7-1
それはあまりにも唐突に訪れた。
優が帰ってくるまで律同様に深夜にまで起きていた蓮は、しかしソファーでうとうとと睡魔に負けそうになっていた。優が帰ってこないと安心して眠れないが、しかし今の蓮には明日への楽しみが半分以上はあった。
悶着しながら本来ならば三回分はクッキーを作れたであろう時間をかけて作ったクッキーを今夜帰ってきた優に、れんへ明日渡す楽しみがあったからだ。
やれやれと盛大な溜め息を吐いた律がまず毒味と言う名の試食で「まぁ……食べれなくはない」と、彼にしては最大級の誉め言葉を頂いた蓮は人生初の手作りクッキーを渡すことを楽しみにしていた。
それで優をうきうきと待っていたわけだが……日付が代わり、雨が止まない、弱まることすらしない中でーーーーー律が顔を真っ青にして何の前振りもなく扉を乱暴に開け放ち、家を飛び出した。律があんな顔をするのは優が絡むときだけだと知っている蓮はぞっ、と悪寒が走り、ラッピングしたままのクッキーを握りしめたまま開け放たれた扉を掻い潜って律と同じように外へ飛び出した。
ばしゃばしゃと、水をたっぷりと吸った道を走り、弱々しい電灯を頼りに律の背中を追う。本気で走る律の足はとても早く、普段の競争は少し加減されていることを…………不謹慎にも今、何故か知ることができた。
家の門を過ぎて道を曲がる。曲がってしばらく真っ直ぐまっすぐに走った、普段なら賑わっている町の端の商店街のところにーーー
「優さんっ!……優さんっっ!」
「!?」
よく見知ったーーー大切な、大切な保護者が雨に濡れて倒れている優がそこにいた。
滅多なことでは声を荒げることがない律が半ば叫ぶように駆け寄りその上半身を抱き上げる。
服が濡れることにも全く目もくれないで、律は必死に、何度も何度も優の名前を呼ぶ。
それは蓮も同じで、律と同じように優を挟み、その名前を何度も何度も繰り返し呼び続ける。
「優さんっ!優さんっ!どうしたんですかっ!?優さん…………っ!」
叫ぶように名を呼ぶ中で握った優の手が…………蓮が知っているような温度ではなかった。人間は、ここまで体温が低くなるものなのかと言うことをはじめて知った蓮は恐怖を覚えた。普段なら、あんなに暖かいはずのこのひとは、何故こんなにも冷たいのかと……大丈夫なのかと……
「優さん……優さんっ!優さん優さん優さんっっ!」
どうなって、しまうのだろうと感じたことのない『恐怖』が体と心を支配した。
いやだ、いやだいやだ。
ふるふると、蓮は駄々をこねるように首を横に振り続ける。握る手は離さないで。
ざあざあと、止まない雨の中で優のか細い呼吸が聞こえるが、これが途切れてしまったら……と頭の中は混乱しかない。
いなくなったらどうしよう?どうしよう?このひとがいなくなってしまったら……!
「優さんっっ!優さんっ!」
ぼたぼたと流れ星色の髪から雨滴を落としながら必死に何度も何度も優の名を呼び、少しでも体温をあげようとしているのだろう、背中を擦り続ける。
しかし雨にうたれながらでは何の意味もなさないこと悟ったのか、律は自分よりも背丈の高い優を抱き抱え、屋根のある場所へと移動した。
ばしゃりばしゃりっ、と荒々しく水が跳ねる、跳ねさせる律の後を蓮は涙をためた瞳を拭いながら再び追いかける。
昼は商店街となることもあって店をたたみ忘れていた店舗の屋根の下へ優をつれていき、律はそっと降ろした。しかし地面には直に置かず、自信の膝を背もたれがわりにして優の頬に触れた。
ぎり……っと唇を噛みしめ、蓮が見たことのない表情で律は不安を露にする。
優がいなくなれば、生きてはいけないと常々律は言っている。このひとが在っての今の自分がいるのだと、いつもいつもそう言っている。律が今生きているのは優に拾われて育てられたからだと。
「律くん……律くんっ!優さん……!」
それは蓮だって同じことだ。蓮だって優に拾われなかったら今ごろ生きてはいない。体も満足に動かせない、泣くことしか意思を伝えられない赤子にどうやって生きる術があっただろう。
蓮や律にとって、優と言う存在は絶対だから。このひとあっての今の自分があることを……何故か、今知った。
どうして?どうして今知ったことが多いのだろう?こんな状況になって……何故今、はじめて知ることが多いのだろう……。
「どうして……?………どうして、今…」
「……?」
自身でも意識していないで出した言葉に、律が訝しげにその碧眼を細める。細めて蓮を見るが……蓮はそれに気づかない。
気づかないままに譫言のように、小刻みに震えながら混乱を口にする。
「今、……なの……?……どうして……?」
どうして今なのか。何故今『恐い』が体と心を巡りめぐっているのか……不思議でならない。
悪魔を『散らす』ことだって怖くないのに。悪魔に襲われたって怖くないのに。怪我をすることだって怖くはないのに。
どうして今何も考えられないほどに怖いのか。どうして自分はこんなにも頭が凍ってしまっているのか。理由がわからない。わからない。
「……こんなとき、だからだよ…」
「……え?」
答えが正面から投げられた。投げた相手は勿論、律だった。
律は家から飛び出してきたときとは全く違い、動揺を押し消して、酷く静かに静かに、碧眼の瞳に蓮を移し、ちいさく微笑みすら浮かべて…………今まででこれほど優しい顔を蓮に見せたことがあっただろうかと言うほどに……穏やかに優しく、だけど胸を痛ませるように、そうっと笑顔を浮かべていた。
その顔が、全く似ていないのにどうしてもれんに重なる。




