7-4
がたがたと震えが止まらない中で激しい音がした。どおおぉんっ、とあり得ないような、大きな音が。
驚きと磨り減った精神に肩を跳ねあげて、音が生まれた場所をばっ、と向いた。
崩壊するような音に加えて、倒れた音。それをまだ、尚も叩き続けている音は……誰も近寄らない町の中央、昼を告げる音を出す鐘の塔だった。
ここしばらくずっとずっと通っていた塔。大切な場所。毎日の楽しみをくれて、たくさんの不思議を与えて、考えたことのない悩みを蓮の中へ生んだ場所。
「……蓮。蓮、よく聞いて?」
きっと、今の自分は驚くくらいにひどい顔をしているに違いない。優の表情がいつもより更に更に柔らかいものになっていて、蓮を落ち着けようとしていた。
落ち着かせることができなくても、それでもこれだけは、と何かを伝えようとしている。
悔しかったな、と優は先ほどそう言っていた。何が悔しいのかわからなかった。
そしてその答えを、
「蓮。良いかい?彼女はーーーーーー」
蓮は、今知った。
「なんだなんだっ!何が起こった!?」
蓮は走る。
「鐘の塔が崩れたぞ……!?なんだ……?」
なんだあれ!?と流石の轟音に起きてきたものたちの中をただただひたすらに走り続ける。泣きながら。涙を止めどなく溢れさせながら。
傘をさしながら騒ぐものや我が子を抱き締めて正体のわからないものから守ろうとしている者。
それが視界の端に入って、蓮に嗚咽を叫ばせた。
「っ、あ……!」
しかしそれはこの大騒ぎの中には呆気なく消えてしまう。何百人もの悲鳴の中には蓮の嗚咽を聞き受けるものなんていなかった。誰もが自分の家族が大事で大切だ。ーーーーーそんなのはとてもとても、どうしようもなく当たり前のことだった。
誰もが、家族を守るために働いて、家族のために、だれかとの繋がりを作り、家族を守るために……そこにいるのだ。
「あ……ふ、ぅ……ぅあああっ…………!」
そんな家族を思うことは至極当然で、当たり前のことで、そんなことにすら気づけなかった。考えたことすらなかった。
目的地ははっきりしているのに、騒ぎに出てきた人間の中を走るから思うように進めない。何度も何度もだれかにぶつかってぶつかって。躓いた。
転びそうになりながらも必死に必死に走って走って。走ることをそれでもやめたりはしなかった。
心が急がせることをはじめて知った。
「わ……うわぁ……」
楽しみが眠りを妨げること。
何をしようかと考えるだけで夜が明るくなったこと。
蕾にも色があること。
オカリナの音があんなにもきれいなこと。
外で食べるものがあんなにも美味しいこと。
会話が繋がりになること。
まだまだたくさん。
たくさんたくさんのこと。
「……れ、…………っ!」
呼ぼうと口を開いた名前は、ふさいだ。
それでも笑う。呼びたい彼女は想い出に純白にきれいに笑う。
どうしてこんなにも惹かれて。
甘やかしてもらえるとくすぐったくなって。
嬉しくて。楽しくて。
「……っ!」
ずるり、と濡れた道に足をとられて蓮は倒れるように転んだ。足はじんじんと痛み、ぶつけた手のひらは燃えるように痛い。こんなにもこんなにも寒いのに、痛い。
けれどもっと痛いのはーーーーー
「化け物だっ!鐘の塔にーーーー化け物がいやがるぞっっ!!」
「………………っ!」
もっともっと痛いのは……心の方。
誰かが叫んだその言葉に胸が抉られるようだった。土足で踏み荒らされた挙げ句に踏みにじられて、更に三度四度と刃で突き刺されているようだった。
今まで自分は、悪魔のことをただの害としてしかみてこなかった。
それは経験していない、まったくの他人だから出来たことで……今ならわかる。
それが“身内”ならばたまったものではない。そんな罵倒は耐えられない。
蓮はふらりと、ゆっくりと、朧気に頼りなく、しかし確実に立ち上がった。
手のひらから滲む血も、膝から膨れる血も、雨にしみて痛い。
けれどそれを無視して、また目を反らして。
蓮は“あい”を求めて痛む手を握りしめる。痛む足に無理を強いて再び走る。
化け物だ化け物だと叫ぶ声たちに『違う』と大きな声で叫んで否定したかった。だけど蓮にはその権利はない。それは蓮がずっとしてきたことだったから。
『こころを、忘れちゃいけないよ』
はじめて、漸く優のその言葉の意味を理解した。だれにだって心はあるのだと。
律はいつも意地悪だ。だけどそこには優しさがいつもあった。
優はいつも無理をする。だけどそれは蓮たちのことやこの町のひとたちのことを想ってのこと。
蓮は、冬が大嫌いだ。それはかわらない。
走って走って走って、こんなにも息が上がっているのに、肺に入ってくる空気は冷たい。
冬には良い想い出はない。蓮は、冬に捨てられていたのだと聞いていたから。
…………けれど、違った。そうではなかった。蓮はただ“守られていた”だけだった。
ある冬の日に、優が『純白』から託されたのだと。自分には、育てる資格がないからと。
右目に、片翼を持つ『悪魔』によって。
蔓草のような、若草色の髪。桜色の唇。ぼろぼろの白い服を着た女性に、頼まれて託されたのだと。
「…………っ、ぅわああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
どうしてあんなにも惹かれたのか。安心したのか。甘えたかったのか。一緒に暮らすと言う夢を見たのか。望んだのか。
なんてことはない。至極当然な理由だったから。
優に託された子どもが蓮で、
優に託した純白が、れんで
れんがーーーーー蓮の母親だったからだ。
少女は走る。ただ走る。
大切な大切なーーーー鐘の塔にいる“母親”の元へ。
苦しい感情を抱いたまま。
だけどそれ以上に想うのは、れんの心。
蓮が『散らす』側でいながら傍を許してくれたのはやはり彼女が“母親”だからだろうか?
情けで一緒にいてくれたのか。それともただ拒めなかっただけなのか。どうして母だと名乗ってくれなかったのか。
そんなことを、ぐしゃぐしゃな心で想いながら蓮はただひたすらに、必死に、がむしゃらに走り続ける。いつもなら浮き足だって走っているのに、
「…………っ!」
喜んで走っていくのに、今はただただ辛かった。
音が、聴こえた。いつものオカリナの音が。
その音はいつもまるで蓮を呼んでいるかのように聴こえていて、いつか教わりたいとすら想った、願った音なのに。
こんな気持ちのせいか、その音はまるで
さよならを告げているかのように、蓮には聴こえて走る足を更に加速させた。
少女は、走る。懸命に懸命に。
やっと理解できた、この気持ちを伝えにーーーーー




