9-3
「れんおねえさんっ」
今日も来たよっ、と彼女の愛娘は、蓮はそれから毎日鐘の塔に来るようになっていた。いつも嬉しそうに甘いお菓子と温かいタオルを持って。
彼女は名前を渡したのだから、名前なんてない。だから自らを『れん』と名乗ることにした。彼女は……れんは、蓮がくることをそれはそれは毎日毎日楽しみにしていた。オカリナを吹きながら、毎日毎日昼を告げる鐘がなるのと同時に、気づかないように誰にも聴こえないように吹いているのに、蓮はその音を聴き落としたりすることはなかった。
蓮には、己が母であることは黙っておくことにした。今さら名乗れないし、名乗る権利はれんにはなかった。蓮のことを考えて考えてのことだったが、捨てたのには変わりはない。手離したのには変わりはない。
新しく生まれてしまった欲は『どうか少しでも長く』と言う願いだった。
どういうわけだか、蓮は何故か自分にすごくよくなついてくれて、笑顔をよく見せてくれたし、泣き顔だって見せてくれた。甘えてもくれたことがとてもとても嬉しくて、環境があれば、はじめから考えること、興味関心を持っていれば一緒に暮らせていて、毎日毎日、時間の間を置いたり『待ち遠しい』と言う感情を抱かなくても良かったのにとすら思うようになってしまった。そんなことを思う資格なんてないのにも関わらず。
「あー……今日もまた汚れてるー……。もーっ、はいっ!背中向いてっ。拭いてあげるからっ」
「……ふふっ……また今日も蓮ちゃんに怒られちゃった」
ぷーっと“愛”らしく頬を膨らませては毎日毎日背を拭いてくれる。きれいにしてあげるって。そう言って拭いてくれる蓮にれんは込み上げてくる嬉しさを声に出して表現せずにはいられなかった。…………本当ならば『母親』である自分がしたかった、するべきことをどうやら世話焼きに育ったらしい蓮にしてもらえることがくすぐったくて大切だった。れんは、自分がしてあげられることはなんだろうかと考えるようになった。蓮からは与えられてばかりだ。色んなことをれんに贈ってくれる。
なのに“哀”しいことに、蓮はどうやら紫暗色の彼や兄と慕っているらしい蝶々の少年以外に心は開けてはいないようだ。ぽつりと呟いて話してくれた愛娘の、蓮の心に触れられたことに無上の喜びと罪悪感を改めてひしひしと感じた。それに相まって昔の自分を重ねてしまう。これではいけない。このままでは、蓮はいつかの自分のようになってしまう。危機感を覚えると言うのはこのことなのか、とれんはぼんやり感じてどうにかしなければいけないと、何が出きるだろうと強く考えるようになった。
それで“四枚目”
「……これ、蓮ちゃんが作ってくれたの?」
冬が大嫌いで他人が大嫌いで。その原因を作ったれんに、蓮がブランケットを作ってくれた。白い白いブランケット。こんなにも“穢”れているれんに蓮はまさかの真っ白いブランケットをくれた。嬉しさの前には出来映えなんてどうでもよかった。
蓮は不格好だととても気にしていたが、そんなことはない。全くない。誰がどう言っても、何を言っても評価を低く持ってきたとしてもそんなことは全く関係なかった。れんにとってはこれ以上に立派なものはなく、これほど輝いて見えるものはない。
自分のためにと一生懸命作ってくれたものに心の芯が震えて、慣れないものにまっすぐ立ち向かいながら作ってくれたのだろうと、その姿が簡単に想像できて涙が流れそうになった。雛の孵る姿、懸命に鳴く姿、不器用にはねを広げようとしている姿に感動を覚えないものはいないはず。少なくとも“親”である彼女には感動しない対象にはならない。
「……ありがとう。……大切にするね」
これで“五枚目”
