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Dear  作者: 雨神
雨の日に。
41/62

6-4


 はっ……と優の呼吸が乱れ始める。視界が揺れて、今にも倒れてしまいそうだが……そう言うわけにはいかない。ひとりで行くと、律にそう伝えて蓮と共に家で待っている可愛い我が子たちの元へ必ず帰らなければならないのだから。


 ここで生き倒れてしまうわけには行かないし、何よりも彼女とははなしを、しなければならない。


「……具合、悪いんでしょう?……ごめんなさいね……」


 心配そうに彼女が言葉をくれたのが辛うじて働く機能、聴覚でわかった。


 その声音はどこまでも純白であり……とあることを差し引いても、少女がーーーー蓮が、惹かれてしまうのもよく理解できた。ここまで惹かれる何かを持っている彼女はとても魅力的なのだろう。本来ならばこんなところで、ひとりで孤独に耐えねばならない存在ではないはずなのだ。


 本来送れるはずだった、彼女の日々を想うと、どうしようもなく子どものように泣き叫びたくなって、叶わないものに「どうして」と叫びたくなる。この十数年、そうやって生きてきた。


 ……あの日も、こんな寒空の日で、雨の日だった。あの日も彼女は、目の前の彼女は同じことを言っていた。「私といると苦しいでしょう?」と。


 雨に打たれる度に重みを増していくスーツ、髪、靴、シャツ。冷たくて冷たくて、寒気が止まらない。


 止まらないのに、それをも上回って哀しみの方が上回ってせき止めるもの見当たらなければ、塞き止めようとすら優は思わない。この感情は、間違いなく尊いものだ。この世界に尊くない感情などないのだ。少なくとも優はそう信じているし、優がそう信じているから、信じている律がいる。


 感情と言う感情を拒み続けて悲しいが得られなかった、世界に数多ある“あい”に出逢えてこなかった少女がひとりいた。


 その子をずっと育ててきて、なついてはくれたが、優にはたくさんの“あい”を少女には教えてあげられることはできなかったようで。……少女がそれを知り始めたのは、外出をするようになったこの二週間くらいの時から。


 その間に、少女は“逢”を待ち望むことを知り、“合”わせるようにすることを心掛け、きっと今答えを出せないでいるふたつの“あい”を知るようになるだろう。

 

 ふらり、と後ろ手にドラム缶に手をつき、優は立っている姿勢を崩さないように、必死になる。もう風邪なんて彼女がひかないことはわかっていても、それでも傘を差し伸ばさずにはいられなかった。


 可愛い子が大事に想っている女性なのだから。


「……十二年も、経ったのね……」


 ぽつり、と彼女が溢した。


 それは優と彼女が出逢った時のはなし。


 彼女がまだ“はす”だった頃のはなし。


 彼女が手放し、優が受け取った時のはなし。


「……十二年も、」


 経ったよ……。優はその呟きに頷いて、目を伏せた。


 甦るのは、冬の雨の日。




















 雨が、ざあざあと降る中で、少年は幼い男の子を抱いて歩いていた。


 きれいな流れ星色の子どもがなるべく雨に濡れないように自分のスーツをくるむようにかけて、本降りの雨をただ歩く。


 十五才前後だった優は、年相応の幼い顔に、少年が到底彩るものではないだろう表情を落として歩いていた。歩く度にやるせなさが水溜まりに踏みしめる足に現れる。ぎり……っ、と唇を噛んでは八つ当たるように水を跳ねさせる。


 ぱしゃんっ、と叩くように激しい水音は優と言う少年の心はそのままを表し、息苦しさから助けを求めるような痛々しさがそこに現れていた。


「ふっ……ふぇ……っ」


「あ……ああ……ごめんね、律……」


 大丈夫だから、と優は腕の中にいる五歳程度の子どもをあやしておちつけようと試みる。沈んだ気持ちをひたすらに押し隠し、安心させようとぎこちなく笑ってみせた。


 きゅうう……と、つい先日まで他人だった優にすがるようにしがみついて、五歳の律はぐずりながらも徐々に襲ってくる睡魔に流され、か細く泣き声をあげながら、すぅ……と眠りについた。優はそのことに安堵して、やり場のないぐちゃぐちゃに混ざった感情に苦しくなる。


 優と言う人間が悪魔と……悪魔を感じられるのは生まれつきのものだった。人一倍感受性が強く、他者を想ってしまうが為の気性から生まれたこの能力は、優にとってはただただ苦しくて、辛いものでしかなかった。


 翼を裁てば、悪魔は『散る』


 それは死と言う言葉と同じ意味で、いなくなってしまうと言うことであり、優はそれがとてもやるせなかった。

 

