15話 『俺の夕食とみんなの揚げ物』
休日の夜。オレは一人で、学園内の商店街を歩いていた。目的は夕食だ。学食へ行けば無料で食べられる。料理の種類も多く、味にも不満はない。ただ、入学してからほとんど毎日、同じ場所で食べている。休日くらいは別の店に入ってもいいだろう。
通りの両側には、衣料品店や雑貨店、書店などが並んでいる。その合間には、飲食店の看板もいくつか見えた。店先の鉄板で、肉と野菜を焼いている店がある。漂ってくる匂いは悪くない。だが、入口の前には三人ほど並んでいた。そこまでして食べたいわけではない。隣の店からは、煮込んだ料理の匂いがしていた。こちらも悪くなさそうだったが、店先の献立を見ると、料理の名前より先に値段が目に入った。
高い。
おそらく普通の値段なのだろう。学食の無料に慣れたせいで、金がかかるというだけで高く見えるようになっていた。たまには学食以外で食べると決めたのは自分だ。今さら戻るつもりはない。できれば、安い店がいい。さらに何軒か通り過ぎたところで、飾り気のない木製の看板が目に入った。
『食事処 麦穂亭』
引き戸の横には、料理の名前を書いた札がいくつも掛けられている。焼き魚定食。肉野菜炒め定食。鶏の煮込み定食。値段は、さっきの店より安かった。これならいい。引き戸を開けると、頭上で小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは、白い前掛けをつけた若い女性だった。
「お一人ですか?」
「はい」
「こちらへどうぞ」
案内されたのは、壁際の二人掛けの席だった。店内は思っていたより広く、奥には数人で囲める大きな卓もある。ほとんどの席が埋まり、制服姿や私服姿の生徒たちが食事をしていた。椅子へ座ると、店員が水と献立を置く。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
オレは水を一口飲み、献立を開いた。表には定食が並んでいる。店先で見たもの以外にも、いくつか種類があった。肉料理と魚料理が一緒になった定食もある。少し高いが、両方食べられるなら悪くない。そう思いながら献立をめくると、裏面の一番上に、大きな枠で囲まれた項目があった。
『超特盛定食』
文字の横には、山のように盛られた米と料理の写真が載っている。その下には、赤い文字で説明が続いていた。
『三十分以内に完食した場合、代金無料』
オレの指が止まった。
「ご注文、お決まりですか?」
いつの間に戻ってきたのか、店員が席の横に立っていた。オレは超特盛定食を指さした。
「これをお願いします」
店員は、オレの指先を確認した。
「超特盛定食ですね」
「はい」
「多いですよ」
「問題ないです」
「ずいぶん自信があるんですね」
「無料になる可能性があるなら、試す価値はあります」
「わかりました」
店員は前掛けのポケットから、一枚の紙を取り出した。
「こちらに、学年とお名前をお願いします」
「注文に名前が必要なんですか?」
「挑戦者の記録に残しますので」
渡された紙へ名前を書く。店員はそれを受け取り、満足そうに頷いた。
「桐原朔也さんですね。三十分以内に完食すれば代金は無料です。現在の店内記録は二十二分四十秒で、これを更新すると、店内にいるお客様全員へ揚げ物一品の無料券をお配りします」
「オレにもですか?」
「桐原さん以外の全員です」
「なら、記録は狙いません」
「即答ですね」
「オレに何の得もないので」
「皆様から感謝されますよ」
「必要ないです」
店員は記入した紙を持ち、厨房へ戻っていった。厨房へ向かう途中、大きな卓の客に呼び止められ、挑戦のことを伝えていた。水を飲みながら料理を待っていると、少し離れた席から小声が聞こえてきた。
「記録を狙うらしいぞ」
「更新したら、俺たちにも無料券が出るんだろ?」