巨大な嬉しさと熱を押し付けられるような痛みがれんを襲いはじめた。これまで翼を生やさないように、表に出さないようにと常に常に意識していたが……そろそろ限界かもしれない。れんははじめてそう思った。思ったけれど、それに激しく強く首を横に振る。
どうか、どうかまだ。
まだ、どうかこの子と一緒にいられる時間をと。欲にも近いその願いだけがれんの暴走を抑え込んでいた。まだ、まだれんは何もしていない。蓮に対してれんはまだ何もしていない。せめてなにかひとつでも蓮に与えることができたら、それが出来たなら……どうかそれが叶ったなられんは喜んで自ら『散る』ことが出来るだろう。自分で翼を『散らす』ことが出来るのにと。れんは強く考えた。考えて考えて、考えても今のれんには何も思い浮かばなかった。
夕方になり、一緒にいられるわずかで“愛”しい時間が過ぎて、蓮が帰ってしまってからもひとりでれんは蓮のことばかりを考えていた。
恐らく紫暗色の彼が作ってくれたのだろうおやつをくれる我が子。二つだけしか持ってきていないのに、そのうちのひとつを必ずれんにくれる。育ち盛りだろうに、ひとりでふたつ食べれば良いのに「はい」と必ずひとつを差し出してれんと一緒に食べる。そのときの笑顔がまた可愛らしくて、時々甘えてきているのだろう、ぺたっとれんの肩に頭を置いては照れくさそうに「えへへ」と頬を赤らめて満面の笑顔を蓮にくれる。
甘えてくれることが嬉しい。
笑ってくれることが嬉しい。
約束なんてしていないのに、毎日毎日必ず同じ時間に訪れてくれて、少しでも遅れると必ず謝ってくる。謝る必要なんてひとつもないと言うのに。
夜になっても、昼と変わらずに暗雲は暗雲のままだ。今ごろ蓮は何をしているのだろう。きちんと眠りについただろうか。
もしも手先の器用さがれんに似てしまっているのなら、残念ながら蓮はお世辞にも器用とは言えない子だろう。そんな子が出逢って数日でれんをくるめるほどのブランケットを作るのはさぞ大変だったろう。
きっと夜遅くまで頑張ってくれたに違いない。……自分のために時間を割いてくれなくてもいいから、夜はどうかしっかり休んで健やかに健やかに育っていってほしい。
愛娘からもらったブランケットを顔を埋め、頬擦りをしながら夜を過ごしたれんは、その日から夜は寒いものではなくなった。
そうしてまた想いはしんしんしんしんと募っていき、しあわせに溢れていく反面、激流のように襲ってくる悪魔としての衝動に抗う時間が強まっていった。
ある日、また蓮は与えてくれた。
お出掛けしようよと。恐らく蓮の兄のスーツを盗…………黙って借りてきたのだろうそれを持って少し緊張した面持ちでそう提案してきた。れん自身衣服についてはどうも思わなかったが、スーツを持ってきてくれたのは恐らく蓮の女の子としての配慮であることはすぐにわかった。蓮がうんうんと悩みながら、れんが鐘の塔の最奥から出るときに不快を感じさせないように色々と悩んで考えてくれたのだろう。その心遣いにくすりと笑みが溢れた。
きっとこれは育て親の影響なのだろう。優しい女の子に育ってくれて、育ててくれていることにれんは心からの感謝を想うことで捧げた。それしか感謝を伝えることができなかった。
あの紫暗色の彼のこと。きっと蓮が毎日出掛けている理由を知っているに違いない。あれだけ感受性が強く、そして悪魔を感じると言う能力を持っているのだから、れんの存在に気づいていない訳がない。
時間を与えてくれているのだろう。親だとは名乗れなくとも、蓮を甘やかすことのできる時間をくれているのだれう。そこに至れるほどの考える力はれんをだって持てるようになっていた。
嫌かと問われたから、首を横に振った。他でもない蓮からの誘いなのだから断る理由は見当たらない。れんが今までこの最奥から出なかった理由はただひとつ。
外を歩く“親子”を見るのがとても辛かったから。




