18話 『結界の向こう側』
校舎の外へ出ると、傾いた日が石畳を橙色に照らしていた。寮へ戻る生徒たちは正面の道を歩いている。私はその流れから外れ、北側の森へ続く道へ向かった。
歩いているうちに周囲から人の声が消え、訓練場から聞こえていた掛け声も次第に遠ざかっていく。代わりに、風に揺れた枝葉の擦れる音が近くなった。
しばらく進むと、石畳が途切れた。その先には「立入禁止」と書かれた看板が立っている。さらに数歩先の大木には、四隅を金具で留められた結界札が貼られていた。
看板の前からでは、札の細かな状態までは分からない。私は看板の横を通り、結界札の手前まで近づいた。札に破れはなく、四つの金具も外れていない。貼りつけられた幹にも、魔獣に傷つけられたような跡は見当たらなかった。
異常はない。頼まれた確認は、これで終わりだった。
雨宮先生へ報告するため、来た道へ戻ろうとする。そのとき、大木の根元で何かが光った。
結界札の向こう側に、小さな板のようなものが落ちている。金属で縁取られた表面が、木々の隙間から差し込む夕日を反射していた。見覚えがある。学園の学生証だった。
一瞬ためらったあと、私は結界札の横を抜けた。数歩先に落ちていた学生証を拾い、表面についた土を指で払う。記されていた名前を見て、手が止まった。
「白鷺……奈央」
顔写真も、白鷺さん本人のものだった。
どうして、行方不明になっている白鷺さんの学生証が、結界札の向こう側に落ちているのか。嫌な予感がした。
見なかったことにすればいい。
学生証を元の場所へ戻し、結界札に異常はなかったとだけ伝える。白鷺さんがどこにいるのかは、私には関係のないことだ。
誰かのために動いたところで、また昔みたいに都合よく使われるだけだ。そんなことは、もう分かっている。
学生証を地面へ戻そうと手を下ろす。
けれど、指を離すことはできなかった。
写真の中の白鷺さんは、何も知らない顔でこちらを見ている。
顔を上げる。木々の間に人影はない。地面には枯れ葉が積もり、その先がどこまで続いているのかも分からなかった。
「白鷺さん!」
森の奥へ向かって呼びかける。返事はなかった。
まずは学園へ戻るべきだ。雨宮先生に学生証を見せ、白鷺さんが森に入った可能性を伝える。先生たちを連れて捜したほうが、私一人で入るより確実だった。それが正しいことは分かっている。
それでも、来た道へ足を向けられなかった。
白鷺さんが行方不明になったのは昨日だ。この学生証も、昨日ここに落としたものかもしれない。今も近くにいるとは限らないし、すでに別の場所へ移動している可能性だってある。
けれど、もし森の中で動けなくなり、今も助けを待っているのだとしたら。今なら、まだ間に合うのだとしたら。
学園まで戻って事情を説明し、先生たちを連れてくるまでに、どれだけ時間がかかるだろう。どれほど正しい判断をしたところで、戻ってきたときには手遅れになっていたら意味がない。
手の中の学生証を握りしめる。一人で森へ入るのが危険なことも分かっていた。私まで戻れなくなれば、捜す相手を一人増やすだけだ。雨宮先生からも、結界札より先へは入らないように言われている。
ここで引き返す理由なら、いくらでもあった。それでも、あとになって、このすぐ先に白鷺さんがいたと分かったら。あのとき、ほんの少しでも捜していれば助けられたのだと知ったら。私はきっと、ここで戻った自分を許せない。
白鷺さんを助けたいのか。それとも、助けられたかもしれないという後悔を背負いたくないだけなのか。
答えを出せないまま、時間だけが過ぎていく。
もう一度、森の奥へ目を向けた。この森に生息しているのは、小型の魔獣だけだと授業で教わっている。私の魔力量はA評価で、入学してからも魔法の訓練は続けてきた。遭遇しても、逃げるだけならできるはずだ。
