5-2
少しばかり苦い己の過去を。
「あのね、れんおねえさん……私は冬に捨てられたんだって」
そう前置きをして蓮は自分のことを話はじめた。
全てが優に聞いた話であるから、蓮にはあまり実感はないが、蓮は冬に捨てられていたらしい。その時の蓮はふやふやでまだ母体から世界に出てきたばかりで血も臍の緒もついていたままだった。
親に抱かれたことすらなかった哀れな赤子を拾ったのが優で、拾われたのが蓮だったのだと。蓮が冬が嫌いで優と律以外には目を向けることすらなかったらしい。
周りすべてに心を完全に閉ざしてしまい、感情の欠片すら見せないまま、今に至ってしまったのだと……優は申し訳なさそうに話していた。蕾のように、固く固く心を閉ざしてしまった子。それが蓮なのだと。冬が嫌いで嫌いで、二歳、三歳の頃は冬の気配を感じると泣きわめいて優から離れなかったのだと、律が意地悪に笑いながらそう話していた。……けれどその顔は完全な意地悪ではなくて、蓮が極力重たくならないものにしようと努めている顔だった。
今、思い返しながらその時のことを思い出すと優も律もとてもとても気遣ってくれていたのか、と……ふと悟った。甘やかされている自覚はあったが……そうか、こんな細かいところまで包もうとしてくれていたのか……。
何だか急にふたりに「ありがとう」を伝えたくて伝えたくて仕方がなくなった。そんな衝動が蓮の中に膨れていった。
「………そう…」
ただ一言だけ、れんは口にした。大して面白くもない話しに長々と付き合わせてしまって、さぞかし迷惑だったろうと、蓮はおどけて見せようとれんの顔を見る。
が、れんの表情はつまらなかったの色ではなく、今にも泣き出しそうな……泣いているのではないかと思わせる、“あい”に満ちた顔だった。品のある顔はいくらくしゃりと歪んでもきれいなものなのだと、蓮はブランケットに喜んでくれた笑顔に見惚れた時のような気持ちに再度出逢った。
蓮はその表情に目を丸くして、ふにゃりと笑顔になれたことがわかった。優に頭を撫でてもらった時と同じくらい、とても嬉しくて暖かくなる。
本当に、れんと言う不思議な女性は蓮の心をいとも簡単に解し、満たしてくれて、名前のわからない感情たちをたくさんくれる。出逢わせてくれる。
これだけ冬のように、冬を嫌う蓮の固い心を頑なに閉ざしていたと言うのに。あれだけ誰とも接したくなかったのに……今もそれは変わらないが、れんにだけは違った。
惹かれたのは、恐らく蓮の方。
「あはは……れんおねえさんが泣く必要ないのにー」
よしよし、と蓮はれんの頭を撫でた。ああ、ここまで他人であるはずの蓮のために心を痛めてくれる……まるで優のように優しくて、律のようにお人好しだ。
どう言葉に表したらいいのかわからない。もしかしたら表せられるものではないのかもしれない。……内側に留められて、喉から先へと出てきてはくれない言葉を……言葉が蓮が探している答えなのだろうか?と少しだけ……柄でもないが、少しだけ、そう思った。
じわわ……と涙を浮かべていたれんはぐしぐしと自身の手のひらでそれを拭いとった。その白くてきれいな手を見ると思わず握りたくなる。
抱きしめられる度に安心する肌だから。間違いなく蓮には心地よく安心させてくれるんだと思う。
うん、と弱々しく首を縦に振ったれんが、ちいさくちいさく何かを呟いた気がしたが……蓮には聞こえなかった。
何か言った?とれんに訊こうかとも思ったのだけど、喉から生まれるはずだった問いの言葉は得体のしれない“何か”よって阻まれた。まるでしてはいけないのだと……いさめるのではなくで、流水を必死に塞き止める岸壁のように。
