7-2
記憶の中で蓮の名を呼び、純白に微笑むれんの顔が浮かんできた。どうして、この時……今、なのか。
わからない。
「……蓮は、まだ大事な誰かをなくしたことがないだろう?……蓮の意思は関係なく『離されてはしまった』けど……まだ」
なくしたことはない。はっきりと事実を律は謡うように答えを綴る。
考えてみれば確かにそうだ。親しいものを作らず、友も作らず、好きなものも何も見つけてこないで、ただただ安全で安心な家族に依存して、そこから出ないで、ずっとずっとその中に隠れていた。
だから、その感情は知らない。わからない。
律は今がその時だから、と言って笑う。……きっと、正しくそれが答えなのだろう。
はじめてだからどうしたら良いかわからず、はじめて親い人が「いなくなるかも知れない」と言う現状に恐れた。見えない相手、対峙したことのない相手。対処の仕方もわからずに、どうしたらいいのかもわからない。
だからこんなにも混乱しているのだろう。……ふ、と迷子の欠片がひょこりと顔を出して……まるで「やっとみつけてくれた」と笑っているかのように、蓮の中に自然に溶け込んで理解を蓮に与えた。
記憶の中で誰かが泣きはじめた。理解と共に、どこか遠くで……記憶の通り道で泣きはじめた。
呆然と、律の言葉に顔を向けて、蓮は兄の言葉を繰り返した。
記憶道のはじめ。蓮の一番はじめの道で、誰かが泣いている。
置いていかないで。と。
手放さないで。と。
「…………離されてしまった…?……なに……?なに、律くん……それ……?」
気になるようなことを、今この兄は口にした。何と言った?何を言った?
離されてしまった?……それはどう言うことだろう?その言葉を聞いた途端にだれかが泣きはじめたのだけど……。
驚いた心を隠せない。いつもよりもうまく隠せない。開いたままの瞳を……瞬きと言う名前で、閉じることすら出来ない。
何かの核心に、触れてしまうことには間違いない蓮の問いなのに、律は全く表情を崩すそぶりがない。まるで予め蓮に話すことを決めていたかのような、そんな穏やかさ。
彼にとっては大事で大切な優を抱く腕が震えているのが、見てとれた。それでも律は……いつも何よりも、どんなことよりも優を最優先としているはずの、あの律が優よりも優先して何かを蓮に告げようとしている。
耳鳴りがする。胸がざわつく。……れんの、純白な笑顔が、脳裏に、焼き付いて離れない。
聞きたくはない。だけど聞かないといけない。
必要性と拒みが戦う。蓮の中で恐ろしいまでに戦火を高く高くあげる。
律が優を優先していないのは『能力からの不調』だからだ。つまりは悪魔が現れた……証拠……。
「……蓮」
ぞわぁっ、と鳥肌がたった。脳が痺れて心臓が跳ね上がる。ただ一言、名を呼ばれただけなのに、恐い。
恐い。恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐いーーーーーー恐い。
ふるる……と首を横に振る。ちいさなちいさなこどものようにただただ首を振って一心に、必死に拒む。雨の音が痛い。ああ、やっぱり冬なんて大嫌いだ。恐いことしか持ってこない。
「蓮」
「……やだ」
「蓮。聞いて」
「……やだ……っ!」
やだ。やだ。やだ。聞きたくない聞きたくない聞きたくないっ!叫んで喚いて泣きわめきながら蓮は両耳をふさいで、瞳をぎゅうっ、と閉じて世界を遮断する。
叫んでいれば自分以外の声は聞こえない。目を閉じていれば何も見えない。拒み続ければ真実にはならない。聞きたくない聞きたくない聞きたくない。
凍てつく雨が体を冷やしていく。それ以上に心が凍てつきはじめて痛い。
何で聞きたくないのかはわからない。でもきっと自分の中の何かは答えを知っているのだろう。
雨が容赦なく空気を冷やしていく。どんどん暗くしていく。だからこそ、必ず見えてしまうものがある。
雨滴。その線はどこまでも真っ直ぐで、まるで真実だ。
「聞きたくないっ!聞きたくないっ!聞きたくないっ!」
「……蓮…」
「ーーーーー蓮」
ぴた……と空気が止まったかのようだった。絶対的に名を呼ばれれば、瞳を開いてしまう。ふさいだ耳はその声を求めて、澄ましてしまう。
雨で濡れたのか、涙で濡れたのかわからないぐしゃぐしゃな顔と心をあっさりと、簡単に開いたのは紫暗色の瞳。
育ての親。蓮をここまで育ててくれたかけがえのない大切なひと。
きゅ……と弱々しく腕を伸ばして蓮の手を握る大きな大きな手。
この手に引かれて、今日まで歩いてこれた。今日と言う日まで蓮は在ってこれた。
律が驚いた顔で口を開こうとしたが……ぐっ、と耐えるようにその口を閉じた。
代わりに今度は優が蓮に穏やかな笑顔を示す番だ。蓮の聞きたくないと言う叫びに手を貸すだけだった。……なのに、蓮は彼からは目を逸らすことは出来ないし、逸らしたいと言う気持ちすら湧いてこない。
だから、蓮は壊れそうだった。こんな地割れを起こすかのような頭痛を蓮は経験したことがない。
優は、綴る。綴りながら問う。
「……楽しかった?」
蓮の手を握ったまま。逃げ場を作ってくれているかのように。握られて、逃げ場はないのに。
その握られた手は、間違いなく蓮の逃げ場だった。
頭が痛い。
心が引きちぎれてしまいそうだ。
「ゆう、さ…………何、を……」
「やっぱり……敵わないよなぁ…………」
「だから……何が……」
「……わくわく、した?」
ざわわわ……と羽音がする。楽しかったが、羽ばたく。純白に。白く。優しく。
蔓草のような若草色の髪。優しく言葉を紡ぐ桜色の唇。
優も律も、誰とは言っていないのに。
浮かぶのは、どうしたって。
『蓮ちゃん』
れんの、笑顔。




