19話 『絶望の先に』
どうして、私の名前を知っているのだろう。
私は久世先輩を知っている。食堂で鷹宮君を止めた姿を見たし、A評価を受けた学生会役員だとも聞いていた。けれど、直接話したことは一度もない。名前を告げた覚えもなかった。
久世先輩が、白鷺さんの手首を掴んでいた左手を離した。右手はまだ、魔獣の首筋に置かれたままだった。支えを失った白鷺さんの手が、力なく床へ落ちる。
名前への疑問は、いったん頭から消えた。
私は奥の扉を押し開け、石造りの部屋へ数歩踏み入れた。古い蝶番が、背後で長く軋む。
「白鷺さん!」
呼びかけても、返事はなかった。白鷺さんへ近づこうとした途端、魔法陣の中央で魔獣が低く唸り、私へ向き直った。四肢の鎖が張り詰める。
白鷺さんへ続く進路に、魔獣が立ちはだかっていた。足を止めるしかなかった。
「白鷺さんに、何をしたんですか」
「少し眠ってもらったよ」
「大丈夫なんですか」
「今のところはね」
安心できる答えではなかった。
「それで、橘さんはどうしてここに?」
質問しているのに、困惑した様子はなかった。入口へ目をやることさえしない。私が逃げられるとは、最初から考えていないようだった。
「その前に、答えてください」
「何を?」
「どうして、私の名前を知っているんですか」
「今年、A評価を受けた新入生の名前と顔は一通り覚えているんだ。学生会にいると、目立つ生徒の話は自然と入ってくるからね」
筋は通っている。それでも、久世先輩の声が食堂で聞いたときと少しも変わらないことが気味悪かった。森の廃屋で、意識のない白鷺さんと魔獣に触れているところを見つかったとは思えないほど、平静だった。
会話を続けながら、魔獣と白鷺さんまでの距離を確かめる。久世先輩が答えている間だけは、こちらも動く機会を探せる。
「白鷺さんをここへ連れてきたのは、あなたですか」
「そうだよ」
隠そうともしない。私をここから帰さないと、もう決めているのだろう。
「でも、白鷺さんは外出届を出していたはずです。学園の外へ出たんじゃないんですか」
「出てはいないよ。僕が学園の外へ出かけようと誘ったんだ。届を書いたのは彼女自身だけどね」
「外へ出る約束をして、それなのに森へ連れてきたんですか」
「学生会の用事で、外へ出る前に一か所だけ寄りたいと言ったんだ。食堂の一件もあったから、彼女は疑わなかったよ」
「この小屋まで、自分で歩いてきたんですか」
「そうだよ。眠ってもらったのは、中へ入ってからだ」
白鷺さんは外出届を出しただけで、門を出ていなかった。彼女が学園の外にいるという前提で捜している限り、この森の小屋が調べられることはない。
「ここは、何なんですか。学園にこんな建物があるなんて、聞いたことがありません」
「僕も詳しくは知らない。ある人から、この場所を教えてもらっただけだ」
「その人は、何者なんですか」
「それは言えないな」
「何のために、白鷺さんをここへ連れてきたんですか」
「実験だよ」
「白鷺さんは、協力しているようには見えません」
「同意は求めていないからね」
「どうして、白鷺さんを選んだんですか」
「都合がよかったからだよ」
「都合?」
「食堂で助けた一件以来、彼女は僕に恩を感じていた。僕が誘えば、断らないと思ったんだ」
白鷺さんを助けたことまで、利用した。
「それだけの理由で?」
「それだけで十分だろう?」
「白鷺さんから離れてください」
久世先輩の視線が、白鷺さんへ向いた。初めてそこにいることを思い出したような目だった。
「それはできないな」
久世先輩は魔獣の首筋から右手を離し、立ち上がった。私と久世先輩の間には、魔獣がいる。
「今すぐ帰って、ここで見たことを誰にも話さないなら、君には何もしない」
柔らかな声だった。けれど、その言葉が嘘であることは分かった。久世先輩は、私を帰すつもりなど最初からない。
「嘘ですね」
久世先輩の目が、わずかに細くなった。笑みは消えなかった。ただ、その奥から私を測るようなものが覗いた。
「そう言い切れるんだ。そっか」
久世先輩が、足元の魔法陣へ手を向けた。青白い線の一部が強く光り、四肢を繋いでいた鎖が、ほとんど同時に床から外れる。硬い音が重なり、石造りの部屋へ響いた。