ほとんど本能と言える判断で、蓮は問いかけを口にすることはしなかった。
「……蓮ちゃんは……」
「うん?」
なに?と問い返せば涙に濡れた、光を携えた……それはそれはきれいな瞳がそこにいた。ああ……嫌いで嫌いで、大嫌いな冬でさえも……れんは受け止めるんだろう……と漠然とながら思う。……まあ、冬が嫌いなのはれんではなくて蓮なのだけど。
くすり、と無理矢理に笑顔を見せながら、れんは蓮の頬を撫でて、首をちょん、と傾けながら訊いてきた。
「蓮ちゃんは……育ててくれたひととお兄さんが大好きなのね……」
「うん、大好………………!?ううぇうううっ!?」
その場の空気と言うか、流れと言うか……そう言ったものに流されてしまいそうな蓮だったが、意味に気付くやいなや奇妙な声を発し、ざざざざざと後ろに下がってしまった。思ったことはあれど言ったことはない、そんなくすぐったく、かつ照れくさい言葉をさらりと言いそうになった。流れでさらりと口にしそうになった自分に蓮の心臓はばっくんばっくんと大きく鳴る。
驚いた、と言うよりも……いや、やはり驚いたなのだろう。優以外にさらりとそんな言葉を口に出来るのは優くらいなのだと思っていたのに……まさかこんなところに優以外の強者がいるだなんて予想すらしていなかった。れんは初対面の頃からただ者ではないだろうと思ってはいたが……そんな、そんな……!
天の邪鬼な俺たちにはその言葉は中々言えないだろうなぁ……。
そう言っていた律の苦笑いを思い出す。その時はそんなことはないと思いっきり、全力で反発したが……正しくその通りだった。流されて口に出してしまいそうになっただけでこの慌てようで、動揺の大きさ。自分には口にすることは大難関な言葉なのだろうことをはじめて知った。
なんだ、この最強の言葉は……勝てる気がしない……!と蓮は全力でそう思う。身体中が火照っている自覚が充分にあるし、頭はぽーっとしていて働かない。れんに繋ぐ言葉は見つからない。
がたたたたんっ!といつも座るドラム缶から落ちて煉瓦の壁の端にまで無意識に逃げてしまった蓮をれんはきょとんとした顔で見ていた。……なんて恥ずかしいに恥ずかしいを上塗りしてしまったんだろう……、と蓮は己の行動を悔いて攻めた。
律も衝動的に動いてしまうのだと言う性格を治すのに時間がかかったのだと言っていた。今はじめて自覚したばかりの蓮にはそんな方法は知らないし、どうしようもない。
なんとか起死回生の方法を探ろうと頭を必死に巡らせる。巡らせる……が、きょとんとした表情で蓮を見るれんを前に……やはりそんな方法は思い付かない。
鮮やかな色を纏う上品な顔立ちのれん。彼女を前にすると情けないやらなんやらで……思わず口から「ううぅ……!」と妙な呻き声が顔を出した。これを抑えることも蓮は覚えなければならないだろう。
そんな蓮を見かねてか、れんはやがてくすくすと“あい”らしく微笑んで、定位置のドラム缶からふんわりと降りた。素足がざらざらのレンガ道に降りる。
蓮が渡した不格好な出来の白いブランケットがれんの動きに合わせてふわぁ……と広がり……それはとてもとても神秘的に見えて、この年中曇り空な町の中で唯一の陽を浴びた真っ白い雲のように思えた。
「……うん。行こう?」
「へ?」
ぺたぺたと、寒い中で歩いてきたれんは背中を屈ませて、すぅ……と手を伸ばした。
わずかな期待が、蓮が気付く前に膨れて、きらきらと世界を煌めかせた。
大嫌いな、大嫌いな冬の季節にこんなにわくわくするような気持ちになれたことが、今までにあっただろうか?
