14話 『夕暮れの素顔』
主人公の一人称を『オレ』に変更。
今までは花田が『オレ』でしたが、こちらを『俺』にしました。
放課後、図書室を出た頃には、窓から差し込む光がすっかり赤くなっていた。今日借りる本を決めるだけのつもりが、棚の前で何冊か読み比べているうちに時間が過ぎていた。図書室へ入る前にはまだ聞こえていた廊下の話し声も、今ではきれいに消えている。
本を小脇に抱え、本校舎の中央階段へ向かう。角を曲がったところで、向こうから男子生徒が歩いてきた。同じ一年生らしく、制服の胸元には一年を示す青い飾り布がついている。男子生徒は俯いたままオレの横を通り過ぎた。足取りが妙に重い。試験結果を受け取ったわけでも、教師に叱られたわけでもなさそうだが、少なくとも機嫌よく寮へ帰る人間の歩き方ではなかった。少し先には橘が立っていた。
「橘も今から帰るのか」
声をかけると、橘は目を見開いてこちらを向いた。オレだと分かると、その口元に笑みが浮かぶ。
「桐原君。まだ学校にいたんですね」
「ああ。図書室にいた」
「そうだったんですか。ちょうどよかったです。桐原君も今から寮へ戻るところですか?」
どのあたりがちょうどよかったのかは分からないが、橘はオレが抱えている本を覗き込んだ。
「今日も推理小説ですか?」
「表紙だけで分かるのか」
「この前も似たような本を読んでいたでしょう? 桐原君は、そういう話が好きなのかと思っていました」
前に何を読んでいたのか、オレ自身はすぐに思い出せなかった。橘は覚えていたらしい。
「橘は?」
「読むなら恋愛小説が多いですね。推理小説も嫌いではありませんが、犯人を考えているうちに、先に答えを読みたくなってしまいます」
「向いてないな」
「最後まで我慢して読むこともあります」
「我慢しないと読めない時点で向いてないだろ」
橘は唇を結び、わずかに頬を膨らませた。けれど、その顔は長く続かなかった。すぐに口元を緩める。
「桐原君は、もう少し言い方を考えたほうがいいと思います。正しいことでも、何でもそのまま言えばいいわけではありませんよ」
「さっきの男子にも、そうやって断ったのか」
「……見てたんですか?」
「見てはいないが、恐らくそうだろうと思った」
橘の眉尻が下がる。それから、男子生徒が去っていった方向へ目を向けた。
「本人がいないところで、私から詳しく話すようなことではありません。桐原君の想像にお任せします」
想像に任されたところで、明るい結末は思い浮かばなかった。先ほどの男子生徒は、後ろ姿だけで結果を説明していた。
「教室では、今日で四回目だと聞いた」
「何が四回目なんでしょうか」
「呼び出された回数」
「どうして私より、周りの人たちのほうが詳しいんでしょうね。数なんか数えても何もないのに」
「五回目で食堂の無料券がもらえるかもしれない」
「食堂は最初から無料です」
「なら、記念品に期待するしかないな」
「期待しません。そもそも五回目が来る前提で話さないでください」
橘は息を吐いたが、口元の笑みは消えなかった。
「桐原君も寮へ戻るんですよね。よければ、途中まで一緒に帰りませんか?」
「構わない」
「では、決まりですね」
橘はオレの隣へ並び、そのまま中央階段へ向かって歩き始めた。本校舎は外から見ても広いが、中へ入るとさらに広く感じる。似たような石壁と回廊がいくつも続いているうえ、棟によって階段の位置まで違う。入学して間もない一年生が迷うことを想定して、壁の各所には案内板が取り付けられていた。その案内板に従って歩けば、中央階段までは問題なくたどり着ける。
問題が起きたのは、その階段に足を乗せてからだった。橘が先に階段を下り、オレもあとに続く。三段ほど進んだところで、足元から石の擦れる音が響いた。階段全体が小さく揺れる。
「何でしょう?」
橘が足を止めた直後、階段が壁から離れた。石造りの階段が宙へ浮かび、踊り場ごとゆっくりと向きを変えていく。橘は小さく声を上げ、すぐ近くの手すりを両手で掴んだ。階段は半周ほど回転すると、先ほどとは別の回廊へつながった。石同士が噛み合う重い音がして、ようやく揺れが収まる。