少しだけ捜して、何も見つからなければすぐに戻る。
そう言い聞かせながら、自分が森へ入るための理由ばかりを集めていることには気づいていた。
私は学生証を制服のポケットへ入れた。
「白鷺さん! 聞こえたら返事をしてください!」
来た道に背を向け、森の奥へ足を踏み出す。
地面には枯れ葉が厚く積もり、道らしい道はなかった。白鷺さんがどちらへ進んだのかを示す足跡も見当たらない。初めのうちは、振り返れば結界札の白い紙が見えていた。木々の間を覗き込みながら、声の届く範囲を捜していく。
「白鷺さん!」
返事はなかった。
少し先で、枯れ葉が不自然に乱れている場所を見つけた。すぐそばの枝も、何かが通ったように折れている。人が通った跡かもしれない。
近づいてみると、その先にも枯れ葉の途切れた場所があった。
あと少しだけ。あれを確かめたら戻ろう。
痕跡らしきものを追い、木の根や茂みを避けながら進む。そのたびに少しずつ向きが変わり、気づいたときには、結界札が木々の陰に隠れて見えなくなっていた。
それでも、まだ戻れると思っていた。ここまで、それほど歩いてはいない。来た方向へ引き返せば、すぐに結界札へたどり着けるはずだった。
「白鷺さん!」
何度呼びかけても、返事はなかった。痕跡を見失うたびに周囲を捜し、似たような枯れ葉の乱れを見つけては、そちらへ進んだ。
やがて、頭上を覆う枝葉が夕日を遮り、辺りは薄暗くなっていた。さすがに、これ以上は進めない。
足を止め、来た道を振り返る。だが、どの方向から来たのか分からなかった。同じような木々が並び、地面はどこも枯れ葉に覆われている。自分で踏み荒らした跡も、ほかの乱れに紛れ、見分けがつかなかった。
「……どこ、ここ」
声が木々の間へ吸い込まれる。
戻らないと。
焦りを抑えながら周囲を見回す。そのとき、木々の向こうに、森の中にはあるはずのない、まっすぐな輪郭が見えた。太い幹と幹の間に、黒ずんだ壁が覗いている。
枝を押し分けて近づくと、森の中に小さな建物があった。小屋というより、長い間放置された物置のようだった。屋根は一部が沈み、壁には蔦が絡みついている。窓は板で塞がれ、傾いた扉だけがわずかに開いていた。
人が使っているようには見えない。それなのに、扉の隙間からかすかな光が漏れていた。夕日ではない。青白い光が、傾いた扉の下から地面へ細く伸び、ゆっくりと明るさを変えている。
私は足を止め、小屋を見つめた。
風が吹き、頭上で枝葉が揺れる。その音が静まったあと、小屋の中から低い音が聞こえた。硬いものが床を擦ったような音だった。
息を潜めて待ったが、それきり何も聞こえない。森の動物が入り込み、中の何かに触れたのかもしれない。
そう思いかけたところで、同じ音がもう一度響いた。今度は長かった。何か重いものが、ゆっくりと床を引きずられている。
私は扉から目を離さなかった。中に何があるのか分からない以上、近づくべきではない。森を出て、先生に知らせるのが正しい。もっとも、戻る道さえ見失っている今の私が、すぐに誰かを連れてこられるはずもなかった。
「……っ」
短い声が聞こえた。風に紛れそうなほど小さく、息を詰まらせたような声だった。獣の鳴き声には聞こえない。
気づいたときには、私は扉へ向かっていた。
なるべく音を立てないよう慎重に足を運び、わずかに開いた隙間から中を覗く。入口の先は薄暗く、人の姿はなかった。壁際には古びた棚が並び、床にはいくつもの木箱が積まれている。
青白い光は、さらに奥から漏れていた。正面の壁に、もう一つ扉がある。そちらも完全には閉じておらず、細い隙間から光が伸びていた。