記録を狙うとは一度も言っていない。訂正しようかと思ったが、わざわざ席を立つほどのことでもない。オレの目的は三十分以内に食べ終えることだ。記録を更新しなければ、客たちもすぐに興味を失うだろう。
しばらくして、厨房の奥から先ほどの店員が戻ってきた。手に料理はない。代わりに、小さな鐘を持っていた。
「それは何です?」
「挑戦開始を皆様へお知らせします」
「静かに始めてください」
「挑戦前のお言葉は、それでよろしいですか?」
「必要ありません」
「承知しました」
店員が大きく息を吸った。甲高い鐘の音が、店内に響き渡る。
「皆様、お待たせいたしました! ただいまより、星陵魔法学園一年、桐原朔也さんが超特盛定食へ挑戦します!」
店内から拍手が起こった。
「挑戦前のお言葉は――『言葉などいらない』!」
拍手が大きくなった。
「そういう意味じゃない!」
近くの客から歓声まで上がる。
「格好いいぞ、一年!」
「無料券、頼んだぞ!」
「記録を抜いてくれ!」
厨房の扉が開いた。二人の店員が、両手で大きな盆を運んでくる。中央には、深い器の縁を越えて山のように盛られた米。その周囲を埋めるように、たれの絡んだ肉料理や揚げ物、炒めた野菜が載っていた。料理が近づくにつれ、献立の写真との違いがはっきりしてくる。
大きい。
盆がテーブルへ置かれると、器に遮られて向かい側がほとんど見えなくなった。
「写真より大きくないですか?」
「同じものです」
「写真では、器の向こう側が見えていました」
「撮影する角度を工夫しております」
「小さく見せる方向へ工夫するな」
さらに別の店員が、大きな椀を盆の横へ置いた。
「こちら、味噌汁です」
「これも含まれるんですか?」
「定食ですので」
店員が、残り時間を示す時計をテーブルの端へ置く。改めて、目の前の料理を見る。
多い。
だが、注文したのは自分だ。それに、普段の夕食もおかわりを含めれば似たような量になる。一つの器に集まったせいで、多く見えているだけかもしれない。
「準備はよろしいですか?」
「はい」
店員が鐘を構えた。
「それでは――開始です!」
鐘の音と同時に、時計の針が動き始める。オレは肉料理へ箸を伸ばした。濃い色のたれが絡んだ肉を食べ、続けて米を口へ運ぶ。味は悪くない。見た目には驚いたが、食べ始めてしまえば普通の夕食と変わらなかった。
「速いぞ」
近くの席から声が聞こえた。
「本当にいけるんじゃないか?」
「まだ二分だぞ」
客たちが好き勝手に話している。オレは気にせず、肉と米を交互に食べた。
「桐原さん、まったく速度が落ちません!」
店内が沸いた。
「余裕じゃないか!」
「新記録だ!」
「まだ決まってない」
オレが訂正すると、奥の席にいた男が立ち上がった。
「弱気になるな! 右から攻めろ!」
反対側の客も声を上げる。
「騙されるな! 左からだ!」
「二人で決めてから言ってください」
「俺を信じろ! 佐伯だ!」
「名乗られても知らん」
「佐伯に騙されるな! 川村を信じろ!」
「そっちも知らん!」
なぜオレの夕食中に、知らない男たちの名前だけが増えていくのだろう。
「桐原君、頑張って!」
今度は女子生徒の声だった。制服姿の二人組の一人が、こちらへ手を振っている。
「その調子だよ!」
「ねえ、無料券をもらったら、今度いつ来る?」
「明日でいいんじゃない?」
応援よりも、そのあとの相談のほうがよく聞こえた。
「せめて食べ終わるまでは待ってくれ」
二人は気まずそうに口を閉じた。
開始から十五分。料理は半分近くまで減っていた。腹には、まだ余裕がある。このままなら三十分以内には食べ終わる。オレの夕食代は無料になる。店内記録を更新する必要はない。オレは少し速度を落とした。
「おっと」
店員がすぐに気づいた。
「桐原さんの速度が落ちました」
「どうした!」
「頑張れ!」
「右だ、桐原!」
「左だ!」
「佐伯と川村は黙っててくれ!」
「名前を覚えてくれた!」
