6-5
果たさなければならない。
……実際はそんな高尚なものじゃない。そんな尊べるものではない。己の成していることは。優はふらり……とレンガの壁に凭れかかった。歪んだ世界と酷い頭痛を、雨が少し冷ましてくれる気がした。
「……律…。…きみは……暖かいね…」
凍てつく雨にうたれながら、優はちいさなちいさな男の子の頬を撫でる。なるべく濡れないように、濡らさないようにとスーツでくるんでいる流れ星色の髪を持つ、とてもとてもきれいな男の子に、優は律と言う名を与えた。自分を律することが出来るような……自分みたいな卑怯もののように育たないようにと……切に切に願いを投じて。籠めて。捧げて。
その名前を気に入ってくれたのかどうかはわからないのだけれど、独りだった男の子は、独りだった優の手を握って離さなかった。
今は閉じていて見えないけれど、きれいな碧眼を煌めかせる男の子が、いつか優を否定しながら、だけど悪魔の存在とその心は肯定してくれているようになってくれたら……と思う。
涙に濡れる日が来ても、どこかに優しい風や優しい包みを見つけて、濡れたままでいないように。……濡れては、羽ばたけないのだから。
この子は、どうか羽ばたけるようにありますようにと……蛍ほどのちいさなちいさな、仄かな光に包まれる律を見て、優は弱々しく、儚く笑んだ。
濡れらしてしまった額をそうっと撫でて、親愛の口づけを家族に……息子となった律に贈る。これから一緒に過ごすに当たって、優のしていることを、卑怯ものの自分がしなければならないことをこの子はどんどん理解していくだろう。
その時、この子はどんな顔をするのだろうか?真夜中に降りしきる雨の中でも煌めくような、流れ星色のこの子はどう思うのだろうか?不意にそれが気になって気になって。少しの恐怖を覚えて、そんな自分に思わず笑った。
それはただ、自分はまだこの子との“逢”に喜ぶことができていて“愛”されないかもしれないことに震えられることへの心地よさを忘れていなかったから。
ほっ……と息を吐いて、また雨の中を優は歩く。早く帰って、律を暖かいもので拭いて、暖かいものを飲ませて、暖かいものでくるませて、暖かく眠らせなければならない。外はこんなにも寒くて、感情と言う海の中でこんなにもこんなにも濡れて凍えてしまうのだから。
既に弾くことすらしなくなったシャツや靴、べったりと濡れてしまった髪。
幼い律を濡らしてはいけない反面、けれど優自身は受けていなくてはいけないのだと感じる雨。
これはきっと涙ではないのかと。今まで救えてこれなかった悪魔たちの涙なのではないのかと……雨音が叫び声に聞こえて仕方がない。
助けてこれなかった。
救えなかった。
気づけなかった。
「……っ………ごめんなさい…!」
ひっ……と喉から迸りそうになった嗚咽を必死に必死に喉奥に留めて、出てこないように出てこないようしながら優は雨を受けながら謝罪の言葉を口にする。
頭を下げて、雨から目をそらしたくなった。けれどそれは許されない。例え他の誰かが許したところで……優自身が、それを絶対に許せない。
この降り続ける雨が、助けてこれなかった、救えなかった、気づけなかった悪魔たちの泣き声や叫び声ならば、優はこの身に、心に、瞳に、それを深く深く深く深く、抉るほどに、治らないように、障害ずっと膿み続けてずくずくと痛みを抱き続けなければならない。
贖罪にもならない。罪滅ぼしにすらなりはしない。けれど、それでも、だからこそ。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ごめんなさ、い……!」
まるで呪詛のようだが、この言葉だけしか優には伝えられる、悪魔たちに開ける言葉を持っていなかった。それ以外に何の言葉を紡ぐことが優に許されようか。
何も出来なかったのに。
いつも何も出来ないのに。
話しをするとは言ったところで、結果的にはただ追い込んで自ら命を断つに持っていかせただけだ。
自分で自分の命を絶つことが、どれだけ大きな決意を抱えなければならないか。どれだけ震えなければならないのか。どれだけ恐ろしいことか。
なのに、自分にはそれを絶って……絶つことすら出来ない卑怯もので、なのに絶たせるように促す非道な生き者で。
雨は、降り止まない。止まらない。それだけ優が泣かせてしまった命は止まることのない雨の数ほどあるのだ。命の数も勿論ではあるが、それ以上に心の数だった。
ただ生きていくだけならば体の機能が正常に動いていれば問題がない。しかしそこに心があるからこその世界の彩りや音であり、風であり土壌であるのだ。
心はひとつでも、その中にある感情はたくさんたくさんある。数えきれないほどに。まだ隠れて見つけきれていないものだってある。名を与えられていない感情だってあるはず。
その中に土足で踏みいって、自ら『散らせて』
「……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
譫言のようにただ謝り続ける優を、気味悪がって避けてくれる者は誰もいない。だれひとりとしていない。
真夜中の雨だと言うこともあるが、優が生き者を避けているから、避け続けているから、避けてくれる者も、侮蔑の目で嘲笑う声も向けてくれるものはいない。
だっていつか悪魔になってしまうだれかたちなのかも知れないから。そんなのは辛いから。
きっと耐えられないから。だから、必要最低限だけで、それだけの付き合いでいいのだ。
謝って謝って謝って……謝り続けながら歩く優はもし関わりを持ってくれるだれかがいたのなら、どう映っているのだろう?
