遠ざかっていった。続けて、先ほどよりも低く、重い音が響く。風や枝が折れた音ではない。訓練場で何度も聞いた、魔法が何かへぶつかった音だった。
オレは足元の痕跡から目を離し、音のした方角へ走った。
木々の間を抜けると、黒ずんだ壁が見えた。森の中に、小さな建物がある。屋根は傾き、壁の半分近くが蔦に覆われていた。とうに使われなくなった物置にしか見えない。
それなのに、わずかに開いた扉の奥から、青白い光が漏れていた。
扉の脇へ寄り、中の様子を窺う。人の声は聞こえなかった。だが、奥から漏れる青白い光は、一定ではなく明滅している。
ここまで来て、橘が中にいないと決めつける理由もない。
扉を押し開ける。手前の部屋には、古い棚と積み上げられた木箱しかなかった。青白い光は、正面にある開いた扉から漏れている。その先だけが石造りになっていた。
湿った床板が、靴の下でわずかに沈んだ。足音を殺し、開いた扉の向こうへ出る。
床一面を覆う魔法陣。その中央には黒い魔獣が倒れ、四肢から伸びた鎖が床に散らばっていた。
部屋の奥には二人の女子生徒がいる。一人は白鷺だった。壁にもたれたまま目を閉じ、その前には今にも消えそうな結界が残っている。
もう一人は橘だ。床に座り込み、学生会の久世に手首を掴まれていた。
橘の手首を掴んでいる意味を確かめるため、オレは目へ魔力を集めた。目の奥が、わずかに熱を持つ。
視界に、普段は目に映らない魔力の流れが重なった。掴まれた手首から久世へ向かう細い流れがあった。橘の身体を覆う魔力は、今にも消えそうなほど薄くなっていた。わずかに残った一部は、白鷺の前にある結界へ伸びている。
久世の身体は、それとは反対だった。人の形に収まりきらないほどの魔力が、全身を包んでいる。肩からあふれ、腕の外側で揺らぎ、背後にまで広がっていた。少なくとも、一人分の魔力には見えない。
倒れている魔獣も、白鷺も、身体を覆う魔力は薄い。橘と白鷺、倒れている魔獣から失われたものまで、すべて久世の周囲に重なっているように見えた。
何が目的なのかは分からない。だが、久世の手を橘から離させる必要はあった。
久世が顔を上げる。オレを見た瞬間、その目がわずかに見開かれた。
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