「この階段、動くんですね……」
橘は手すりを掴んだまま、接続された回廊を見つめていた。
「驚いたか」
「驚いてません。突然のことだったので声が出ただけです」
「一般的には、それを驚いたと言うんじゃないのか」
「桐原君は、こういうときだけ細かいですね」
橘は自分がまだ手すりを握っていることに気づき、何事もなかったように手を離した。こちらを見ないまま、制服の袖を整える。
「今、笑いましたか?」
「笑ってない」
「本当ですか?」
「少し面白いと思っただけだ」
「それを笑ったと言うんです!」
「橘も細かいな」
橘は一度瞬きをした。次の瞬間、口元を手で隠して笑い始める。
「桐原君も、そういうことを言うんですね」
「どういう意味だ」
「こういう話には、付き合ってくれない人だと思っていました」
「会ってから二週間近く経ってるぞ」
「二週間しか、ですよ。だから今、少しずつ分かってきているところです」
橘はまだ笑いを残したまま、先に階段を下りていった。オレもそのあとに続く。階段を下りきる直前、足元がわずかに揺れた。どこかで石の擦れる音が響き、踊り場の脇にある細長い窓から、校舎の屋根が少しずつ下へ沈んでいく。
「……上がってるな」
「下りていたはずなんですけどね」
やがて揺れが止まり、階段は見覚えのない廊下へ接続された。窓が細く、教室らしい扉もない。壁には歴代の学園長らしき人物の肖像画が、古いものから順番に並べられている。窓の外には、先ほどまで見上げていた校舎の屋根があった。
「階段ごと上の階へ運ばれたらしいな」
橘は左右へ続く廊下を見比べた。
「中央広間は校舎の南側にあります。窓の向きから考えると、こちらへ進めば別の階段が見つかるはずです。私についてきてください」
橘が右側を指す。
「自信があるみたいだな」
「もちろんです。こう見えて、方向感覚には自信があります」
そこまで言うなら任せることにした。
十分ほど歩いたところで、歴代学園長の肖像画が再び現れた。橘も肖像画の前で足を止める。
「戻ってきたな」
「……戻ってきたみたいですね」
「方向感覚には自信があるんじゃなかったのか」
「あれからまた階段が動いたせいです! これは私の方向感覚ではなく、学園に問題があります」
橘はそう言い、オレの口元を見る。
「また笑っていますね?口元が動いていますよ」
「口呼吸なんだよ」
「ずいぶん楽しそうな呼吸ですね」
言い終える前に橘の声が揺れ、そのまま笑いがこぼれた。
「珍しいな」
「何がですか?」
「橘がこんなに笑ってるところ、初めて見た」
橘が一度瞬いた。すぐに視線を肖像画へ戻す。
「桐原君が、いつもと違うからです。教室では、もう少し静かでしょう?」
「ほかに話すやつがいるからな」
「なるほど。今日は話し相手が私しかいないから、よく話すんですね」
「そうなるな」
橘は肖像画へ向けていた顔をこちらへ戻した。何も言わず、口元に笑みを浮かべる。
今度は左側の廊下を選ぶ。途中で見つけた階段を下りたが、中央広間には出なかった。代わりにたどり着いたのは、六つの扉が並ぶ円形の部屋だった。橘は部屋の中央に立つと、六つの扉を順番に見回した。
「このまま適当に進むと、本当に戻れなくなりそうですね。今まで通った道を記録しましょう」
鞄から小さな手帳を取り出し、円形の部屋と六つの扉を簡単な図にする。線は迷いなく引かれ、扉の位置まで綺麗に揃っていた。
右から二番目の扉を選び、オレたちは再び歩き始めた。分かれ道へ着くたび、橘は足を止めて手帳へ線を書き加える。途中で階段が動けば、移動した向きまで記録した。最初は整っていた図が、次第に複雑になっていく。線と線が重なり、途中からはどの廊下がどこへ続いているのか、横から見ているオレには分からなくなった。
「橘。それ、まだ合ってるのか?」