「喜ぶところじゃない!」
店員が料理と時計を交互に見る。
「三十分以内の完食は可能です。ただし、このままでは店内記録を更新できません」
客たちの声が止まった。食事をしていた者まで箸を止め、こちらを見ている。オレは構わず、肉を一切れ口へ入れた。佐伯が、恐る恐る尋ねてくる。
「……記録、狙わないのか?」
「最初から狙ってない」
店内にざわめきが広がった。
「じゃあ、俺たちの無料券は?」
「出ないだろうな」
佐伯は、目に見えて肩を落とした。店員が、客たちへ申し訳なさそうに頭を下げる。
「皆様。桐原さんはご自分の夕食代だけを無料にするそうです」
「言い方に悪意がある」
佐伯が、ゆっくりと首を横に振った。
「見損なったぞ、桐原」
「俺の何を知ってたんだよ」
「短い付き合いだったな」
「始まってすらない」
川村も立ち上がる。
「俺たちは、お前ならやってくれると信じていた」
「勝手に信じただけだろ」
「俺たちは、あれだけ応援したんだぞ!」
「頼んでない」
「少しくらい心は動かなかったのか!」
「邪魔だとは思ってた」
「邪魔だったのか!」
「かなり」
客たちの視線がさらに厳しくなる。
「無料券、もらえないの?」
「みたいだね……」
先ほどの二人組が、揃って肩を落とした。
「後輩よ」
今度は、腕を組んでいた男子生徒が立ち上がった。
「自分さえ良ければ、それでいいのか?」
「夕食を食べに来ただけですから」
「一人だけ無料になって、胸が痛まないのか?」
「痛まないですね」
周囲の空気が重々しくなる。このまま速度を抑えて食べ続けても、三十分以内には完食できる。ただし、食べ終わるまで全員から責められ、終わったあとも裏切り者のような目で見送られるだろう。
面倒だった。
時計を見る。店内記録の二十二分四十秒まで、あと五分ほど。料理は半分弱残っている。間に合うかは分からない。だが、あと十数分も説教を聞かされるよりは、五分で終わらせた方がいい。オレは箸を動かす速度を上げた。
「お、おい!」
佐伯が声を上げる。
「速くなったぞ!」
「記録を狙う気になったのか!」
「信じていたぞ、桐原!」
「さっき見損なってただろ!」
「あれはお前を奮い立たせるためだ!」
「今考えただろ!」
「皆様!」
店員が鐘を鳴らす。
「桐原さんが、皆様のために再び立ち上がりました!」
歓声が上がった。
「頑張れ!」
「俺たちの揚げ物を取り戻してくれ!」
「最初からお前らのものじゃない!」
オレは店員へ顔を向ける。
「こいつらを黙らせてくれ」
店員が力強く頷いた。
「皆様、静粛に!」
ようやく話が通じたらしい。店内が静かになる。
「桐原さんは――『一人で戦う』とのことです!」
「うおおおおおお!」
さっきまでより大きな歓声が上がった。
「孤独な戦いだ!」
「俺たちは見守っているぞ!」
「それをやめろと言ったんだ!」
何を言っても応援材料にされる。オレは反論を諦め、その分、食べることに集中した。残り時間が減っていく。腹は一口ごとに重くなっていった。
「記録更新まで、あと三分!」
皿の上には、米と肉が少し。それから野菜炒めが残っている。食べ始める前なら、大した量には見えなかっただろう。
今は違う。
「右からだ!」
「左を信じろ!」
「まだやってたのか、佐伯と川村!」
「最後まで支えるぞ!」
「最初から何も支えてない!」
オレは二人を無視して、目の前の料理を減らしていった。
「記録更新まで、あと一分!」
店内にいた客のほとんどが立ち上がっていた。誰も自分の食事をしていない。全員がオレと時計を交互に見ている。
「記録更新まで、残り三十秒!」
皿の上には、野菜が一口分だけ残っていた。箸でまとめ、口へ入れる。
「記録更新まで、あと十秒!」
「十!」
佐伯が突然、数え始めた。
「九!」
「八!」
客たちまで佐伯に続いた。
「七! 六!」
口の中のものを飲み込む。
「五! 四!」
