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Dear  作者: 雨神
片翼だった蝶。
54/62

8-7


 つまりは記憶を奥底に沈めてしまってしまう能力であるのだが……この能力を優が好ましく思っていないことは知っている。能力を使う律自身だってあまり好ましく思っているわけではない。


「……でもなぁ……」


 だれもが眠りに沈んでいるのを良いことに、柄ではない一人言を呟く律は優一人を抱えてまた屋根のあるところへと降ろす。ただでさえ心身に負担がかかっていて弱っていると言うのに、雨に打たれて高熱でも出されたらたまったものじゃない。


 強い雨が少しずつ弱まってきた。時期に雨は止むだろう。自然に、自然に。……律が能力を使ってほぼ強制的に静まらせた騒ぎとは違って。


 これをもう……幾度繰り返したことだろう。悪魔の存在が知られてしまった度に何度も何度もこの能力を使って町の住人たちの中から悪魔に関する記憶を封じてきたのは。


 だれかの記憶を弄るのは、意図的に封じてしまうのはよくないことだとわかってはいる。その時に得た感情や経験、良しにしろ悪しにしろ奪ってしまうのだから。


 言い訳にならないことなんて、わかっている。けれども毎回毎回この様だ。これ以外の反応と結果を見たことがない。


 人間は、弱い生き者だから。


 知らないことに恐怖を覚えて理解の前に追い払おうと躍起になる。悪魔に対してのこの光景や台詞を何度見てきたことだろう。


 かつて悪魔だったことのある律から見ればとてもとても淋しいものにしか映らない。理解されたがりなのが人間だ。それがいきなり姿形が変わったからと簡単に、あっさりと今の今まで握っていた手を弾かれた時の大きな孤独を知らないから、それが出来る。


 理解の前に拒絶するのがこの世界だ。抗いようもない。


 だからこその律のこの能力であり、積み上げていく罪悪感を優が背負っていってしまう。


 律自身は、それに対して良くないとは思っていても、力を行使したことに対して……その対象であるこの町の住人たちに対しての罪悪感なんて一切感じてはいない。律が罪悪感を感じるのは優にだけだ。


 建前。礼儀。一応。その類いのもので律は能力を使う前に優にだけは耳を塞ぐように言ってはみるが、実際は優が耳を塞がないことは予めわかっていること。


 聞くのと実際に見て体験したのとでは全く違う。厚みも重みも全く違う。


 町の住人たちが記憶をなくしてしまうのなら、自分も一緒にと……自分だけ逃れるわけには行かないのだと……そう言っては律が能力を発揮するために“謡う”時には敢えて耳を塞がない。


 それは律にとってはとても好都合だった。いつか蓮に話したように、律の世界は紛れもなく、絶対的に優であり、優が少しでも抱える負担を減らせるのならそれに越したことはないのだから。


 悪魔と化した者しか知らない、感情がある。


 優は知識として知っている上であり、体感として知っているわけだから、律ほど理解しているわけじゃない。


 だからはっきりと言える。律は、蓮ほどの優しさを持ち合わせてなんかいない。蓮みたいにれんや優のように優しさから他人を遠ざけているわけではない。


 律は優に少しでも近づきたくて、少しでも彼のようになれたらと町の住人たちと接してきて、顔も名前も覚えた。  


 だけれど、心の芯までは真似できなくて、似せたくても似ることはできなくて、どうしても彼らのような意思だけは持てなかった。持つことは出来ない。


 いずれ『散らして』しまう相手だから関わりを持たないと言う感情は裏返して突き詰めてしまえばただの優しさ思いやりに他ならない。


 仲良しこよしをしたところで結局自分の命を『散らせる』のが信じられていたかもしれない自分達だったなら……もしかしたら悪魔と化した相手側は信じていた自分たちに裏切られたと受け取ってしまうかもしれない。そうなってしまえば、そう受け取らせてしまったら、相手が更に深く傷つき悲しんでしまう。優や蓮や……悪魔と化してしまったが、れんにはそう言う根があった。  


 対して自分には、律と言う生き者の根底にはそれがない。悪魔は、悪魔と化してしまうものは基本的に強く強く何かに執着を持っている。計り知れないほどの強い強い執着が。


 だからこその欠片渡しの成り立ちであり、その執着対象が悪魔の翼によって壊されてしまう前に、律たちは動き、『散っていってしまった』悪魔たちが声で抑えて時間を稼ごうとしている。危害が向かないように。それでも何度かは……間に合わないこともあった。  


 殆どの悪魔は執着対象をなくしてしまった後、それがあったことを形にして残っているものを壊すために翼を広げている。蓮が単独で『散らした』桜色の翼を持つ悪魔も、もしかしたら今のれんのように鐘の塔を破壊していたかもしれない。たまたまの偶然で蓮が間に合い『散らした』だけに過ぎない例だ。


 ともかく、悪魔は執着する。大事なものに。譲れないものに。故の“あい”が生まれて溢れて、こう言う事態になってしまう。


 律は正直なところ、優を雨に濡れないところへ連れたが、眠らせた町の住人その他大勢たちが倒れて雨にうたれている様子を見ても、優のように濡れないところへ連れなければ、と言う意思はまったく生まれては来なかった。運ぶ気なんて更々ない。


 きっと彼らは優よりも早く目覚めるだろうし、その時に白々しく心配をしていたと装える自信は充分律にはある。何度もしてきたことなのだから。


 一度は悪魔と化したこの身が今執着しているのは優と言う存在で、何を置いても優を守りきることが律の何よりも優先されること。第一だ。


 それは名前を与えられた日から今日まで移ろうことも変わることもない。これからだって変わらない。変える気はない。


 優は、己の生き方を蓮や律に自慢できるようなものではないと、非難されてもまったく不思議はないと思っているようだが、逆にどうして非難できようかと律は問いたくなる。


 彼以外に彼の担っているものを背負えるものはいないだろうし、きっと彼でなければ律はあの時自ら翼を『散らす』と言う結論に至っていただろうと、間違いなくそうなっていただろうと確信している。


 ただ、少しの変化があった。変わったと言うよりも増えたと言うべきだろう。


 蓮を預かり、蓮は優の中で大切な家族となり、大切な愛娘と言う存在になった。


「……お祈りだけ」


 しておきますね、と抱えていた頭をそうっと地面に置き、律は胸の前で両手を組み、瞳を閉じて光を強めた。催眠術の一種であるこの光を蓮の元へと飛ばすことは出来ないが、せめて。


 せめて、真実を蓮に伝えたときに優が握っていたように、蓮に伝えなければと。


 帰ってくる場所は確かにここにあるのだと。

 家族は、ここにもいると。


 優を通して蓮が可愛い妹だとは思えるようになった。大切なひとの大切な子は律にとっても大切になる。


 失えば優はきっと生涯、今以上に優自身を責め続けてしまう。そんなことは火を見るよりも明らか。


 しかしそれ以上に走っていった妹と、妹が執心していた者の末路、結末がわかっている分、優の代わりに優の分まで律が祈って伝えなければならない。


 どうか風が吹きませんように。どうかこの光が蓮とれんの傍らに行きませんように。


 どうかまだ、夜が明けませんように。どうかこの光が妹の帰り道へとなりますように。


 強く強くそう祈り、祈りを強めると同時に律の背にある蝶々のような羽が光を増した。


 夜空に浮かぶ流れ星のような、刹那的に切ない光。


「…………蓮、」


 そうして空も大地も水も透かしてきれいに魅せる蝶々の少年は、ただ一言。


「……頑張れ……」


 たった一言、音としては届かない言葉を同じ雨の下にいる妹へと捧げた。



 


 


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