8-1
蓮が、引かれている相手が母親だと言うことを優が早くから知っていたことを律が知ったのは優が悟ってから少しあとだった。
ぬ
嬉しそうに、得意気に「あのね、このおはなし知ってる?」と得意気に話した蓮を見て、律は確信を得た。
「……俺が話そうと思っていたのに……」
「ははは……こう言うのは保護者である優さんのお仕事なの」
律の仕事じゃあない。そう言ってありがとうとつぶやき、保護者がふらりと立ち上がる。
この雨の中を走っていった妹。その方向を見ながら優が目を細める。
それはこの世界に数多存在する“あい”の内の“愛”と“哀”だった。きっともう一度話しがしたかった“逢”の気持ちもあるのだろうけど、その機会はもう優にはない。
ここまで、こんなに体力がすり減り不調の極みである優が無傷で帰ってこれたのは……蓮にれんと名乗った彼女が耐えていたからだ。
悪魔には自我がないわけではない。それは“体験したことのある”律が一番よく知っている。
鐘の塔が翼によって折られ、崩された。優の紫暗色の瞳が痛々しさに、やるせなさに、己の無力さにまた傷ついているのだろう。優は、救いようのないくらいにお人好しだから。
優の能力では悪魔をその手で『散らす』ことが出来ない。優の能力では悪魔を前にすると己自身を守ることも逃がすことも出来ないくらいに体が弱ってしまう。その一心に抱えきれないほどの悪魔たちのこころを受け入れて、それは体を壊してしまうほどに優に重たく重たくのし掛かってくる。
それでも優は自分にできる限りのことを必死にしようとする。……彼は知らないだろうが、悪魔と化した者は、『散ってしまった』悪魔から話を聞く。
とても優しい子が、助けてくれると。
自分もその声を聞いたことがあるのだから、間違いはない。確信をもって言える。
普段はだれも近づかないとは言え、町の中心にある鐘の塔が大地が震えるほどにまで大きな音を立てて崩れたのだ。ここの住民たちが出てこないわけがない。
ひっそりと端の方に住む者たちがざわざわと騒ぎながら出てきた。雨にも関わらずに。
ここからでも見える大きな大きな翼。それは苦しみから逃れるかのように、何度も何度も執拗に崩れた鐘の塔を叩き壊そうと羽ばたいていた。
大きく大きく、まるでそれは乱暴に描かれた絵の具のようにも見える。だからこその美しさだと律は思いながらふらふらと頼りなく弱々しく歩く優の後ろ姿を、律はゆっくりゆっくりと見失わないように追う。
「何……っ!?何、あれ……?」
歩きながら聞こえてくる、混乱と恐怖と悪意の興味心。
だれもが口々に同じ言葉を口にしている。それを横切る優は何を思うだろう。あの塔へと走って向かっている蓮は何を感じているのだろう。
そう思うと、やめてほしいと言う願いばかりが律を占める。怖がるのもわからないからこその鋭利な言葉たちも仕方がないのだとはわかっている。
しかし、それでも。この悪魔と言う存在が『わからない』のだと言う現状を作り出したのが律であるのたけれど、やめてほしい。口に出さないでほしい。
泣きたいのを耐えている大事なひとが目の前にいる。
悪魔の正体を知ってしまった可愛い妹が間違いなく塔に向かいながら泣いている妹がいる。
だから、何も言わないで。
人混みを抜ける優の後ろ姿。……はじめて出逢ったのは優が今の律くらいの年だった。
笑顔だったのに、彼は泣いていた。そうして手を伸ばされた。
どこかで『散って』しまった悪魔たちは、悪魔と化した者へと伝え続ける。それが律の中での救いだった。
「だれか……!だれかっ!あそこにいる化け物を殺しにいってくれよっ!」
「殺しに……?……ああっ!ああっ!そうだ!」
殺しにいけばいいっ!殺してしまえばっ!
やがて出てくるだろうと予想していた言葉は燃え広がる炎のように、風に吹かれてその勢いをあっさりと広げて強める。
伝って渡る言葉の火の粉は最前で見ている発案者から確実に燃え広がって、町全体に広がっていく。
優は、保護者は歩みを止めたりはしない。ふらふらしながらも、息を苦しそうに繰り返しながらも、最前へ向かって歩いていく。
この優しすぎる保護者が次に何をするかはわかっていた。わかっている。
無力でもなんでも、全力を尽くすのだろう。
信愛をもらった彼女のために。
愛娘として愛してきた少女のために。
優が最前にたどりついた。
ぜぇ……と息を切らしながらもその両腕をゆったりとあげて、立ち塞がる。
次に言う言葉と、いつかの記憶が重なった。
「……待って、ください…」
『待って』
幼い頃と今の記憶が重なる。
ああ、あの時もこのひとは自分の前に立ったのだと思い出して、懐かしくもなり、恋しくもなった。
懐かしさに、恋しくなる。
どこまでもどこまでも優しいこのひとは、どこまでもどこまでも自分を傷つけてしまう。
ざわり、と一陣の異色の風に町全体がざわついた。何をいっているんだと。何故止めようとするのだと。
雨の中の対立が冬そのものであり、幸いにも雨のお陰で舞ってくるはずの砂塵は然程飛んでは来なかった。
弱々しい、本来なら倒れていてもおかしくはない優の傍に律は立つ。……月並みな台詞ではあるが、世界中全てが優の敵になってしまったって、少なくとも絶対的に律は優の味方であり続けられるのだと、律は生死を賭けられたとしても当たり前のようにそう断言できる。自信があるとかそう言うのではない。間違いなく断言できる。する。
「優さん……?何を言ってるんだあんたはっ!言っている意味がわかっているのかっ!」
「あそこにいる得たいの知れない化け物を殺さない限り……私たちだって殺されてしまうのかもしれないのよっ!?それをわかって」
「あそこにいるのはっ!」
音にするならばだんっ!と叩きつけるような遮り方だった。優はその温厚な性格から威圧的な物言いなどは決してすることはないのに。
どこまでもどこまでも無謀でまっすぐできれいな保護者だ。命を軽んじたりなど決してしない。
律はただ傍に立ち、場にそぐわないのだけれどどうしても微笑んでしまう己の心には逆らえなかった。
「あそこにいるのは……紛れもない“心”なんですよ……!」
その言葉を口にしてくれるのだから。
いとも簡単に。本当に簡単に。