皿には何も残っていない。
「三! 二!」
オレは口の中に何もないことを店員へ見せた。
「一!」
店員が時計を止める。一瞬、店内が静まり返った。オレは椅子の背へ体を預ける。店員が時計を持ち上げた。
「二十二分三十九秒! 店内記録更新です!」
歓声が上がった。
「やった!」
「新記録だ!」
「よくやった、桐原!」
何人もの客が集まり、肩を叩いてくる。背中へ手を伸ばしてきた川村の腕だけは掴んで止めた。
「背中はやめてくれ。吐きそうだ」
「……すまん」
川村が静かに手を引いた。近くにいた客まで、オレから半歩離れた。
店員が鐘を何度も鳴らす。
「桐原さんが、皆様のために成し遂げました!」
「お前はこの店の英雄だ」
佐伯が口を開く。
「夕食を食べただけだ」
「この量を食べたあとで言うと、重みが違うな!」
何を言っても、都合よく受け取られる。それでも、これだけの人間が自分の成功を喜んでいるのを見ると、悪い気は――
「それでは、無料券をお配りします!」
客たちが一斉にオレから離れた。
「一人一枚か?」
「今日から使えるのか?」
「早くくれ!」
ついさっきまでオレを囲んでいた人間が、全員、店員の持つ券へ群がっていく。オレの周囲だけが、きれいに空いた。
「押さないでください! 全員分あります!」
「二枚くれ!」
「お一人様一枚です!」
「俺は右から食べろと助言した!」
「声援の内容は枚数に影響しません!」
店内は、挑戦中よりも騒がしくなった。誰もオレを見ていない。しばらくすると、佐伯が無料券を手に戻ってきた。
「ありがとな」
「ああ」
「お前のおかげで、次は揚げ物が一品増える」
「よかったな」
「本当に助かった。ええと……」
佐伯がオレの顔を見る。
「二十二分三十九秒」
「それは記録だ」
「右から食べた男」
「名前を忘れただろ」
「覚えてる。確か、星陵魔法学園一年の……」
「桐原だ」
「そう、それだ。よく覚えてるな」
「自分の名前だからな!」
佐伯は満足そうに頷き、席へ戻った。覚えていたのは自分の助言と記録だけらしい。客たちがそれぞれの席へ戻ると、店内には何事もなかったように食事の音が戻ってきた。
……納得いかない。
「お疲れさまでした」
店員がオレのところへ戻ってくる。手には、小さな紙とペンがあった。
「何ですか、それ」
「記録更新者のお名前と、お言葉を店先に掲示します」
「名前だけでいいです」
「せっかくなので、印象的なお言葉も載せましょう」
「別に何も言ってません」
「たくさんおっしゃっていましたよ」
「ほとんどあんたが変えた言葉だろ」
店員はペンを構える。
「まずは『言葉などいらない』」
「挑戦前の言葉が必要ないと言っただけです」
「それから『一人で戦う』」
「客を静かにしてくれと言いました」
「最後に『これはただの夕食だ』」
「それは言ったな」
店員が嬉しそうに頷く。
「では、この三つにします」
「せめて最後だけにしてください」
「細かい部分は、読みやすく整えておきますね」
「最初の二つは、細かい部分どころじゃない!」
店員は紙を持ち、入口へ向かう。追いかけて止めるべきだった。テーブルへ手をつき、立ち上がろうとする。腰が少し浮いた。腹の中身も一緒に動いた。オレはすぐに座り直した。
今は発言の訂正より、立ち上がらずにいる方が重要だった。しばらく休み、代金が無料になったことを確認してから店を出た。外の冷たい空気に触れると、店内にいたときより少しだけ楽になった。ただ、寮まで歩けるほどではない。店から少し離れた場所に、通りへ向けて置かれたベンチがあった。どうにかそこまで歩き、腰を下ろした。背もたれへ体を預ける。もう一歩も動く気になれなかった。
少し休めば歩けるようになるだろう。目を閉じたところで、聞き覚えのある声がした。
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