6-3
桜の花を教えたときに誉められたのが、蓮にはとてもとても嬉しかった。れんの微笑みと、言葉がとてもとても心地よくて嬉しかった。
そうか。自分は、彼女に誉められて、笑ってほしいのだと……ここ最近の自分の行動の原点に合点が言った。
あの声で呼ばれると気持ちが柔らかくなる。あの笑顔が見れると暖かくなれる。あの手に握られると安心して眠たくなってしまう。
蔓草のような若草色の髪。桜色の唇。どこまでもどこまでも純白の彼女。
「……れんおねえさん……」
ぽつり、と自然と口に出して彼女の名前を呼んでいた。呼ぶだけで、記憶の彼女が返事をしてくれている気がした。
はい、蓮ちゃん。
と。いつものように微笑んで。黒い瞳を細めて。
ざあざあと、雨が降る。まるでバケツをひっくり返す勢いで、強く強く降り続ける。
今日は一日雨なのだと、朝つけていたラジオがそう言っていた。
冬の雨は、凍てついていて、あまりにも辛い。冬嫌いの蓮はそれを痛いほどに、痛いほどに知っていた。
その中で心配するはやはりれんのこと。濡れないところへ避難しているだろうか?あのブランケットはこの寒さの中で少しは彼女を暖められているのだろうか?風邪はひいていないのだろうか?明日は、何を持っていこう?
「……?蓮?…………はーすー?」
ひらひら、と目の前をそよいだ手のひらと、自分の名を呼ぶ兄の声に蓮は我に返った。しまった。今の自分は隙だらけだ……でなくて、……何を話していたんだったか……。
一度れんのことを考えたら、れんのことで頭がいっぱいになってしまう自分を認めつつ、蓮は必死に記憶を巻き戻そうと試みる。
体当たりして、怒られて……そもそも何故自分は律に体当たりをしたのだっけか?はてさてだ。
「あっ……えっと…………え…っ…と……」
ちょっと待ってちょっと待って、と二回ほど同じ台詞を繰り返して記憶を引っ張り出すように額に手を当てる……が、れんのことばかりに思考が走ってうまくまとまらない。
寒くはないだろうか?ひとりで寂しくないだろうか?ああ、今日は行けないって言っていない。…………違う。違うから。そうではなくて、だ。
ぐるるる、と律の質問に答えなければならないのだと言う頭と、れんの心配をしてしまう自分がここにいる。生憎ながらふたつのことを一度に考えられるような程、蓮は器用ではなかった。
「…………蓮」
はあ、と痺れを切らしたのか、しばらく蓮を待ってくれていた律だったが、調理器具の中から銀色のボールと冷蔵庫から卵を二つ取り出して、蓮に手渡した。
ついでにスプーンも付属される。
蓮の頭には疑問符が浮かぶばかりだ。
「あの……律くん?」
「よくわからないけど、料理がしたいなら卵くらい上手に割って混ぜれないと話しにならないからね」
やれやれ、と肩を竦めてそう言った律の言葉で「あ」と先程まで話していたことを思い出した。そうだそうだ、料理の話だった。と蓮は思い出せなかった負のループから抜け出した。
頑張って料理を作って、れんに食べてもらおうと意気込んでいたのだった。妙な間を突いてこない律を見ると突き詰めるのが面倒になったのか、それともこれ以上家事の邪魔をしてほしくないからか……どちらにせよ有り難い限りだった。
よぉしっ、とシンク付近のテーブルにボールを置いて、いざ、と蓮は卵を右手に握る。
「……待って蓮。今どうやって卵を割ろうとした?」
「え?律くんと優さんがしてるみたいに片手で」
「初心者は両手でするもの」
家事万能な保護者や兄のように片手で卵を割ろうとした蓮は、見事に律によって制され、割り方から事細かに教えられることになった。
因みに何故スプーンなのか。それは力加減が上手くない蓮は過去にサラダをマヨネーズと和えているときにばきりと見事に折った前科があるからである。
「……中に入るなりなんなりすればいいんじゃないか?」
雨が痛いほど強く強く降り続ける。
優は、真っ黒を纏う中で唯一の黒以外の色で彼女へと話しかけた。
もしかしたら、自分の声も届いていないのかもしれない。それでも優は、彼女へと言葉を投げ掛ける。
こつりこつり、と彼女へと歩みより、持っていた折り畳みの白い傘を広げて、彼女へと差し出した。
鐘の塔の脇道。その最奧。
錆びたドラム缶の上にちょこんと座り、ぼろぼろの白い服、腹部を守るように体を丸めていた彼女は頭上に降る雨が止むと、ゆっくりと顔を上げた。
ぽたりぽたりと、髪から衣服から肌を伝って雫が流れていく。見ているだけで寒々しい彼女は、もぞもぞと衣服の中からそれを取り出して、柔らかく純白に微笑んだ。
それはそれは嬉しそうに。安堵に。
「ああ……よかった……どうしてもこれだけは濡らしたくなかったの……」
ありがとう……と慈しむように、愛し子を愛でるように、雨から必死に守っていたものを、彼女は傘の下に置いた。
彼女が必死に守っていたものーーーーーーそれは、とても拙い白いブランケット。
優はそれに見覚えがあり、くすりとちいさく「そうか」と艶やかに微笑んだ。
「一生懸命作ってたよ。何度も針で指をついてた」
「それは……とても」
痛かったでしょうね……と自分が濡れることを厭わず、白いブランケットを中心に傘をさす彼女はふ……と寂しげに微笑んだ。
言葉とは真逆に、その言葉には残念だと言う心が切なく切なく優に届き、目眩と頭痛を優に与える。
冬の雨は、とても痛い。傷などなくともどこかが疼くような心境になり、しんしんと胸が締め付けられていく。
新雪は、とても苦しい。己の足で踏みしめてもいいのかと。自分はここにいても良いものではないのに、その姿を見たさに未練がましくいつまでも佇んでいたくなる。……例えるならば、そんな心境だろうか。
律は己の傘を彼女に差し出した。彼女が濡れて、風邪を引いてしまうことを、少女は間違いなく望まないだろう。
あら、と彼女は優を見上げた。こてり、と首をかしげた表情に、思わず“似ている”と思った。
「あなたが風邪を引いてしまうわ?あなたが風邪を引くと蝶々さんが悲しむわよ?」
「しこたま怒られるだろうけど……あなたが風邪を引いても心配する子が」
「……大丈夫、心配はいらないわ」
ぎゅう……と両肩を抱き、自分自身を抱き締めるような仕草の彼女は、少し震えていた。
優の頭痛もより一層酷くなってくる。頭が割れそうだ。情けないが、立っているのが精一杯だった。