「合っています。今いるのがこの廊下で、先ほど通ったのがこちらです。ですから、次の分かれ道を左へ進めば、最初の回廊へ戻れるはずです」
説明の途中で、階段が動いた。橘の手帳に引かれた線とは反対方向へ、廊下ごと接続先が変わっていく。動きが止まる。
橘は手帳へ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
「どうなった?」
「……分からなくなりました」
橘は手帳を閉じた。その横の壁に、小さな案内板が取り付けられていた。
『夕刻は校舎内の魔力循環を調整するため、一部階段および回廊の接続先が一定間隔で変更されます。移動の際は、転路終了まで最寄りの待機所をご利用ください』
案内板の下には、現在が転路中であることを示す赤い光が浮かんでいる。
「一定間隔で、廊下ごと変わるらしいぞ」
「そのようですね」
橘は案内板を読んだあと、手元の手帳を見た。せっかく作った地図は、最初からほとんど意味がなかったことになる。
「何か言いたそうですね」
「いや」
「笑いたいなら、笑ってもいいですよ」
「そこまで命知らずじゃない」
「どういう意味ですか?」
橘の眉が寄る。だが、手元の地図へ目を戻した直後、口元が崩れた。閉じた手帳で顔の下半分を隠す。
「すみません。まさか廊下まで動いていたなんて……」
「気にするな。よくできた地図だった」
「慰められると、余計に恥ずかしくなります」
橘は手帳を鞄へ戻した。
「でも、一人で迷っていたら、もう少し焦っていたと思います。桐原君が一緒でよかったです」
「なんの役にも立ってないぞ」
「いえ、居てくれるだけでいいんです。一人だったら笑う余裕もなかったでしょうから」
橘はオレを見て笑った。そのあとも目を逸らさずにいたが、オレは何も言わず先に歩き出す。
「案内板には待機所を使えと書いてある。探すなら、下より上のほうが分かりやすそうだな」
「そうですね。外が見える場所へ出られれば、今いる棟も分かるかもしれません」
近くにあった階段を上る。今度は途中で動かなかった。最上部には、外へ続いているらしい大きな扉が一つだけあった。
扉を押し開けた途端、冷たい風が廊下へ吹き込んでくる。その先にあったのは屋上ではなく、二つの塔の間をつなぐ広い回廊だった。頭上を覆う屋根はなく、石造りの手すりの向こうには、学園の校舎。さらに遠くには首都の街並みが広がっている。西へ傾いた太陽が、空を赤く染めていた。建物の屋根が夕日を反射し、遠くの山々は濃い影になっている。学園へ来るときに通った大通りも、ここからなら首都まで見渡せた。
「わあ……」
橘は目を見開いていた。すぐに手すりへと駆け寄り、橘は一度こちらを振り返った。
「桐原君も早く来てください。ここからだと、学園が全部見えますよ」
オレが隣まで行くのを待ってから、再び景色を見る。
「あそこが中央広場ですね」
「現在地は分かったな」
「はい。帰り道は分かりませんけど」
橘は自分で言った言葉に、また口元を緩めた。
「迷ってしまったのは困りましたけど、悪いことばかりではありませんね。普通に帰っていたら、こんな場所があることにも気づかなかったと思います」
橘は夕日へ顔を向けたあと、もう一度オレを見る。
「それに、桐原君と一緒でしたから。案外迷って正解だったかもしれません」
橘はそう言って笑った。すぐに夕日のほうへ顔を戻したが、その口元にはしばらく笑みが残っていた。
「そうか」
「……それだけですか?」
橘がこちらを見た。
「ほかに何て返せばいい」
「もう少し何かあるじゃないですか。まあ、桐原君らしいですけど」
橘は小さく笑い、再び夕日のほうへ顔を向けた。
それからしばらく、どちらも話さなかった。首都の上に広がっていた赤い光が少しずつ薄くなっていく。風が吹くたび、回廊の下にある木々が大きく揺れた。周囲には誰もいない。
前から気になっていたことを聞くなら、今しかないだろう。
「なあ、橘」
「はい?」
「どうして、そこまで自分を取り繕ってるんだ?」