私は反射的に一歩下がった。自由になった魔獣は、すぐには飛びかかってこなかった。低く唸りながら立ち上がり、こちらへ一歩を踏み出そうとする。四肢から伸びた鎖が、石床の上を滑った。
「待て」
久世先輩が言った。
持ち上げられた前脚が、その姿勢のまま止まる。魔獣は唸り続けている。それでも、一歩も動かない。黒い首輪に刻まれた文字が、淡く光っていた。
「……魔獣が、人の命令を聞いている?」
「便利だろう?」
「その首輪が、魔獣を従わせているんですか」
「そうだよ」
「魔獣に命令を聞かせる魔道具なんて、聞いたことがありません」
魔獣を一時的に拘束する魔道具はある。けれど、命令を理解させ、従わせる魔道具など聞いたことがない。
「僕も、これを受け取るまではそう思っていたよ」
「この場所を教えた人からですか」
「そうだよ。首輪に魔力を流した人間を主人として認識する。もっとも、小型の魔獣にしか使えないけどね」
久世先輩が魔獣へ目を向ける。
「ちょうどいい。人間を相手に、どこまで動けるのかも見ておこう。あの子を押さえろ」
首輪の光が強くなり、魔獣の顔がまっすぐに私へ向いた。
背後には、開いたままの扉がある。下がれば手前の部屋へ逃げられる。けれど、それでは白鷺さんをここへ残すことになる。
床を蹴る音がした。考えるより先に、両手を前へ出していた。空中に紫の紋様が浮かび、その中心から広がった光が、私と魔獣の間に半透明の壁を作る。
魔獣が結界へぶつかった。鈍い音とともに表面が大きく揺れたが、亀裂は入らない。
次の衝撃に備えたものの、魔獣は結界へ前脚をついたまま、苦しそうに身体を震わせていた。小型とはいえ、いまの一撃はあまりに弱い。
――これだけ入れても、この程度か。
先ほどの久世先輩の言葉が浮かんだ。
「この魔獣に、何を入れたんですか」
「魔力だよ」
「誰の……」
久世先輩の視線が、白鷺さんへ向いた。
白鷺さんの手首を掴んでいた左手と、魔獣の首筋へ置かれていた右手。
「まさか、白鷺さんの魔力を?」
「そうだよ」
「なんのために、そんなことを」
「外から魔力を送り込めば、魔獣を強化できるのか確かめたかった」
久世先輩は魔獣を眺め、わずかに眉を寄せた。
「人間の魔力は、魔獣にはうまく馴染まないらしい。量を増やしても、これでは期待したほどの力は出ない」
魔獣が前脚を床へつき、もう一度跳びかかる姿勢を取った。
「回り込め」
久世先輩の声に従い、魔獣が横へ走る。正面の結界を避け、壁際からこちらへ回り込んできた。
声を合図にしているだけではない。命令の意味を理解し、結界の端を探している。
私は正面の結界を消し、右手を横へ払った。魔獣の進路を塞ぐ位置に新しい結界が斜めに広がる。身体を弾かれた魔獣は、そのまま壁際へ流れていった。
四肢についた鎖が床を滑る。魔獣の後ろで揺れる鎖の下へ術式を展開すると、次の瞬間、盛り上がった石床が鎖を呑み込んだ。
鎖が張り詰め、再び飛びかかろうとした魔獣の身体が後ろへ引き戻される。体勢を崩したところへ、横から風を叩き込んだ。魔獣は床を転がり、鎖が硬い音を立てる。
起き上がる様子はなかった。低い唸り声だけが、かすかに続いている。念のため、その身体を二枚の結界で囲った。これで、すぐには動けない。
しかし、息を整える暇はなかった。
久世先輩の前で紋様が光り、鋭く圧縮された風が飛んでくる。正面へ展開した結界が衝撃を受け、視界が一瞬、白く染まった。
結界は持ちこたえたが、身体ごと後ろへ押された。靴底が床を擦り、衝撃が両腕まで伝わってくる。
「小型とはいえ、一人で押さえ込むか」
久世先輩は、白鷺さんを背にして立っていた。
「さすがだね、橘さん」
「褒められても、嬉しくありません」
「そうみたいだ」
今度は、久世先輩の前に二つの術式が並んだ。一つは正面から、もう一つは弧を描いて左から迫ってくる。
正面の攻撃へ二枚を重ね、左から迫る風の前にも結界を展開した。直後、二つの衝撃がほとんど同時に重なった。左側の一枚へ亀裂が走り、痺れが指先まで伝わる。
久世先輩も、魔力量は私と同じA評価だ。だけど、攻撃の精度も、術式を組み上げる速さも向こうが上だった。
結界の正面ではなく、重なりの薄い場所へ正確に魔法を当ててくる。一枚を厚くすれば別の一枚を狙い、張り直そうとすれば、その前に次の術式を完成させる。
