16話 『英雄は一人で帰れない』
「……桐原君のお名前がありますね」
顔を向けると、店の前に橘と二見が立っていた。二人の手には、小さな紙袋が提げられている。二人はまだオレに気づかず、店先に貼られた紙を眺めていた。二見が、書かれている言葉を上から順に読む。
『言葉はいらない』
『一人で戦う』
『これはただの夕食だ』
二人が黙る。
「……何これ」
「桐原君のお言葉みたいですね」
「本当に桐原のことなの?」
「学園一年生とありますし、同姓同名の方という可能性は低いかと」
「言ったのは最後だけだ」
オレはベンチから声をかけた。二人が同時に振り返る。
「桐原?」
二見がこちらへ歩いてきた。
「何してるのよ、そんなところで」
「休んでる」
「見れば分かるわよ。どうして死にかけた顔で休んでるのか聞いてるの」
「腹がいっぱいで苦しい」
二見が店先の紙へ目を向ける。それから、もう一度オレを見た。
「ただの夕食だったんでしょ?」
「タダではあったな」
「そういう意味じゃないわよ」
橘も紙の前を離れ、こちらへやってくる。
「店の記録を更新されたそうですね」
「……ああ」
橘はいつもと同じ笑顔を向けている。あの日のことには、お互い触れない。それだけで、以前と何も変わらずに話せていた。
「まったく嬉しそうではありませんね」
「腹がいっぱいで苦しいからな。今は祝われても腹が立つ」
二見がベンチの前で腕を組む。
「どうして大食いなんてしたのよ」
「たまには学食以外で食べようと思って店に入ったら、完食すれば無料になる定食があった」
「そこで普通の定食を頼めばよかったでしょうが」
「それだと金がかかる」
「学食なら最初から無料でしょ!」
オレは少し考えた。
「……たまには学食以外で食べようと思った」
「最初に戻るな!」
それを聞いていた橘が口を開く。
「学食とは違うものを食べたい。でも、お金は払いたくない。その二つを両立させようとしたんですよね」
「そうなる」
「その結果、動けなくなったと」
橘はいつもの柔らかな笑みを浮かべた。二見が呆れたように息を吐く。
「それで、いつまでここにいるつもり?」
「歩けるようになるまで」
「門限まで、もうそんなに時間ないわよ」
通りにある時計を見る。思っていたより時間が経っていた。
「先に戻ってくれ」
「こんな状態のあんたを置いていったら、あとで私たちが何か言われるでしょうが」
「見なかったことにすればいい」
「もう話しかけたから無理よ」
橘も静かに頷く。
「最後に桐原君を見たのが私たち、ということになりますからね」
「この後死ぬみたいに言うな」
「無事に寮へ戻れば問題ありません」
「戻れそうに見えるか?」
二人がオレを見る。返事はなかった。
「少しは否定してくれ」
二見が持っていた紙袋を橘へ預け、オレへ手を伸ばす。
「ほら、立って」
「もう少し休めば歩ける」
「もう十分休んだでしょ」
二見に腕を引かれ、仕方なく立ち上がる。腹の中身がわずかに動いた。オレは足に力を入れたまま、その場で動きを止める。
「……桐原?」
「今、体の中で飯が動いた」
「胃の中の状況を報告しないで」
橘が反対側へ回り、オレの腕を取って自分の肩に回した。
「私たちが支えます」
「悪いな」
「本当に悪いと思っているなら、自分でも歩いてくださいね」
口調は普段と変わらない。ただ、今はその言葉に混じる棘まで分かる。二見もオレの反対側に立ち、残った腕を自分の肩へ回す。
「行くわよ。せーの」
二人が歩き始める。オレも足を前へ出した。二歩ほど進んだところで、二見がこちらを睨む。
「あんた、全然自分で歩いてないでしょ」
「歩いてる」
「靴が地面を擦ってるだけよ!」
反対側から、橘が穏やかな声で言う。
「桐原君。もう少し二見さん側へ寄っていただけますか?」
「ちょっと、橘さん?」
「私の肩にかかっている重さのほうが多いので」
「私だって重いわよ!」
「二見さんのほうが体力がありますから」
「笑顔で押しつけないで!」
オレは二見のほうへ体を傾ける。
「本当に寄せるな!」
「橘に言われたから……」
「本人の意思はないの!?」
二見には悪いが、橘の笑顔には逆らわない方がいい。
そのままオレたちは商店街を抜け、寮へ続く道を進んだ。門限前ということもあり、人通りは少なくなっていた。道沿いに並ぶ魔力灯が、石畳を淡く照らしている。一歩進むたび、腹へ響く。店にいたときは、完食すればすべて終わると思っていた。食べたあとにも続きがあるとは聞いていない。
寮が近づいてきたところで、女子寮の入口付近に何人かの人影が集まっているのが見えた。寮監らしい女性と教師が二人。その周囲には、部屋着姿の女子生徒も数人立っている。教師の一人が何かを尋ねると、女子生徒が不安そうに首を横に振った。ここからでは声までは聞こえない。それでも、ただの立ち話ではないことくらいは分かった。二見が歩みを緩める。
「何かあったのかな」
「少し慌ただしいですね」
橘も女子寮のほうを見る。二人の足が止まりかけた瞬間、支えを失ったオレの体が沈んだ。
「止まらないでくれ」
二見が慌てて踏ん張る。
「重っ……! 少しくらい自分で立ちなさいよ!」
「……善処する」
二見はオレを支え直しながらも、女子寮のほうを気にしていた。教師は別の女子生徒にも声をかけている。
「確認してきますか?」
橘が尋ねる。二見は女子寮とオレを交互に見た。
「……先にこいつを男子寮まで送るわ。ここで倒れられたら、それどころじゃないし」
「荷物みたいに言うな」
「自分で歩けるようになってから言いなさい」
二人は何度か女子寮のほうを振り返りながら、再び歩き始めた。オレも一度だけ後ろを見る。教師たちはまだ、誰かを捜すように周囲を見回していた。何があったのか分からないまま、オレたちは男子寮の前まで来た。二見と橘が、ほとんど同時にオレの腕を肩から下ろす。
「ここまで来れば、一人で戻れるでしょ」
「部屋まで運んでくれないのか」
「調子に乗らないで」
二見がすぐに切り捨てた。オレは男子寮の入口を見る。ここから自分の部屋までは、廊下と階段が残っている。普段なら何でもない距離だった。
「遠いな」
「すぐそこよ!」
「今のオレには遠い」
二見が呆れた顔をする。
「一人で戦うんでしょ」
橘が小さく笑った。
「無事にお部屋まで戻ってくださいね」
「ああ。助かった」
「明日、動けなくなっていても迎えには来ないからね」
二見が念を押す。
「ああ」
そのまま、二人は女子寮のほうへ戻っていく。オレはその背中を見送ったあと、男子寮の扉へ向き直った。部屋へ戻るまでが夕食だ。
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