橘はきょとんとしていた。だが、言葉の意味を理解したのか、その目がわずかに見開かれる。口元にはまだ笑みが残っていたが、返事はすぐには出てこなかった。
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
「それでは分かりません。私が、いつ、誰に対して取り繕っているというんですか?」
声も、言葉遣いも変わらない。
「無理してないなら、それでいい。今のは忘れてくれ」
オレは橘から視線を外し、手すりの向こうへ顔を向けた。
「待ってください」
「何だ」
「それで終わりですか?」
「ああ」
「勝手にあんなことを言っておいて、何も説明しないんですか?」
「説明できるほど、はっきりした理由じゃない。オレの勘違いなら悪かった」
橘は納得した様子を見せなかった。オレを見たまま、しばらく動かない。その体内で、魔力がわずかに動く。
「もう一度聞かせてください。桐原君は、私が取り繕ってると思っているんですか?」
「ああ」
短く答える。橘の口元から笑みが消えた。
「……いつから気づいてたの?」
敬語も消えていた。
「前から違和感はあった。確信したのは今日だ」
橘はしばらくオレの顔を見つめていた。やがて、小さく息を吐く。
「人の顔ばかり見て、いちいち何を考えてるのか探ってたんだ。気持ち悪い」
声の大きさは変わっていない。それでも、先ほどまでの柔らかさは残っていなかった。橘は手すりへ背中を預け、腕を組んだ。
「さっき告白してきた人もそう。少し笑って話を聞いただけで、勝手に期待して。本当に面倒」
「本人にもそう言ったのか」
「言うわけないでしょ。わざわざ言って、私に何の得があるの?」
「随分な考え方だな」
「笑って話を聞けば、みんな勝手に優しい人だと思ってくれる。好かれていたほうが、何かと楽なの」
橘は薄く笑ったが、目元は動かなかった。
「想像してたより性格が悪いな」
「勝手に期待して、勝手に幻滅したの?」
「……うん」
オレは小さく頷く。
「あんたの、そうやってすぐふざけるところ、前から気に入らない。それで、本当に期待してたの?」
「正直、大して期待してない」
「……そう。なら、よかった」
言葉とは違い、橘の眉間には皺が寄っていた。
「それで、どうしてそこまでして自分を取り繕うんだ」
「話す必要ある?」
橘の目が、わずかに細められる。
「あんたに本当のことを話しても、私には何の得もないでしょ。聞かれたくないことまで勝手に聞かないで」
それ以上を聞いても、答えるつもりはないらしい。
「このこと、誰かに話すつもり?」
「……うん」
「……」
橘は呆れたように息を吐くと、オレを睨んだ。
「もし誰かに話しても、私は全部否定するから。桐原君と私のどっちが信じてもらえるかは、分かるよね?」
「オレが言ったところで誰も信じないだろうな」
自分で言っていて少し悲しくなった。
「安心しろ。元より誰にも話すつもりはない」
橘はしばらくオレの顔を見ていた。オレの真意を量っているのだろうか。だが生憎と表情で心を読まれるようなへまはしない。橘の中で納得いく答えがでたのか、やがて視線を外した。
「なら最初からそう言って」
そのとき、背後から石の擦れる音が聞こえた。振り返ると、回廊から離れていた階段がゆっくりと戻ってくる。やがて石同士が噛み合い、元の場所へ固定された。
「戻れるみたいだな」
橘は階段の前まで進む。そこで一度、制服の襟元と髪を整えた。振り返ったときには、口元に柔らかな笑みが浮かんでいた。
「また明日から、よろしくお願いしますね。桐原くん」
笑顔だけではない。声も言葉遣いも、普段の橘に戻っていた。明日になれば、橘はまた教室でいつも通り振る舞う。オレにも、何も知らないふりをして、今までどおり接しろ。そういう意味だろう。
橘はそのまま階段を下りていった。曲がり角で姿が見えなくなるまで、オレはその後ろ姿を眺めていた。
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