「…………あなたが、優くん?」
不意に、雨音を掻い潜るように声が聞こえた。まるで必然のように、巡り合わせが訪れたかのように。
延々と謝り続けていた優の足音が、止まる。いつの間にここまで戻ってきたのだろうか。そこは町の真ん中である鐘の塔がそこにあった。
毎日毎日が曇り空の日々。朝も昼もわからないからと最近建てられた純白の鐘の塔。まだまだ新しくて、きれいで、卑怯ものの自分とは…………真逆の存在に見えた。
一見目を奪われた瞳は、直ぐに塔の脇道に移る。瞬く間に頭痛と、とても重たいものがずしりののし掛かる感覚に襲われて、どうしようもなく泣きそうになった。泣きたくなった。
“あい”してる。が数えきれないほどに降ってきて、この雨よりもたくさんたくさん降ってきて、津波を起こしてしまいそうな勢いで優の心を撃つ。
がんっ!と抵抗する間もなく流されて流木で頭をぶつけたような、予期せぬ衝撃。そんな鈍くて重たい感覚だった。
とても立ってなんていられるような余裕なんてなく、優は背中と頭をぐっと下に押されたかのように両膝を濡れたレンガにつく。腕に抱いている律を落としてしまわないように思わずぐっ、と抱く腕に自然と力が籠った。激しい運動をした後のような……いいや、これはいきなり空気をしばらくの間奪われたかのような胸の苦しみで優は動悸を起こす。
喉がか弱くか細く、ひゅー……と必死に必死に空気を求めて肩で息をし続けた。……けれども、それよりも。
「……そこ、…に……だれか……います、…か…?」
無礼でも失礼でも、心から申し訳なくても……顔をあげるような気力と体力が優にはなかった。それでも誰かいることを確認しなければならない。
聞き間違いでなければ、今の声には“あい”があった。優がいつもいつも泣きたくなるような感情を持ってくる、殊更優しい者たちーーーーーー悪魔が、そこにいるはずだ。
「だれ、か……いるんですか……」
それでも優は声を投げ掛けることを止めたりはしなかった。しないで呼び続けた。もしかしたら、今度こそ救える相手かも知れなかったから。
何度も何度も呼び続けて、そうしてーーーーー
そうして記憶は過去から今へと戻ってくる。
変わらないのはあの時と同じような雨の強さであり、変わったのは、それ以外。
あの時にはまっさらできれいだった純白の鐘の塔も、手入れするものがいないばかりに薄汚れていって、とてもじゃないけれど「純白」だとは呼べる色ではなくなってしまった。
こつん、と優は壁に頭を叩く。やはり息苦しい喉に無理矢理取り入れる空気を音と言う形に変えて、思い返すように、今を紡いだ。
「よく、似てるよ」
「似ない方がよかったのに」
隣にいる若草色の髪を持つ、己を抱き締めているようにして震える彼女。
その彼女と出逢った十二年前。……それは、たくさんのものを得た十二年をくれた。
本来は、彼女のものだったのに。そんな十二年。返しようがなくて、託されて。
純白に笑う彼女から預かったのは、黒髪の子どもだった。笑えば純白だろうに、全てを拒んでいるせいで純白に笑うことが出来ない。そんな女の子。
「優しいよ。……俺が出来ないことをしてくれる……俺の体に負担をかけないように動いてくれる、想ってくれる……あなたによく似た、優しい子女の子だ」
灰色を帯びた、黒髪の女の子。毎日のように兄とけんかして、家の中だけが世界で、冬が嫌いで、他人が大嫌いな、女の子。
あら、と雨の中に声が馴染む。くすくすと笑いながら呟く彼女。
べこん、とドラム缶が軋む音が耳に入る。
「それはあなたに似たのでしょう?育ててくれた、あなたに」