先ほどの音は、その向こうから聞こえていた。鎖のようなものが床を擦る音に続いて、低い唸り声が響いた。
肩に力が入った。それでも、扉の向こうから聞こえた声を、聞かなかったことにはできなかった。
私は息を殺し、傾いた扉に触れないよう身体を滑り込ませた。
小屋の中へ入ると、湿った床板が靴の下でわずかに沈んだ。足元を確かめながら、奥の扉へ向かう。物音を立てないよう歩いているのに、衣服が擦れる音も、自分の呼吸も、ひどく大きく聞こえた。
扉の向こうから、低い唸り声が聞こえる。先ほどより、ずっと近い。
私は足を止め、息を整えてから、扉の隙間へ顔を寄せた。
最初に見えたのは、青白く光る線だった。手前の部屋とは違い、奥は石造りになっている。床一面を走る複雑な線が重なり、一つの大きな魔法陣を作っていた。
光はその線の上をゆっくりと巡り、魔法陣全体を脈打たせていた。
中心で、何かが動いた。鎖が石床を擦り、硬い音を立てる。
黒い毛に覆われた、小型の魔獣だった。
四肢を太い鎖で床へ繋がれ、魔法陣の上でもがいている。爪が石床を掻くたびに、青白い光が激しく明滅した。その首には黒い首輪が嵌められ、表面には細かな文字のようなものが刻まれている。
私は反射的に扉の陰へ身を寄せた。鼓動が耳の奥まで響いている。
息を押し殺し、もう一度、隙間から中を覗く。
魔獣の向こう、部屋の奥に人がいた。壁にもたれるようにして、一人の女子生徒が座り込んでいる。俯いた顔は髪に隠れていたが、その金色の髪には見覚えがあった。
白鷺さんだった。
白鷺さんは外出届を出し、学園の外へ出かけたはずだった。少なくとも、私たちはそう聞かされている。それなのに、どうして学園の森にいるのか。
髪の隙間から見える目は閉じられている。肩がかすかに上下していなければ、生きているのかさえ分からなかった。
白鷺さんと魔獣の間に、一人の男子生徒が片膝をついていた。左手で白鷺さんの手首を掴み、右手を魔獣の首筋に当てている。それぞれの手の下で、小さな術式の紋様が明滅していた。
床の魔法陣の光が強くなる。魔獣が身体を震わせ、鎖を張り詰めさせた。男子生徒は驚くこともなく、魔獣に触れたまま、その様子を見つめていた。
「これだけ入れても、この程度か」
静かで、穏やかな声だった。
聞き覚えがある。食堂で鷹宮君を止めた、学生会の先輩だった。
どうして、この人がここにいるのか。食堂で見せていた柔らかな笑顔と、行方不明の白鷺さん、鎖に繋がれた魔獣。その三つが、頭の中でうまく結びつかなかった。
白鷺さんの指先が、かすかに動いた。
「……っ」
唇から弱い息が漏れる。先輩は白鷺さんの顔を見ることもなく、その手首を掴み直した。
何をしているのかは分からない。ただ、白鷺さんが自分の意思でここにいるようには見えなかった。
ここを離れ、まずは森を抜ける道を探すべきだ。相手は三年生で、学生会の役員だ。部屋には魔獣までいる。私一人でどうにかできる状況ではない。
それでも、足を引けなかった。
戻る道が分からないせいだけではない。私がここを離れている間、白鷺さんが無事でいる保証はなかった。
魔獣が不意に鼻先を上げた。何かの臭いを探るように、二度、鼻を鳴らす。その顔が、ゆっくりとこちらへ向いた。
暗がりの中で、二つの目が私を捉える。
背中に冷たいものが走った。
魔獣の変化に気づき、先輩もこちらを見た。
目が合う。
一瞬だけ、先輩の顔からすべての表情が消えた。けれど、次の瞬間には、食堂で見たものと変わらない柔らかな笑みが浮かんでいた。
「誰かと思えば」
先輩は白鷺さんの手首を離さないまま言った。
「橘さんじゃないか」
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