「遊びに行くんでしょう?」
「!……うん……うんっ!」
……いいや、今までにこんな感情を抱けた冬はきっとなかった。
蓮は満面の笑顔でれんの手をとって、元気よく頷いた。
遊びにいく場所は時々優と律とピクニックへと訪れる、見晴らしのいい小高い丘。
草だらけの道を進み、木々がたくさん存在する場所を歩いて歩いて、そう行くと登り道がある。そこにある古びた階段を登れば小さな町が見渡せる場所へと辿り着く。仕事柄、体力作りも兼ねて律とよく競争して駆け登るが、優は体力なんてないからゆったりゆったりと籠を持って上がってきていた。いつもはそんな感じで登るが、今日は蓮もゆったりゆったりと誰かが緩くつけた木の段をひとつひとつ登っていた。隣にはれんがいるからだ。
れんはれんで体力がもりもりあるようなタイプではないらしい。歩行も随分ゆっくりだった。
律のスーツを着たれんは……やはりと言うべきだろうか、大きめなスーツに着られてしまっていると言う表現がしっくりときていたれんは、ここまで来る道中、何人かの男性に声をかけられて苦笑いしていた。
優に聞いたことがある。男性の衣類をぶかぶかに着ている女性に妙な感情を抱いて声をかけてくる輩もいるのだから気を付けるように、と。
子どもだからか、そんな服を着たことがないからか声をかけられたことは一度もなかったが、れんを見ながら成る程と思った。確かにれんはきれいだし、鮮やかだし、その上気品のある空気を持っている。いつかラジオで聞いた“高嶺の花”と言うのはこのことか、と蓮はしみじみ感じた。そして心から腹が立ったのでれんに近づく輩を片っ端から薙いでおいた。全く腹が立ってしかたがない。れんは、今蓮と出かけているのだ。今はれんは蓮だけのれんなのだ。邪魔しないでいただきたい。
むぅ、としつつ次々とれんに声をかけてくる輩を薙ぎながら……最終的にはキリがないと判断した蓮はれんの手を引いて走ってここまで来た。
蓮には余裕はあっても、れんには体力の余裕はなく、人気のない階段の入り口で少し休んで、それからの今に至る。
蓮はれんの手を繋いで。
れんは蓮の手を繋いで。
互いに互いの手を繋いで。
にこっ、と笑いながらゆっくりと登っていた。頂上はもうすぐだ。
「あのね?ここはよく家族みんなでくるんだよ。ほとんど誰も来ない、秘密の場所なの」
蓮は得意気にそう話す。家族以外の人間嫌いな蓮のために優が探してくれた秘密の場所なのだ。
ここの階段を囲む木々はどこかの国の風物詩とされている桜と言う花が春には咲くのだと、蓮はれんにそう語る。
その他にも、ここの頂上は夜になると星がよく見えるのだとか、覚えてはいないが四季折々の花が咲くのだとか、今だって冬にしか咲かない花もあるだろう、とか。たくさんのことを手を繋ぎながら話し続けた。
そのひとつひとつにれんは優しく頷いてくれて、時々話しを膨らませるために質問や思ったことを口にしてくれたりして……蓮はとても嬉しかった。
ゆっくりゆっくりと歩いていたはずなのに、気付けばもう頂上に着いていた。
少しばかり古い木の柵がぐるりと囲むその丘からは蓮たちが住む町が悠々と見渡せ、鐘の塔も見渡せ、その先にある海すら見えた。
曇り空のせいで色は純粋な灰色であったが、本来は美しい色の海なのだそうだ。優がいつかそう言っていたことも蓮はれんに話した。
「そう……。……知らなかった……」
きっと蓮ちゃんよりも長く住んでいるのにね、とれんは純白な笑顔を見せて呟いた。
その笑顔があまりにも透明で……消えてしまうのではないかと、蓮はぞっとした。柵に置こうとしていたれんの手をくいっと引っ張った。
行かないで。自覚せずに蓮は強く強く願う。




