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こんなに嬉しいことはないわ、と彼女が微笑んだのが震えた空気でわかった。
降りしきる雨は、微笑みを奪おうとはしないようだ。ここまで明確に微笑みを優に通してくれたのだから。
優はひたすらに首を振る。縦には振らない。決して、振らない。
ぱしゃり、とべこり、と言う二つの音が雨音に混ざる。優しさが近づいてくる音。……それは、ずっと約束していた時が迫っていることを優に教える音。
十二年前にわかっていたことだ。知っていたことだ。拒まれて、理解していたことだった。
なのに、あまりにも十二年前が早すぎた。満たされ過ぎていたが故に早すぎた。
雨は止めどなく降ってくる。躊躇わずに降ってくる。
優は捲し立てるように、口にする。
「裁縫を、教わりに来た」
「ええ」
「毎夜毎夜、必死に作ってた」
「ええ」
そうっ……としなやかな手が優の頭を撫でる。まるでちいさな子どもをあやすように。“愛”するように。
その手は、撫でる相手が違うだろうと。優は傘を落としてしまう。
抗いようもない虚無感。それに押し潰されて。
あの時の助けての声音。だけど助けてほしいのはひとりだけだと、その意思を通したのはこの彼女だ。
純白に笑う彼女は、横から優の頭を抱き締める。ちいさな声が「ありがとう」と心からの感謝を言葉と言う凶器で優の心を抉る。
紫暗色の瞳がくしゃりと崩れる。心が折れそうだった。苦しかった。
やはり、彼女がなんと言おうとも、あの時に救うべきだった。
「大切にする。大切に、してるの」
口を開けない優に彼女は言葉を奏でる。羽ばたかせる。
ふんわりと……何よりも柔らかく、優しく、心地よく。
それは何よりも鋭利な凶器にしかならないのに。
思い返すように、彼女は羽ばたかせ続けた。
「心配をくれて嬉しかった。毎日のように来てくれたことが嬉しかった。笑顔がとても可愛いの」
ひとつひとつ、思い返すように記憶を紡ぐ彼女。もう間に合わないのだと、優は悟る。……悟ることだけしか出来ない己がとても腹立たしい。何故何も出来ないのだろう?何故こんなにも弱いのだろう。
彼女は優の頭をまた撫でた。
「……たくさんの悪魔たちが言っていたわ?あなたはとても優しい子だって。……どうか、自分を卑下しないで?あなたはとてもとても優しいのだから」
そうして信愛を籠めてなのか、彼女は優の額に口づけを捧げた。もらった優はたまったものじゃない。きれいな言葉をもらえるような人間じゃないのだから。
非道に“優”れたものとして、この名を名乗り続けてきたのに……そんなことを言われてしまったら、己を責め続けるしかないではないか。決して自分を過大評価してはいけない。彼女が……彼女たちが言ってくれたような人間じゃないのだから。
ふわぁ……と瞬き羽ばたくような音が聴こえた。叫び。叫び。叫び。
もう叫ぶしかない、慟哭に包んだ想い。………………もう、どうしようもない。……間に、合わない……。
「私が得意なオカリナを、教えてあげたかった……。…………優しい子。優しい優しい……哀しい子……。私は、あの子に逢うつもりはなかった……“逢”は求めていなかった……!」
悲痛を押し隠そうとする声音が、優から離れる。腕が離れて、目に映るのは……七枚の翼。
背中に六枚。左目に一枚。………………そこまで溢れさせてしまっていたのかと、あまりの“あい”に抗えなかった。
にこ……と彼女はーーーーーー蓮にはれんと名乗っていた彼女は微笑んだ。
十二年前に左目の片翼しかなかったはずの彼女は……もうどうしようもなく悪魔と化してしまっていた。
それだけの翼を……想いを抱えていた彼女はどれだけの苦痛に耐えていたのだろう?……どうすれば、そんなに耐えられることができたのだろう?
清らかに、純白に、彼女は、れんは……耐えていた。耐えて、耐えて……
「……私の可愛い蓮を、育ててくれてありがとう……。とても可愛くて、可愛くて可愛くて…………あまりにも、可愛くて……」
惜別を、
「もう……駄目みたいなの……」
愛惜を、優に告げた。