 悪魔と言うのは、元は人間や動物、極稀に植物でもある、命を持つもの全てが化してしまうものだ。


 何故生きたものが悪魔と化すのか。それはだれにだって『想い』があるからだ。


 持っていて当たり前の権利を裁かねばならないことほど辛いものはない。そして優には悪魔の翼を『散らす』ほどの力は有していなかった。




『………ありがとう…』



 

 先程まで世界に存在していた悪魔は、自ら翼を千切って、己の命を『散らし』て逝った。泣きながら、笑いながら。


 きゅう……と、律を抱く腕に力が籠る。


 悪魔の心を感じとる優は悪魔にはなれないし、ならない。何故ならば『悪魔の心を知っている』からだ。悪魔の心を知っている以上、その心は優の中では名もないものでも見知らない心でもなんでもない。だから、優は悪魔には成り得ない。


 だから優に出来るのは感じた悪魔の心を理解して、はなしをして…………見送ることだけなのだ。翼を千切って『散らし』てやることすらできない……とても非力な能力は悪魔たちにとっては少ない救いではあったが、優はそのことを知らない上に、ただの苦痛でしかなかった。

  

 そもそも優は、彼らを悪魔と呼ぶことにすら抵抗があったのだから。……確かに悪魔と化してしまった者が及ぼす被害がちいさいわけではない。場所によっては怪我人を出してしまうし、精神的に傷跡を残してしまうこと、建物を壊してしまうことだってある。


 ただ、悪魔と化してしまうだれかたちの共通する根底は『孤独』やいくつもの『あい』であり、底の底にはそのだれかなりの優しさが必ず潜んでいた。


 それが誤って違う形になってしまったり、大きく膨らみすぎてしまう感情を受け入れてくれるものや、己自身が受け入れられなかった場合、感情は受け入れ場所を求めて新たな受け入れ場所を作ろうとする。


 それが悪魔たちが持つ翼だった。


 翼は……翼の色は個人によって色が異なり、決まった色はなかった。


 黒もあれば灰もあり。緑や月色、黄色や赤。菫色や陽の色。その他にもまだまだある。


 その翼の数だけ彼らは力が強く『想い』が強く、危険度は増していく。……ただ片翼……つまり一枚しかない者なら……まだ救いはあるのだが、……そんな者は中々存在しない。


 悪魔が悪魔と言う名を有するのは優しすぎる彼等が自ら望んだからだ。本来持っていた名前を捨てて、害にしかならない自分たちを彼らは『悪魔』なのだと、自嘲しながらそう名乗る。


 優は、それぞれ異なる色の翼を彼等が持っているのは彼らの『心』そのものを表しているのだと。……少なくとも、そう思っている。


 誰もが優しさを有しているのに、なぜこんな哀しい結末しか迎えられないのだろうか……いつかまだ優が名を持たなかった頃、今よりもまだ幼かった頃に感情のままに泣き叫んだことがあった。


 その悪魔は暖かい橙色の五枚翼の女性の悪魔が、最後の最期に優の頭を撫でながら“愛”するように口にした。


『優しい子……あなたには、優しい名前がよく似合うね……』


 そう言って、翼を羽ばたかせてその女性は姿を消し、命を自ら消して世界から『散って』しまった。


 優はそれから自身を優と名乗るようになった。……ただ、彼はその名をくれた悪魔の言ってくれた意味で名乗っているわけではない。


 現に、今日だってまた……悪魔が悪魔になる前の心の叫びは聴こえていたのに、見つけ出せなかった。救えなかった。『散らす』ことすら出来なかった。何も出来なかった。


 なのに、もらってしまった『ありがとう』の言葉が、優に重たく重たくのし掛かってくる。


「……ありがとう……なんて、」


 自分は貰えないのに……!そう苦々しく口から生んだ言葉は強い雨の中に拐われてしまい、誰の耳にも届くことはなかった。


 だれかたちの、悪魔たちの声を聴きすぎてしまう優の言葉は、誰にも聴かれることはないし、届くことはない。


 それはそれで仕方のないことだと思うし、自分の無力さを考えると当然のことだとも思う。


 もしかしたら、このような感情でだれかたちは悪魔へと姿を変えてしまうのかもしれない、と優にはただ憶測することだけしか出来ない。いっそのこと悪魔へと自分もなれたならーーーーそう思って願ってしまうことも少なくはない。悪魔を知りすぎているが故に悪魔には絶対になれない優。


 しかしそのあとで優は必ず首を横に振る。もし自分が悪魔と化することが叶っても、もしかしたら自分がいなくなったあとに、自分のように悪魔たちの心が聴こえるものが生まれてくるかもしれない。自信過剰だととられてしまうかもしれないが、けれどそう思って留まれることで優のような思いをするものが増えないのなら……自分がいくら無力でも何でも生きなければならない。この役目をしっかりと果たさなければならない。




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