攻撃を防ぐことはできる。けれど、私の得意な光魔法は、結界と回復には向いていても、相手を攻める力にはなりにくい。
防いでいるだけでは、白鷺さんへ近づけない。
私は壊れかけた結界を前へ押し出した。久世先輩の視界を塞ぎ、その陰から右手を向け、風を放った。
押し出した結界が砕ける。その向こうで、久世先輩が身体をずらした。風は制服の袖を揺らしただけで、背後の壁へぶつかった。
それでも、久世先輩が白鷺さんの前から離れた。
今なら届く。
白鷺さんへ向かって走る。久世先輩の前に、新たな術式が組み上がるのが見えた。私は白鷺さんの前へ結界を張り、自分の前にも一枚を重ねる。
直後、放たれた風が結界へ突き刺さった。足が床から離れ、身体が横へ流される。
床へ手をつき、すぐに顔を上げた。白鷺さんを覆う結界は残っている。それを確かめた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、わずかに緩んだ。
久世先輩は私ではなく、倒れた魔獣の方へ向かっていた。魔獣を囲う結界へ風を叩きつけ、一枚目に亀裂を入れ、続く一撃で二枚目も砕く。
久世先輩は魔獣の背へ左手を置いた。その手の下に、小さな術式の紋様が現れる。
変化は、すぐに起きた。魔獣の唸り声が途切れ、身体から残っていた力が抜けていく。
久世先輩の姿に、目に見える変化はなかった。それでも、向けられる圧迫感だけが、先ほどまでとは比べものにならないほど強くなっていた。
「魔獣から……魔力を奪ったんですか」
久世先輩が魔獣から左手を離す。答えはなかった。
再び、久世先輩の前に風の術式が浮かぶ。形も複雑さも、先ほどまでと変わらない。
私は三枚の結界を重ねた。
放たれた風が一枚目を砕き、その勢いのまま二枚目も突き破った。三枚目へ亀裂が走り、衝撃が肩から背中へ抜けていく。
術式は同じだ。ただ、威力だけが比べものにならない。
結界を張り直そうとする。間に合わない。
次の衝撃で、残っていた結界がすべて砕けた。私は床へ倒れ、起き上がろうと腕へ力を入れる。その間にも、久世先輩は近づいてきた。
白鷺さんの前に張った結界だけは残っている。消すわけにはいかない。自分の前へ新しい結界を作ろうとしたが、集めた光は術式を形作る前に散った。
「その状態でも、まだ彼女を守るんだね」
久世先輩が私の前で足を止めた。
「随分と優しいじゃないか」
「……あなたに、言われたくありません」
久世先輩が屈み、左手で私の手首を掴んだ。触れられた場所に、先ほど魔獣の背で見たものと同じ、小さな術式の紋様が浮かび上がる。
そこから、自分の魔力が引き出されていった。
「これが……あなたのオリジナル?」
「触れた相手から魔力を奪う。それが僕のオリジナルだ」
もう私には何もできないと思っているのだろう。能力を明かすことをためらう様子すらなかった。
左手で白鷺さんから魔力を奪い、右手から魔獣へ渡していた。魔獣に残っていたものを左手で取り戻し、今度は私からも吸い上げている。
白鷺さんの前に残していた結界が揺れた。輪郭が薄くなるたび、胸の奥が冷えていく。
「離して……」
「少し借りるだけだよ」
嘘だった。久世先輩は止めるつもりがない。
腕を振りほどこうとしても、力が入らなかった。結界の輪郭がさらに薄くなっていく。自分の中の魔力が、遠くへ引き離されていくようだった。考えをまとめようとしても、途中で途切れてしまう。
白鷺さんを守らないと。
そのことだけは分かっているのに、術式の紋様を浮かび上がらせることさえできなかった。周囲の音が遠のいていく。
そのとき、手前の部屋から床板を踏む音がした。
一度。
続けて、もう一度。
久世先輩が顔を上げる。手首を掴む力が、わずかに緩んだ。
私は扉へ顔を向けた。開いた扉の向こうから、一人の男子生徒が入ってくる。魔法陣の青白い光が、その顔を照らした。
「……何で?」
なぜ桐原くんがここに?
私は誰にも行き先を伝えていない。森へ入ったことすら、知っているはずがなかった。
少し前まで、できれば顔を合わせたくないと思っていた相手。私が何年も隠してきたものを、たった数日で見抜いた人。
それなのに、その顔を見た瞬間、喉の奥に詰まっていた息が、ようやく抜けた。
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